非推奨恋愛
K
第1話 種(しゅ)
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実は、金魚に恋をした。
そう言ったら、友人に「イタイ」と揶揄された。
流行の言葉で「見ていていたたまれないこと」という意味らしい。
初めて聞く言葉だ。
わたくしの主人はあまり、そういう言葉を使わないし、よその人とはあまり接する機会がないので、知らなかった。
こんなにも世間知らずだから、うっかり金魚に恋などするのかもしれない。
出会いは数週間前の、うだるような暑さの夜だった。
帰宅した主人は、水の満ちたビニルの袋を手にしており、中でひらひらと、朱色の金魚が泳いでいた。わたくしの目は金魚に釘付けになった。
主人が、夏祭りでとってきたのだと言った。
わたくしに留守番をさせておいて一体誰とお祭りになんか、と、たわむれに頬に爪を立ててみたけれど、主人はくすぐったそうにただ笑った。
わたくしにしても、相手が誰であろうが、どうでもよいのだった。
とうに、主人に対して興味は失せていたからだ。
ただし、嫉妬をするフリは欠かせない。
外面だけでも甘えてみせることが、平穏な日常を続けていくための秘訣だと、大人になると身に沁みるものだ。
その翌日、丸いガラスの金魚鉢がリビングの高い棚の上に設置された。
たっぷりの水と、水を清めるためのポンプ、清潔な砂利、小宇宙とでも呼べそうなそこへ、金魚はちゃぷんと投げ入れられた。
その日からわたくしは、金魚に……あなたに、夢中になった。
わたくしはあなたを、日がな一日眺めていられる。レトリックではなく、事実、そうしている。
ぽこぽことふくらみ、浮き上がっては弾け散る気泡。そのあわいを縫って、あなたは俊敏に泳ぐ。
あなたが壁面の手前で、くきっとUターンするたび、わたくしの背中はぞわりと総毛立つ。
今夜も、電気の点いていない暗いリビングで、主人の帰りを待つかたわら、わたくしはただじっと、あなたを眺めている。
妙な興奮を覚えて喉が鳴る。はしたなく、鳴る。
もどかしい気持ちで鉢にやんわり爪を立て、ガラス越しに、虚ろなあなたの両目を見つめる。
半球が盛り上がり、世界に対してむき出しになっている。どこを見ているか見当もつかない。
わたくしは、あなたの目に映っているのだろうか。映っているとしたら、どんな風に? ああもう、すぐそうやってそっぽを向く。
じれったくて、わたくしはガラスに鼻を押し付けた。
朱色の鱗は、よく見ると、一枚いちまいがそれはもうとても小さい。わたくしの爪の先よりも小さいくらい。
引っ掻いたらきっと、はらはらと剥がれるのだろう。触れようなんて無謀なことは、もちろん思わない。
そもそもあなたは、わたくしのものじゃない。主人のものだ。
あなたの世話も彼の役目で、わたくしにできるのは、こうして見つめることだけ。
恋をしたきっかけは忘れてしまった。
ただこの部屋に、あなたとふたりでいて、日に日に想いは募っていった。
我ながら、どうかしている。金魚なんかに。
でも、大きく育ったこの衝動を自分自身で無視することは、とても難しい。
まるきり造りが違う生き物同士、捌け口なんてどこにもないのに、こんなにも、あなたが欲しい。
あなたをわたくしの口の中にそっと仕舞い込みたい。くちいっぱいに頬張りたい。
はみ出すかもしれないから、なるたけ丁寧に。
呑み込んだりは、しないつもり。けれど、うっかり、が、ないとは言い切れない。
その時は、その時。
あなたを口に含んだら、背びれがひらひら、わたくしの口蓋を撫ぜるでしょう。
唾液の泉でエラ呼吸はできるのだろうか。唾液は淡水なのだろうか。塩みが少しある気がするから、あなたにはきっと向かない。でも、どうか我慢して。
あなたはきっと呼吸ができずに、はくはくと唇を開け閉めするでしょう。その度に、あなたの唇がわたくしの頬肉の内側を食むはずだ。少し、痛いかもしれない。あなたがくれる痛みならうれしい。
わたくしは喜んで、あなたの腹を舌先でなだめるでしょう。美しい鱗が一枚たりとも損なわれないよう、頭の方から尾の方へ、とろりと、舐めるつもり。
心地良いと感じてくれたなら、薄くたなびくその尾びれを、揺すって欲しい。
わたくしの尖りきった歯の表面と歯茎を、尾ひれで荒々しく叩いて欲しい。
それを、合図にしましょう。
合図があったらわたくしは、舌をあなたの尾びれに擦り付けて、そうっと、絡める。
微振動が、わたくしからあなたへ、あなたからわたくしへ、伝わり合うでしょう。
意識を集中して知覚しなければ気づかず取りこぼしてしまう、かそやかな震え。
鼓動が鳴っている者に平等に生じる微振動。
それは唯一、金魚であるあなたとわたくしの共通項。
舌と尾びれを擦り付け絡めたら、じっとしていましょう。
わたくしはあなたの微振動をあまさずに感じ取る。微動だにせず、享受する。
きっとわたくしは、はしたなくも、恍惚の中総毛立つ。
想像しているだけの今でさえ、ほらもう、こんなに。
思わず生暖かい息が漏れて、ガラス鉢の表面を曇らした。
あなたの顔がぼやけたから、わたくしは急いで、水蒸気を舌で舐めとった。
その時、ドアが開かれる音が響き、明かりが点灯した。
目がつぶれそうになり、まぶたを閉じる。
主人が帰宅したのだ。
ネクタイを緩めながらリビングへ入ってくる彼を目にした途端、不貞を見つけられたような気がして、羞恥がわたくしの全身を包み込んだ。
彼は満面の笑みでソファに座ると、手招きした。妙に上機嫌だ。
甘い声で名前を呼ばれ、はっとする。わたくしを、抱くつもりなのだろうか?
ソファの上で? あなたの、眼前で?
血が、さあっと冷たくなった。
あなたを容れることを想って湿りきっていた口内が、乾いていく。
あなたは金魚なのだし、あなたの視線を主人が気にするわけがないのだけれど、わたくしは堪え難い程の背徳を覚えた。
快楽のスパイスとしての背徳ではなく、純粋な、暗澹たる罪悪感としての背徳を。
主人の瞳にはすでに熱が宿っているように見える。
もう一度、名前を呼ばれた。逆らうことは、できない。
わたくしはガラス鉢に背を向け、主人を真っすぐ見つめ返した。
その時うしろで、ぴしょん、とあなたの背びれが水を叩く音が聞こえ、泣きたくなった。
でも、行かなくてはならない。わたくしは金魚ではないから。主人に媚びて、愛されて、生きていかなくてはならないから。そんな生き方しか、知らないから。
なんて悲しい。
友人に教わった言葉が頭の中で繰り返される。
確かにわたくしは、とても「イタイ」。
いつか、本当にあなたを口の中にしまいこんでしまうかもしれない。
わたくしの痴態を映したふたつの半球を、咀嚼して腹にしまいこんでしまうかもしれない。
そんな予感が、はっきりとした。
主人がまた、名前を呼んだ。
わたくしは震える声で、にゃーと返事をし、尻尾を垂らしたまま前脚を踏み出した。
終わり
2016.3.22 夜 作:ムール貝
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後記
※小説を一編書き終わったら、大事な読者の反応を忘れないよう、こんな感じでメモを残すことにする。
この短編の第一にして唯一の読者であるBの感想。「お前がイタイわwww」
私の返信。「ですよねwww」
上記のやり取りのあと、改めてメールでBに、「久しぶりに小説書く気になったのはまあ個人的にはよかったーって思うけど、あんたいったい頭の中どうなってんの? フェチなのはわかったけど、何フェチなのかがいまいちよくわかんないんだけど。ていうか『わたくし』って。。。話変わるけど、あれから、ご飯とかちゃんと食べれてる?」と、若干引き気味に心配された。
私としては星新一のショートショートのようなオチを狙ったのだけれど、ドンデン返しは不発に終わった上に、なんかきもい、という印象だけ残ったらしい。
なるほど、なかなか、伝わらないものだ。
仕方がないから解説(というか言い訳)をしたら、「そもそも猫が金魚に恋するって誰がどう共感すんの? 需要なくない?」と、ばっさりだった。
ですよねw、とは今度は返せなかった。
婉曲すぎるんだろうな、多分。
でもストレートな物語を、私は書けない。
書けないけど、どうしても吐き出して伝えずにいられないことが出来てしまったから、書くしかない。
婉曲な物語をいくつも折り重ねるように書き出して、ようやく伝えたいことに近しいものが、ぼんやり、浮き上がってくる気がしている。
ていうか、せめてそうじゃないと、書く意味ないし。
明日の夜は何を書こう。
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