死の群像3章‐2
彼はいつだって、誰にだって優しかった。
知的な雰囲気を持つ彼は、他の男と違って下心というものを微塵も感じさせず、彼女に近づいてきた。
はっきり言ってそんな彼に思いを寄せる女性は多かったし、『第一印象が良い人間にロクな人間はいない』を自分への戒めとしていた彼女は、最初は一定の距離を置いて彼に接していたし、惹かれることがあるだなんて思ってもいなかった。
しかし、彼女らは男女ではなく、一人一人の人間として接しあう内に、至極自然に溶け合っていったのだ。
全てを受け止めるかのような彼は、彼女の何事にも寛容で、口数は少なく、優しい笑みだけで彼女の全てを許した。
彼女の腕に傷を見つけた時も、彼は何も言わずそれに舌を這わせるだけで、一言も発しなかった。
彼女にとってそんな彼に溺れていくことが、とても気持ち良かったのだ。
力足りず彼女を引き止められなかった男を残して彼女はホテルを後にした。
外へ出ると歓楽街に不似合いな少年が、ふしだらな店の前で黄色い傘を差しながら立っていた。
母親でも待っているのだろうかと眺めていると、「お姉さん、濡れちゃうよ」と声をかけられた。
「春雨じゃ、濡れてまいろう。よ」
と返したが解らなかったようで首を傾げる少年に、彼女はそのまま違う言葉を続けた。
「こんな雨の中、傘もささずに歩く、そんな不恰好なことでも、意味はあるのよ。ほら、その傘を投げ捨ててみなさい、濡れるのが嫌だから、なんて理由で閉ざされていた空があなたの眼前に広がるでしょう」
「でも、雨が降っているのだから空は曇ってしまっているよ。それにこんな街の中じゃ、元より空は狭いんだ」
少年は怪訝そうにじろりと見つめたまま、言葉を返す。
「いいえ、人は遥か上を眺めて、青い所を空だと言うけれど、雨の落ちてくる様をごらん。彼等は地に落ちるまで、どこかの境界線を空だと認識しながら落ちてくるかしら。それがビルに阻まれていようと、雲がかかっていようと、私たちが顔を上げればそこは空には違いないでしょう」
彼女は手を広げ、全身で降る雨を受け止める。化粧も不細工に崩れてしまっているというのに、雨が滴る彼女は、とても美しかった。
「ほら、皆一様にして私たちのところへ落ちてくる。彼らと、都会の光が相まって、こんなにも綺麗に乱反射している」
「これを空と呼ばず、何と呼ぶのかしら」
空から視線を戻すと、少年は消えていた。
さして気にせず、満面の笑みで彼女はその街を歩きぬけた。
先ほど飲んだ抗鬱剤が効き始めるには早いが、彼女はとても上機嫌であった。
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