死の群像1章‐3
一日間を置いて彼はまた父親に会いに行った。
しかし玄関を入ると彼は面食らった。腐乱臭が漂い始めていた。
閉め切られた部屋の中で、まだまだ微かなものではあったが、動物性たんぱく質の腐るえもいわれぬ臭い。
台所は片付けたはずなのに……という馬鹿な考えを彼は一瞬で払いのけた。
秋も始まると言えど、残暑はまだまだ続いている。
何の処置もしていない父親の皮膚は、大きく変色し始めていた。
そろそろ潮時かな、などと考えながら彼はその部屋に投げ出されたままになっていた新聞包みを手に取り、そのまま不燃物として捨てた。
放り投げた際に、きらりと鈍く光る刃が、新聞紙からはみ出しこちらを向いた。
彼が頑なに拒まれていた父親を尋ねたのには、理由があった。
父親を、殺そうとしたのだ。
彼は社会に出た後、職に恵まれず、低賃金労働を強いられていた。
二度、転職をして飲食店で定位置を得ていたが、それも先日辞職した。
何が不満だったわけではない、どちらかといえば、不安になったのだ。
それまでは極一般的な社会人として、平穏に過ごしてきた。朝は早く起き夜は遅く帰る。
長い時間を仕事に費やし、得られる雀の涙で休みには遊びに出かける。
ささやかなその金銭で手に掴みうる悦びといえば酒と女。
分相応に生を享楽し、友か否か判らずとも酒を酌み交わす。
乱痴気騒ぎに酔いしれて、僅かな時間を消費する。酒だけではなく、夢にも酔った。
何になりたいだとか、何かをしたいだとかいう具体的な夢ではなく、幸せになりたい、という愚かで身に合わぬ夢を見ること。その事自体に酔った。
貧乏の中で真面目に育てられた彼は、想像力の欠如という致命的な損害から逃れられず、しかしそれは彼の不条理な人生の重要な歯車で一つであったのだ。
だが、そんな恍惚も、思考という冷水をぴしゃとかけられれば、しらふに戻ってしまう。
そして彼は運悪くも、頭からそれを被ってしまったと言っていい。
独りでは酔えぬ酒の吐き気に、脳を小突かれ、止まっていたはずの思考がくるりと動き始める。
何も無い、という思考が。
ひたすらに何も無い、砕かれるための希望も無く、潰える夢も実々には無い。
あるのは虚勢と、見栄と、誤魔化しと、肩書きくらいのものであった。
多くの人が行き着くその思考にフンと鼻を鳴らし、人生はそんなものなのであろう、と程度の悪いニヒルを振りまいて日常に戻れるならば良かった。
しかし、彼にはその非日常から抜け出す術など、今までの人生で知りえなかった。
生まれのせいか、貧乏のせいか、不幸であるのか、怠惰であったのか。
その虚しさは考えれば考えるほど、怒りに変わり、その矛先は自然と父親に向かったのだ。
だから彼はあの時懐に包丁を忍ばせ、父親の家へ出向いた。
それは何かを変えようなどという前向きなものではなく、彼が息子としてあるべき、ただの駄々であった。
しかしそれにさえ応えてくれなかった父親は、ぶらりと傍目には情けない姿を晒しながら、彼の中では厳格な姿を保ったまま、この世を去った。
「なあ、お父さん」
彼は、腐りゆく父親と会話をし始めた。
こみ上げる苦しみと哀しさを抑えるために、誰かと話がしたかった。
そして話し相手として、最高の相手が、目の前にいた。内容は主に思い出の話であった。
飯粒を残して怒られた話だとか、何かと意見が食い違い言い争いをした話。
本を読んでいる父親を真似をしたり、煙草を吸うふりをしてみたり。
彼にとって父親は憧れであった。だから、この思考も実に自然なのかもしれない。
二人の会話を遮るように猫がにあ、にあと鳴く。
木戸を開けて空を見上げると、高い空にうろこ雲が伸び伸びと泳ぎ、金木犀は鼻を突くほどに香り高い。
人気も無いのに何処からか流れてくるラジオからの音楽は、人がまだ季節が変わることを名残惜しむように、軽快なナンバーが流れてくる。
少年たちはやり終えた花火を片付けもせず、ひとつのシンボルのようにそれを夏に置いてくる。
祭のゴミは早々に片付けられるが、そこに残る黒いしみは人が忘れ去るまで消えやしない。
ツクツクボウシも鳴き終えて、せみの抜け殻は風と共に解け、土へ還る。
彼は生き生きとやってくる初秋に辟易しながら、残り少なくなってきた缶詰をいくつか開けた。
幼猫たちは嬉々としてそれに飛びつくが、親猫はこちらを見つめるだけであった。まるで彼の気持ちを見透かすかのように。
彼は一端が切られた麻縄を手に取った。
脚立が、大きな音を立てて倒れた。
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