死の群像1章‐2

 翌日、彼は車に脚立を積んで再度父の家へ出向いた。

彼は昨日から何も考えていなかった。しかし動転して考えられなかった、というわけでもない。

父親の突然の死という事象は、彼の心に波打つわけではなく、むしろ彼をとても落ち着かせていた。

生きているということで起こるしがらみや、苦しみや、煩わしさ、そんな感情の流れを、ぴたりと止めてしまった。

だから彼は今、力なくぶら下がるその男に向き合う他無いのだ。

 痩せて軽くなっていたとはいえ、大の男を一人で降ろすのは重労働だった。

額に汗を滲ませながら、やっとのことで降ろし終えたものの、どうするべきかわからず、押入れにしまってあった布団を引っ張り出し、その上に寝かせた。

静かに目を閉じさせ、傍らに座り込み、その寝顔をしげしげと見つめる。

すぐに『どういう気持ちで』や『何故』などという想いがこみ上げてきたが、すぐにそれが自身の本心でないことに彼は気付いた。そんなこと知ろうとはしていない。

この父親ではなくなったものに対して、どう接すればいいのかがよくわからなくなっていたのだ。母親が死んだ時はこうではなかった。

病死で、心の準備も出来ていたことには出来ていたし、彼の心身環境も今とは違っていた。

悲しみがこみ上げ、涙が出てきたし、母の死に対し、彼の行動はとても自然であった。

しかし、それがない。父の死に対してこみ上げてくるものは、何故か見知らぬ死を眺めるような、奇妙な罪悪感だけであった。

現実味がないのだろうか。目の前に死体がある。

脳裏に焼きつくほどに眺め、もはや忘れることなど到底出来ないであろう親の顔が今、目の前で死んでいる。

そのことを受け止められないでいるのだろうか。

おそらくそう考えるのが自然であった。

だがしかし、その答えも彼にとって納得のいくものではなかった。

もやもやした、気持ち悪い胸の支えがとれぬままふと、手元にあった遺書を手に取った。


 もう何もない。わたしの意志も尊厳も、生きるためにはかりうりにされていく。

 足をうしなった。職をうしなった。力をうしなった。

 金も尽き、気力も尽き、やがて頭も尽きるだろう。

 からだから死臭が漂っている。

 このままくされて死んでいくのだろうか。

 管付きにはなりたくもない。

 だからせめて、このしわだらけの手に残ったわずかな財を

 にぎりしめたまま、死なせてください。


 それはとても整った字で書かれていた。

おそらくここに辿りつくまでに、様々な苦悩もあったろうが、この時には彼の父の心は死に向かいただ真っ直ぐに、淀みなく進んでいたのだろう。

そしてただ単に一連の作業のとして、その感情の幾許かを記すためだけに、筆を執ったのだ。

彼はここで初めて、喉の奥が燃えるような感情の揺らぎを起こした。

涙こそ流さなかったものの、喉の支えの意味を理解した。

死体など、なんの問題でもなかったのだ。いくらショッキングな死体に出会おうと、腐臭が漂おうと、そんなもの、なんでもないのだ。

父の言葉を聴いて、初めて父の死に直面した。

それは産んでくれた母より強く繋がった、より近いものにしか感じ得ない、出会いであった。

彼は抑えきれない複雑な感情の滾りを、生唾を飲み込み腹の中へ押し込んで、遺書をしまった。

ゆっくりと立ち上がると台所でまた煙草を喫むと、様子を見に来ていた庭の猫たちにまた缶詰をやり、家を後にした。

 その夜、彼は夢を見た。金縛りに合う夢だ。

金縛りに合ったわけではなく、一見自分の寝室のような場所だったが、家具の配置や微妙に違っていたり、消して寝たはずの灯りが点いていたりしたので、その夢を見てすぐ、そこが夢であることに気がついた。

最初は退屈な夢だった。何も起こらない、いつもと少し違う景色の中で、ただ、体が動かない。

目だけは動かせるのである程度見渡せるが、ただ時間が流れていくばかりである。

しかし、しばらくすると景色に変化が現れた。

いつのまにか、彼の寝室で父親が首を吊っていた。父親はもがき苦しみ、足をばたつかせながらやがて、動かなくなった。それは霊とも言いがたく、まるで実体のように現実的であった。

寝覚めの悪い頭で、「きっと怖がっているんだろう」と思った。

彼は恐怖していたのだろう。父親が死んだことに、それを間近で感じられることに、死という現象に。そしてそれと自分が、照らし合うことに。

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