第3話

 僕と恩司郎はその後も何度か会った。周りから姿の見えない僕と喋っているのを見られたくないと言って、昼間でもあまり人が来ないところへ連れ出したりしたけど、それは僕の知らない場所ばかりだった。僕はこもりがちな性格だったから。

 恩司郎と会って話ができる時間は楽しくて嬉しい。だけど、どうしようもないことだけど、僕と恩司郎は同じようには過ごせない。恩司郎は生きていて、僕は一度死んでいるから。

生きている間に恩司郎と会えたら良かったのに。関係が深まるごとにそんな思いが強くなっていった。

生きている間にもっと会えたらっていう気持ちが強くなった人はもう一人いる。僕のお父さんだ

僕が中学校を卒業する頃から単身赴任で遠くに行ったきり、ほとんど帰ってきていない。お母さんはずっと前に家を出て、記憶がなくなるぐらい会ってない。僕の事故はそんなに大きく扱われたわけじゃないから、もしかしたら死んだことさえ知らないのかもしれない。

お父さんとはあんまり話をした記憶がない。お母さんがいなくなって生まれた、父と息子二人きりの空間で、お互いにどうしたらいいかわからなかったんだと思う。今にして思えば距離を縮める努力から始めたら良かったって後悔もあるけど、それをする前にお父さんは遠くに行って数えるほどしか会えなくなったし、僕も死んだ。高校から報せぐらいは行ってると思うけど、まだ来たところを見てない。

仕事が忙しいんだろうか。それだったらまだいい。僕やお父さんに問題があるわけじゃない。だけどそうじゃないとしたら。本当は帰ろうと思えば帰れるのに、献花台にまで来るのを避けていたら。

「さあな。俺はお前のおやじのこと知らないし」

 人通りの絶えた時間に胸の内を語った後、恩司郎は至極もっともなことを言った。悩み事に対する返答としては最低だけど、恩司郎らしくていいと思う。僕が知った恩司郎は嘘とか気休めとかを言わない。

「でも普通は手が空いたら来るだろ。親といて嬉しかった記憶が、生まれてこの方一度もないっていうなら別だけど」

 恩司郎の言葉はよく僕の古い記憶を呼び起こす。そうやって表れた記憶はお父さんとボールを蹴っている姿だった。傍らにはお母さんがいる。何だか芝生の上でそんなことをしていた気がする。

 家に帰るとお母さんがいることがほとんどだったけど、時々お父さんがいる時がある。その時ちょっと嬉しくなって笑った。何に喜んだのか今もわからないけど、僕はあの時お父さんがいて良かったと思った。そんな記憶が確かにある。

「来てくれるかな」

「見ず知らずの連中でさえ来てるんだ。親なら来るだろ」

 僕は恩司郎の言葉を深くは追及しないことにした。どんな意図があっても、大事なことはお父さんが献花台に花を供えにくるかどうかだから。

 不意に目眩がした。ガードレールから滑り落ちそうになる。

「眠いのか」

 僕は首を振った。

「最近よく目眩がするんだ。幽霊も疲れたりするみたいだけど」

 恩司郎は幽霊のことについて深く知ってるわけじゃないから、答えは期待しない。だから返事が明確だったのは意外だったし、その内容にも驚かされた。

「ああ、そりゃ生まれ変わりが近いせいだろ」

 僕は言葉を失った。生まれ変わりって、どういうことなの。訊こうとして言葉が出てこない。

 恩司郎はそれ以上語らなかったけど、突然示された言葉が気になって、僕は突っ込んだ。

「どうしてそんなことわかるの」

「何度か幽霊と話をしたことあるけど、消える前にみんな目眩がするって言うんだよ。そのうち俺の前から消える。お前にもその時が来たってことだろ」

 恩司郎はあくまであっけらかんとしたものだけど、僕はまた何も言えなくなる。消えるってことは、何か思い出したり話したりできなくなるってこと。だとしたら、嫌だ。

「止められないの?」

 恩司郎に訊いても仕方ないと思いながら僕は言った。案の定彼は知らねえ、と言った。

「俺は霊界案内人でもなけりゃ、怨みの門の番人でもないからな。そもそも何でお前が幽霊になったのかも知らない」

「死んだらみんながそうなるんじゃないの?」

「だったらもっと幽霊がたくさんいるだろ」

 確かに幽霊として自覚が出てから、一度も同じ幽霊と出会ったことはない。だからこそ僕は孤独を感じたんだけど。

「だったら何で生まれ変わりがあるなんてわかるの」

 恩司郎は人間が死んだ後のことについてほとんど知らない。それなのに生まれ変わりについては断言してる。ちょっと変だった。

「何でとか訊かれると困るけどよ、俺にはわかるんだ。相手は覚えてないんだろうけど、俺にはわかる。前に話をした奴が生まれ変わって別の命になってるってことが。人間になるとは限らないみたいだけど」

「輪廻転生ってやつ?」

「さあね。そういうのがあるとしても、システムみたいなものも俺にはわからない。だけど一つだけ言えることがある」

 恩司郎は急に真剣な顔をした。僕も同じように表情を改めて向き合う。

「お前が俺を忘れても、俺はお前を忘れない。友紀っていう幽霊と星の下で話したことを忘れはしない」

 恩司郎と出会った後、一番強く覚えていることを、恩司郎が忘れないと言ってくれた。僕はそれだけで、幽霊として現世に留まった意味があると思えた。

「ありがとう」

 もう誰かに言えないかもしれない言葉が、目元が熱くなるのと一緒にこぼれ出た。


 日を追うごとに僕の目眩は間隔が短くなった。

 特に苦痛はないし、目眩が起きる時間も短い。だけどこれが、自分が消えてしまうカウントダウンみたいなものだと思うと恐い。

 僕はずっと献花台から動いていない。雨が降った日もあるし、風が強い日もある。だけど動かずにいた。もしも動いてしまって、その瞬間にお父さんが来たら、もう会うことは二度と叶わないと思ったからだ。

 お父さん。僕はその人に来てくれたらって、最初から思ってたわけじゃない。最初に来て欲しかったのは、もしかしたら僕のことを好きでいたかもしれないクラスメイトで、誰か一人でも来ればあの教室にいる意味もあったって思えたはずだ。

 だから代わりのようにお父さんを求めるような気がしたけど、再会まで時間がないってわかると会いたくなった。僕にはそういう身勝手なところがあるみたい。だから友達もできないまま死んでいく羽目になったんだろうけど。

 お父さんが来たって僕には何もできない。ここで何かするだろうけど、それを見つめるしかできない。恩司郎みたいに幽霊を見ることができて話ができる人はとても希だ。

 恩司郎。そういえば生まれ変わりの話をした時から見ていない。バイトを掛け持ちしてるらしいから忙しいんだろう。初めて向かい合って喋り、友達と認め合った人が来なくなったのは寂しいけど、恩司郎は生きていて僕は死んでいる。それも間もなく現世から離れていく幽霊なんだ。幽霊が生きてる人を縛り付けちゃいけない。恩司郎が楽しそうに生きているのを見て、交差点を朝夕通り抜けていく高校生たちを見て、僕は思った。

 目眩は一日に何度も来る。痛みはない。苦しくもない。時々バランスを崩してガードレールから落ちそうになるけど、落ちたところで痛くない。恐れることは何もない。

 何もないはずなのに、僕は目眩が襲ってくるたびに恐くなる。その目眩を最後に、僕は生まれ変わってしまうのかもしれない。お父さんの息子として生まれ、恩司郎の友達として存在した僕は、また違う命に変わってしまう。恐くて悲しい。それは、二人といた時間の中に楽しくて嬉しい時間があったからだ。

 やがて目眩は数十分間隔で来るようになる。別に説明は受けてないけど、生まれ変わりが近づいているとわかってる今、この変化こそ生まれ変わりへの加速なんだろう。こうして現世を、生きている間と変わらずに孤独を抱えながら彷徨うのは苦痛のはずだ。生まれ変わりはそんな苦痛から逃れられる、喜ばしいことのはずだ。

 だけど、あともう少し、もう少し待って。僕は祈りを込めて胸の内で何度も呟き、目に見える景色が歪むのを見ないようにきつく目を閉じて体を丸めた。

 そうすると体が揺さぶられるような感じだけ残る。だけど他の感じがなくなる。

 僕は目を閉じるのをやめた。生まれ変わる瞬間まで前を見て、お父さんを待つことにした。目を閉じて、恐いことから逃げて、最後の最後まで後悔したら、僕は何のために待っているのかわからなくなる。

 雨が僕の体を通り抜け、日射しも透けて影さえ作らない。

 そんな日々の後のある夜、ふらりとシャツ姿の人が現れた。

 その人は通り過ぎるつもりだろうかと思って特別注意を払わなかったけど、足を止めた時に気がついた。花を一輪持っている。そしてその横顔、とても疲れたように隈が出来ているし、やつれて見えるけど、僕の嬉しい記憶の中にいるお父さんの顔だった。

 お父さんは花を一輪供えてしゃがみ込んだ。何も言わず、両手を合わせていた。言葉を連ねないのはお父さんらしい。だからお父さんが思ってることを全部理解できるわけじゃない。だけど僕は、お父さんが全身で謝っていることを、足元の雫でわかった。

 お父さんは僕がいたことを忘れてなかった。だからここに来た。

 お父さんは一生懸命働いていた。だから疲れ果てた顔をしている。

 僕はお父さんの息子だった。僕の胸にそんな気持ちが生まれてる。

 目眩が来た。

「――――」

 僕は何か言っただろうか。言ったとしたら、それはきっと、こうだろう。

 ありがとう。

 その言葉の真意はきっと、こうだ。

 僕のために来てくれて、みんなありがとう。


 ぼくの家にはおとうさんとおかあさんがいる。だけど二人とも忙しいみたい、隣のへやの子たちより早く起きて、ほいくえんってところに行ってる。そこでおとうさんかおかあさんがおむかえに来るまでまってる。

 おとうさんとおかあさんがいないことがいやで、会いに行こうとしたことがある。すぐにみつかってせんせいにすごくおこられた。こんなところにいなくたっていいじゃないかっておもったこともある。

 だけどおとまりかいをしたとき、となりのふとんでねることになった子と何だかよく話すようになった。ぼくはじぶんのなまえを言うと、あいても答えてくれた。目に見えないし、手に取れない。おかしとかおもちゃみたいにおいしくもないし、たのしくもない。だけどその子といるとおとうさんとおかあさんがいるみたいな気持ちになる。ぼくはだんだんその子のことが好きになって、先生といっしょにおさんぽにいくとき、いつもその子といっしょに歩くようになった。

 その子とはいろんなことをした。たこあげのたこもいっしょにつくって糸を引っ張ったし、ひろいグラウンドをいっしょにはしりまわった。いつか小学校へ行くってわかったとき、いっしょに行けるといいっておもって、それがかなった時、安心したしうれしかった。

 そつえんってことをしなくちゃ小学校にはいけないらしい。その日が近くなった時も、ぼくとその子はいっしょにあるいていた。

 かえりみちのことだった。大きなおとこのひとが向こうからやってくる。

 みんなわきによけていくけど、ぼくはどうしてかそうしなかった。

 よくわからないけど、その人となにか話したくなったんだ。

 だけどことばがでてこない。ぼくは立っていた。せんせいがわきによりなさいって、ちょっとおこったように言う。いつもはすぐせんせいの言うことはきくけど、そのときだけ聞けなかった。

 大きなおとこのひとは止まった。見下ろしたまま、口をひらいた。

「よかったな。ともだちができて」

 それはぼくのとなりの子にも言ってるみたいだった。

 せんせいはそのおとこのひとに何か言ってたけど、男の人は手を振って歩いていった。

 ぼくはそのおとこのひとを追ったけど、ぜんぜんおいつけない。

 すぐにうしろから先生にひきとめられた。

 なにか言わなくちゃって思う。ぼくはおぼえたばかりのことばをえらんだ。

「またね!」

 それはいちどわかれたひととまたあうためのまほうのことば。

 おとこのひとはとまった。

「おう!」

 どうしてだろう。ぼくはそのひとのえがおがとてもすきだとおもった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

じゃあまたね haru-kana @haru-kana

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ