第2話

 地縛霊とか浮遊霊とか、誰が考え出したんだか知らないけど、僕みたいな幽霊を指す言葉はいくつかある。僕が死ぬ直前まで読んでた漫画には何度も出てきた言葉だ。

 漫画の設定に従うなら、僕は浮遊霊と呼ばれるんだろう。地縛霊は死んだ場所から動けない幽霊を指すそうだから、自由に動き回れる僕は違う。

 だけどここ最近、僕は地縛霊になった。高校生が登下校する時でなければ誰も通らないような道に、朝も昼も夜も、ずっといる。

 僕は待ってる。あの男の子がまた花を供えに来てくれるのを。

 幽霊になってから初めて出会えた、僕の言葉が通じる人を。

 その間雨が降ったり強風が吹いたりして、花は容赦なく散らされた。

 花を供える人もなく、僕の事故現場は寂れていく。

 僕は待った。でも希望を信じられなくなってくる。

 ちゃんと約束したわけじゃない。来なくたって僕に責める権利なんかない。

 だけど、寂しい。何か怒りたくなる。

 僕は身勝手だ。相手の立場になったらすごく嫌な人間に見えてくるだろう。

 感情的になった時のことを思うと怖くなる。相手を怒らせるか、拒まれるか。それを見なくて済むなら、いっそ会わない方がいい。

 だけど会いたい気持ちはどうしても消えない。風で飛ばされた花が車に踏まれるのを見たのをきっかけに、僕は立った。

 最初に駅前の交差点に向かった。あの男の子のことなんて何も知らないけど、来ないならこっちから会いにいくしかない。趣味は何? どうしてあんな派手な格好ができるの? バイトは何をしてるの? 他の幽霊を知ってるの? 今までどうやって生きてきたの? 探し求めるうちに訊きたいことが言葉になって、溢れそうになる。

 だけど高校の最寄り駅はそれなりに大きな駅で、別の路線も乗り入れてる。乗降客も多い。派手な格好の男の子はたくさんいる。

だけど探すしか会う方法はない。会って話すことができたらって思い描いてる。

 何日か歩き回って探した。僕自身の足で回れるところなんてたかが知れてるけど、フリーターと言ってたからコンビニでレジを打ってるかもしれない(バイトっていうとそれしか知らないんだ)。駅の周りのコンビニをしらみつぶしに探して、時には事務室まで入っていった。そこで店員らしい二人(男と男)が抱き合ってるところに出くわした時はびっくりした。ああいうことをする人たちが本当にいるんだって。

 だんだん大胆になってきて、事務室やフリーザーの裏側にも平気で入れるようになったけど、結局見つけられなかった。

 何日も同じことを続けるのは疲れる。幽霊が疲れるって何か間違ってる気がするけど。

 心も疲れてる。会いたい人に会えないってことがこんなに疲れるなんて知らなかった。

 もう二週間ぐらいコンビニを探し回ったと思うけど思うような成果が出ないから、ちょっと休もうと思った夜のことだった。

 枯れた花が惨めな姿をさらしてる事故現場に戻ってみた時、前を走り去る影があった。

 その横顔が、あの男の子によく似てた。

 ただ急いでるだけには見えなかった。やばいなって気持ちが読み取れるような顔だった。

 ちょっと遅れて何人か走り去る。その時の横顔は怖かった。明らかに怒っていて、睨まれたら間違いなくお金を渡して逃げちゃうと思う。

 あの男の子を追ってるんじゃないか。そう思った時僕は彼らの後を追いかけた。

 足の速さじゃかなわない。だけど僕は誰にも気づかれず壁や建物をすり抜けられる。コンビニの事務室やフリーザーの裏側にもそうやって入ったんだ。

 彼らが走り去った方向へ直進していくうちに、僕は男の子を見つけた。後ろを振り向いた時、目が合った。

「悪い、話をしてる場合じゃねえんだ」

 そう言って男の子は走り続けた。やっぱり危ないことに巻き込まれてるんだ。

 そこは路地だった。この辺に土地勘があるみたいだけど、相手も同じみたいで、ほとんど迷わず突き進んできた。

 ゴミ捨て場もある。きっとマナー違反なんだろうけど、資源ゴミが置いてある。

 僕はその中の一つ、ビールの空き瓶を掴んで叩き割った。

 砕け散った瓶の様をそのまま表すように甲高い音が響き渡る。三人組が急に足を止める。さっきまでの怒りの表情が消えて、怯えた顔に固まってる。

 僕は気分が良くなってもう一回同じことをした。今度は短い悲鳴まで引き出せた。

 鋭い凶器と化した瓶を両手で振りかざして、ゆっくり歩み寄る。僕の姿は見えないから、凶器が浮いて近寄ってくるように見えるはずだ。

 相手は怖がってるけど、逃げてくれない。真ん中の一人はドスの利いた声で喚いてる。

 僕は瓶を叩きつけた。けがをさせるつもりはないから離れたところに投げつけたつもりだけど、足元へ飛んでしまった。

 三人組は揃って足と腕を上げ、顔と体を庇った。その後顔を見合わせて、逃げ去った。

 僕は大きく息をつき、そして座り込んだ。情けないけど腰が抜けた。喧嘩もしたことがなかった。争いが嫌いだから、優しいから。そういうふうに小学校の通信簿に書かれたことがある。それはとても聞こえがよくて僕の長所だって思ってた。

 そんな僕が、手出しされないってわかってたとはいえ、争った。暴力的なことをした。ずっと会いたかった、名前も知らない男の子のために。死んだ後で自分のこんな力に気づくなんて、ちょっと惜しいな。

「そうだ」

 あの男の子はどうなっただろう。ずっとまっすぐ走っていったみたいだけど。

 ここまで来たら逃がしたくない。会いたい。会って話がしたい。ずっと避けてきたことをしてまで助けた人のことを知りたい。

 僕は男の子が走った方へ走り出した。壁も建物も構わず突き抜ける。家とか店の中で知らない人たちがやってる色んなことを覗くことになったのを済まなく思いながら、僕は走った。真っ直ぐ進むだけで会えるとも思えなかったけど、下手に道を替えるときりがない。

 どうやら僕の考えは功を奏したようだ。ちょっと諦めかけた時、暗い道を歩いてる彼を見つけた。

「さっき瓶の割れる音がしたけど、お前か?」

 上目遣いで用心深く訊いてくる。どう答えたらいいだろうって思いを巡らせるけど、嘘をついても仕方ない。僕はありのままを話した。

 すると悪いなあ、と音を立てて両手を合わせた。

「俺の事情に巻き込んだみたいじゃねえか。ホントごめん」

「でも僕、見えてなかったみたいだから。心配ないと思うよ」

「それもそうか。ありがとな、助かったよ」

 男の子はぱっと表情を変えた。さっきまで気になる表情をしていたと思えば、今は無警戒に笑ってる。こんなにくるくる表情の変わる人と話したことは今までなかった。

「一体何があったの。とても普通じゃなかったけど」

「肩がぶつかったからってインネンつけられてさ、俺もわりかしキレやすい方だからつい手が出ちゃってさ。やばいと思って逃げてたらお前に助けられたってわけ」

 あまり深刻に捉えてないみたいに、彼はずっと笑顔だった。繰り返すけど僕はああいう人たちに睨まれたらお金ぐらいすぐに差し出すと思う。そういう目に遭ったことはないけど、もしもあったらとても笑い話にできない。

 僕とは全然違う人種。だけどどうしてだろう、僕は劣等感も恐怖感も抱かずに話せてる。

「でも何で俺を助けてくれたわけ? 見返りがあるように見えるか?」

 彼は両手を広げて言った。派手な格好は相変わらずだけどあまり高そうには見えない。

「僕が知ってる人を助けたらいけない?」

 言った瞬間何か覚えがあるような気がした。同じようなことを誰かが言った気がする。

 彼は小さく声を上げて笑った。

「そうだったな。いけないことなんてないよな」

 彼が笑い出した理由はわからないけど、無邪気な顔には自然と笑い返すことができた。

「まあとにかく、お前に助けられたよ。ありがとうよ。ひ弱に見えるけど結構お前勇気あるな」

 そう言って彼は頭を下げた。情けないけど僕は応じ方がわからなかった。誰かに感謝されることなんて、昔はあったのかもしれないけど記憶がないし、高校に入ってからは皆無だった。

 まして勇気があるなんて。生きている頃は色んなことを避けてきたから、無縁の言葉だった。

「幽霊だからできたんだよ」

 それは本当だと思う。幽霊だから手出しされる心配はない。そうでなかったら、瓶を叩き割って恐そうな人たちに迫るなんてできなかったはずだ。

「まあ何だっていいけどな。お前が一度会ったばかりの奴のために助けたっていうのは本当のことなんだから、謙遜するなよ」

 彼は僕の肩を叩こうとしたけどすり抜けてしまって転びそうになった。ばつが悪そうに笑う。どうやら彼は、僕のことを見たり喋ったりはできるけど、触れることまではできないらしい。

 どこかで唸るようなエンジン音が聞こえた。彼との話に引き込まれていた僕ははっとなった。

「じゃあな。久しぶりにタメと話せて嬉しかったぜ」

 音に目を向けている間に彼は踵を返していた。僕はその背を追った。引き留めたいと強く願った。

 すると彼の手首を掴むことができた。

「待って。まだ名前を訊いてない」

 いずれ会えなくなる日が来ても、名前さえ知っていればより鮮明に記憶を思い出せる気がした。

 彼はちょっと驚いた顔をしていた。驚いたというより、予想外って感じの顔だろうか。変なこと訊く奴だなって顔で語ってる気がした。

「僕は知りたいから。僕は友紀。君は?」

 それは初めて自分の意思でした自己紹介だった。新しい学校やクラスになる度に繰り返された自己紹介は、先生の号令でやらされた通過儀礼に過ぎない。僕は僕の意思で、誰かに僕の名前を知ってもらって、更に深いところまで知ってほしいと思ったことはない。

 彼はまだ表情を変えてなかった。ひょっとして白けてるんじゃないか。ちょっと恐くなったけど、彼は笑ってくれた。

「幽霊って奴は寂しがり屋が多いな。いくら自分のことが見えるからって、見ず知らずの奴のことを知りたがるなんてな」

「今は君しか僕と話せないから」

「わかってるよ。恩を司るって書いて恩司郎だ。そのうちまた花を供えに行ってやるから待ってろよ」

 この前よりもはっきりと聞かされた言葉に、僕は彼のことを信じて待ってみようと思った。もうしらみつぶしにコンビニを探さないようにしよう。

 ああ、彼じゃない。恩司郎っていうんだ。

 他人にやれと言われてやった自己紹介じゃなく、僕が心から望んで名を名乗って、返答として受け取った名前。どんな贈り物よりもきれいで温かい。

 次に会ったらその名を呼べるだろうか。僕の名を呼んでくれるだろうか。

 僕は初めて人と会うのが楽しみになった。


 はっきり待ち合わせ場所を決めたわけじゃなかったけど、僕は恩司郎と初めて会った事故現場で待つことにした。二人が知っている場所は他にない。

 正直僕は心配だった。この前も会おうと言ってなかなか来なくて、僕は街を探し歩いた。

 あの時はちゃんと約束したわけじゃない。でも今度は花を供えに来ると言った。恩司郎が見た目通り無邪気で明るい人ならいいけど、屈折した人だったら来ないかもしれない。そんな気持ちにとらわれるとまた街を探し回りたくなる。この前みたいな偶然を信じて、僕の方から会いに行きたくなる。

 だけど今信じるべきなのは偶然なんかじゃなくて、恩司郎の言葉だろう。恩司郎は来る。花を供えにやって来る。その時僕が、彼を信じ切れずに街を探し回っていたらすれ違うことになる。

 恩司郎は来る。そう信じ続けて、やっと来た。四日が経った日の夜だった。

 初めて会った時のように、花を供えて無邪気な笑顔を見せてくれた。

「来てくれたんだ」

 信じていたはずなのに、心のどこかに来ないんじゃないかって疑いがあった。それが口に出ちゃったのが恥ずかしい。

「まあな。嘘も気休めも言わないことにしてる」

 恩司郎は別に気にした様子もない。細かいことにこだわらない性質ならありがたい。人付き合いにおいて色々なものが足りない僕は、他人に対して失礼なことをするかもしれない。死ぬまでそれを怖がっていたから、この献花台に見知った人が来なかったのかな。

「顔が暗いぞ。せっかく来てやったのにつまんなそうな顔するなよ」

「ごめん、思い出すことが色々あって」

「幽霊も悩むんだな」

「知らなかったの?」

「別に幽霊の研究をするほどマメじゃねえよ。仕事でもボランティアでもないし」

「じゃあどうして」

「ほっとけないから……って、この話前にもしただろ」

 恩司郎はぱっと笑い顔になった。

 そう言えば最初に会った時もこんなことを話した気がする。僕が寂しそうにしているからほうっておけないと言って花を供えに来た恩司郎が、嬉しいと同時に不思議な人にも見えた。そして何を考えているんだろうって、疑う気持ちもあった。でもきっと、恩司郎のことは信じられる。ただ僕に寄り添うつもりで来たんだ。

 色々訊いてみたいことは他にもあったけど、不意に恩司郎が歩き出した。

「どうしたの」

 恩司郎は後ろを見ろと言った。

 献花台の前を何人かの人影が固まって歩き去っていく。

「一人で喋ってるところを見られて平気なほど、俺は図太くねえよ」

 恩司郎と普通に喋っているとつい忘れてしまう。僕は他の人には見えないってことを。

「あっちにいいものが見られる場所があるんだ。この前のお礼に見せてやるよ」

 恩司郎が指したのは、僕が全然行ったことのない方向だった。

 市名の表示板の下をくぐり抜けて歩き続けると、やがてそびえ立つ土手が見えた。その向こうに何があるのかって想像したくなるような高さで、一度見たら忘れないような印象深さだったけど、見覚えはないから今まで見たことはないんだろう。ずっと同じ街で生きてきて、まだ知らない場所があったのは驚きだった。

 その高いものが土手だと見えたのなら、その向こうには川が広がっている。それはある程度予測できたけれど、街灯とかはここまで届かないみたい。月明かりがないせいで、土手の上に立つとそこで足がすくむぐらい真っ暗な景色が見えた。

 これ以上僕は死にようがないからいいけど、そうでなかったらとても前に進む気にはなれない。恩司郎が心配になったけど、彼は構わずに歩き出した。

「来いよ。川辺は結構広いぜ」

 恩司郎は怖がる様子もなく降りていった。

 僕も彼を追う。芝生の感触がずっとある。

 やがて恩司郎は足を止めた。そこで不意に腰を下ろし、仰向けになった。

 僕は恩司郎が何をしたいのかすぐにわかった。

「こんな場所があったんだね」

 僕は感嘆した。僕の街はそれほど田舎ってわけじゃないと思ってたけど、光っていうのはそんなに遠くまで届くものじゃないらしい。ちょっと歩いただけでこんなに暗い空が見えて、それなりに星が見える場所があるなんて思わなかった。

「山の中ほどじゃないだろうけど、街の中ならそれなりだろ」

 僕は恩司郎の傍で腰を下ろした。恩司郎の言葉が僕の記憶を呼び出す。小学校の頃に学校のキャンプで山に行ったことがあって、たいして仲良くもないクラスメイトと一緒に過ごした時間は面白くも何でもなかったけど、あの星空だけは見て良かったと思う。

 あの時の、無造作にばらまかれた銀色の砂で描かれたみたいな星空が、僕の目にはまだ焼き付いている。

 あれと比べて、目の前にある空の星は少ないし、輝きもやたらと強い気がする。だけどそのままじゃどうしたって一人でいるしかなかった僕が、望んで一緒にいたいと願った人がいる。あの星空にはきれいさで劣るとしても、思い出の質は負けないと思った。

「生きてる間に来てみたかったな」

 今感じている幸せは本物だろう。だけど生きている人たちとは違ってしまった今、彼らと思い出を作ることはできない。恩司郎という、幽霊と語らえる人と出会えなかったら、僕はこの場所を知ることなくずっと彷徨っていた。そう思うと恐い。

「お前何で死んだわけ?」

 不意に恩司郎が訊いた。

「交通事故だけど。看板もあったし、知らなかったの?」

「そうじゃなくて、わざと車道に飛び込んだわけじゃねえよなって訊いてんだよ」

「自殺ってこと? 違うよ、いくら僕でもそこまでしない」

「する一歩手前だったみたいな言い方だな。イジメでもあったのか」

 恩司郎の声は明るかったけど、明るすぎて茶化すような聞こえ方もした。

「別にイジメられてたわけじゃないよ。僕だってそんなに情けなくない」

 僕はちょっと突き放すように答えた。イジメがあったわけじゃない。ただ僕も周りも、お互いにどう接していいのかわからなかったんだろう。だからクラスで浮いている感じがしただけだ。

 だけど死んだ後で、みんなの気持ちはもっと違うものだと思うようになった。単に接し方がわからなかっただけじゃなく、みんなにとっての僕はどうでもいい人だったんだろう。最初の頃は献花台に誰かが来るだろうかって待ってたけど、誰も来ないから、交差点にさまよい出た。

 見知った顔はいくつもあった。みんな僕が生きている間と同じ顔をしていた。僕がみんなの心に占める割合は、本当に小さなものだったんだろう。

「君は毎日何をしてるの」

 何だか嫌なことばかりが浮かんで、僕は話題を変えた。恩司郎のことも知っておきたかった。

「俺? フリーター。ガソリンスタンドと引っ越し屋でバイト掛け持ちしてる」

「高校は? 僕と同じくらいでしょ」

「ああ、辞めちまった」

 恩司郎は笑い声さえ混ぜて答えた。余りに声が軽いから、何か訊き方を間違えたかと思ったぐらいだ。

「高校、行ってないの?」

 重ねて訊いたけど、恩司郎の答えは変わらない。

「辞めちまったよ。俺サッカーのスポーツ推薦で入ったんだけど、顧問と揉めて居づらくなってさ。サッカーができないなら高校行ってたってしょうがねえなって。どうせ底辺校だし」

「いいの、そんなに簡単に。将来とか不安にならないの」

「今はならねえな。高校行ってたって寝るために時々授業出て、後はサボるしかしなかったと思うんだよな。それに比べたら、バイトで生計立ててる方がよっぽど生産的だね。どうせノート開いて勉強するなら、金に直結することを勉強するさ」

 投げ遣りになってるようには聞こえなかった。今の暮らしを少しでも良い方へ導こうとして努力している。そんな明るくて爽やかな声だった。

 僕とは根本が違う人間だろう。僕は高校に入ってもまだ学校が嫌だった。中学までは義務教育だったから行かなくちゃならなかったけど、高校には行っても行かなくても良かった。結局行くことにしたのは、親を含めた周りの人間に中卒や高校中退がいなかったからだ。

 十六年しか生きなかった僕でも、高校を出てない人間に風当たりが強いことぐらいわかる。だけど恩司郎みたいに明るく生きてる人を見ると、学歴にそれほど大きな意味なんてないんじゃないかって思えてくる。

 本当はどうなんだろう。誰かに教えて欲しい。誰か大人に。もう叶わないけれど。

「お前は毎日、何をしてたんだ」

 僕は口ごもった。僕が送ってきた生活なんて、つまらないのを通り越して恥ずかしいぐらいだから。

「普通に高校行ってたよ」

 あまり僕のことに踏み込まれないように言葉を選び、短く言った。

「そうじゃない、死んだ後だよ。あんまり恵まれた生活してなかったのは、あのため息を見たらわかるよ」

 隠そうとしていたことにあっさり踏み込まれたけど、隠すのが無駄とわかったらかえって気が楽になった。

「ため息って、最初に会った時の?」

「一人でいるのに疲れたみたいな感じだったからな。花を供えに来るのが知らない奴ばかりだったから嫌だったんだろ」

 ほとんど完璧に胸の内を言い当てられ、僕は頷くしかなかった。

「あんまり友達いなかったからね」

「そりゃ話してればわかるよ。人と話すの下手そうだし、別に不思議でも何でもねえよ」

「そうなんだけど、でもどうしてか君とは話せる」

「そりゃ不思議だな。一回死んで度胸がついたんじゃねえ?」

 適当な感じの返事だったけど、僕は妙に納得して笑えた。

 そして間違ってない気もする。少なくとも生前の僕なら、ビール瓶を叩き割って見ず知らずの人を脅すなんて考えられなかった。

「どういう理由でもいいけど、僕は君と話せるのがとても嬉しいよ」

「俺は別に」

「仕事でもボランティアでもないって言うんだろう。それでいいよ。責任とかを感じないで、だからこそ信じられる人を友達って呼んでもいいのかな」

 恩司郎は答えなかった。星空をじっと見つめている。

 僕もそれに倣った。思えばいつも下ばかりを見ていた気がする。足元に見えたのは土とかアスファルトみたいな、見ているだけで喉の渇きを覚えるような色ばかりで、覚えていたくなるようなものは一つもなかった。ほんの少し歩いたら、あの山の中で見た星空に近いものが見えるなんて思いもしなかった。

 恩司郎の言葉を、僕は待った。どんな答えでもいいと思う。短い時間だし、他人から見たら同じ年頃の男の子二人が星空の下で語らっているだけの、取るに足らない出来事なんだろう。だけどそこに至るまで、僕は偶然知り合った恩司郎を探し回って、生きている間はついに発揮できなかった力に気づいて、この瞬間にたどり着いた。僕は恩司郎によって孤独な時間から救い出された。

 僕は確かに幸せだった。

「いいんじゃね?」

 恩司郎の顔は見えなかった。だけど自然な声で、僕は満足した。

「ありがとう」

 僕も自然に言葉を返した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る