じゃあまたね
haru-kana
第1話
誰もが僕を無表情に通り抜けていく。やがて信号が変わる。横断歩道に立ち尽くす僕に構わないで車が一斉に動き出す。やっぱり唸りを上げながら僕を通り抜けていった。
僕の首から下を、色んな車が突き抜けていく。時々僕よりも大きなトラックなんかもあって、荷台が全部通り過ぎていくまで視界は塞がれる。ちょっと前までの僕なら、体がものすごい惨状になっていたと思う。頭なんかもう、中身が出るぐらいに。
自分が危ないことをしているのがわかっているのに、僕は全然怖くない。そして歩道で信号が変わるのを待ってる人たちも、車に乗ってる人たちも、僕を全然避けない。
色んなものが何度も体を突き抜けたのに、全然痛くない。
今更こんなことをしなくたってわかっていたことだけど、僕の体はもうない。僕がここにいることに気づける人はもういない。
信号がまた変わる。黄色の信号を見て急いで突っ込んでくる車があった。その後ろの軽も同じようにしようとしていたけど、結局間に合わなくて急ブレーキを踏んだ。後ろの大きなトラックが追突しかけた。もしぶつかったら軽はひとたまりもない。乗ってる人は僕と同じになるだろうか。
歩道の傍に立つ信号が青になる。また交差点に人が溢れた。
色んな格好の人たちがいて、見ただけじゃどこへ行こうとするのかわからない。
でもブレザーはどこへ行くのかわかる。僕も少し前まで着ていた服だから。
胸ポケットに校章が刺繍された紺色の上着を着ている男女は、ある程度まとまって歩いている。その中には顔見知りがたくさんいた。
かわいい顔をしていると思った柴田さん、何でもできる人気者だった倉本くん、気が強くてよく男子と喧嘩をしていた西尾さん、とにかく明るくてひょうきんだった東野くん。他にも知っている人たちがたくさんいる。話してみたいと思った人たちがたくさんいる。
だけど学校に通っている間、僕にはその勇気がなかった。
どんな反応をされるかわからなくて怖かったけど、今ならその心配は要らない。だって僕のことが見えてないんだ。たとえ嫌がられたとしても、反応のしようがない。
いつの間にか柴田さんが目の前にいた。日射しを受けて光るぐらいの黒髪を長く伸ばしている。いい手触りをしてそうだった。学校だとよく喋る社交的な人だけど、今は一人で歩いている。学校で見慣れた笑顔が嘘みたいに堅い表情をしていた。
僕は柴田さんの前に立って、口を開いた。
おはよう、とか、元気? とか、挨拶の言葉なんていくらでもある。
いくらでもある、のに。
僕は口を開いたまま、何も言えなくて、立ち尽くした。
その間に柴田さんは周りの人たちと同じように僕を通り抜けていった。
背中はまだ見えている。返事なんてなくても、声をかけるぐらい迷惑でも何でもないじゃないか。
言い訳めいたことを自分に言い聞かせて奮い立たせようとしたけれど、結局柴田さんは人混みの中に消えていった。
またできなかった。どうして僕は、他の人に話しかけようとすると怖くなるんだろう。
僕はついに誰も答えてくれなかった問いを胸に、雑踏へ紛れた。
高校生たちは賑やかな駅前をほとんどひとかたまりになって、学校を目指した。そっちの方に会社とか工場はないから、朝はいつもブレザーの行列だ。
もう柴田さんとか倉本くんとかは見えない。隣にいるのは見知らぬ男子生徒だ。
途中で短い横断歩道があって、生活指導の島田先生が向こう側に立っている。僕は赤信号に構わず歩いて対岸へたどり着いた。
直後に信号は変わって、みんなが歩き出す。みんな島田先生に挨拶しながら右へ行くけど、僕は左に行った。
ちょっと歩くと横断歩道がある。こっちに信号はない。
電柱の根本に何本か花が供えられている。それから開けられていないスポーツドリンク。
高校生の飲み物だからと選んだんだろうけど、僕のことを知っている人ならお茶を置いたはずだ。だけど一度もそれを見たことがない。僕のことをちょっとでも知ってる人は、まだお参りに来てくれてないってことだろう。
僕はガードレールに腰をかけた。意識したらものに触れることもできるみたい。体がなくなってこの世ならざるものになってもやっぱり疲れる。僕は生前、学校へ行く以外に体を動かしたりスポーツをやったりしなかったから、そのツケが回ってきたんだろう。ちょっと疲れちゃった。
ガードレールに座って高校生の流れを見ていたけど、それもやがて終わる。時間は八時頃だろう。それまでにこの交差点を通り過ぎていないと、走らない限り始業に間に合わない。
島田先生も引き上げた。誰も通らなくなって、昼間なのにしんとする。
僕は体を屈めた。名前と顔以外に知らない人たちでも、いなくなったら寂しくなる。音がなくなったのが怖くなる。
ここで一人、何をするでもなく時間が経つのを待つんだ。何もすることがないからそうするしかないんだけど、どうしてそうしなきゃいけないのか。そこまではわからない。
僕はここで車にはねられて死んだ。あの時近くのコンビニにお菓子を買いに行こうと思ったんだ。一人でいるとつまらないし、小腹が空く。お金はあったから迷わなかった。
あの時は気がはやった。漫画が面白かったから、続きを早く読みたかったんだ。いつも左右を確認してから渡るのに、あの時はそうしなかった。
周りを見なかったのは、後にも先にもあの時だけだ。その一回が、僕の人生を終わりにした。
覚えているのは、タイヤがアスファルトをこする音と、小中高と体育で2以上を取ったことがない僕には一生かかっても見られなかったはずの、高い景色。僕はその後アスファルトに叩きつけられたはずだけど、痛くなかった。そして気がついたら僕はここに立っていた。
夢を見ていたのかなって思ったけど、すぐに違うのがわかった。みんな僕を通り抜けていくし、車にいくら当たっても痛くなかった。そのうち事故の現場には花とジュースが置かれて、目撃者を捜す看板まで立てられた。十六歳少年が死亡したなんてことも書かれてた。それでやっと、僕は自分が轢き逃げされたんだってわかった。
看板はすぐに外されたから、犯人はもう捕まったみたい。だからといって嬉しいとかザマァとか思わないのが、僕の変なところかも。
僕は無念だった?
僕は十六年で人生を終えた。お酒を飲んだこともないし、女の子のことも全然知らない。それを知るチャンスはもうない。それなのに別にいいやなんて思ってる。
先生とか周りの大人が言うことは決まってる。さぞかし無念だったろう、なんて。
普通ならそんなふうに思うんだろうけど、僕は違う。死にたいほどの目に遭ったわけじゃないけど、生き続けたいと思わなくなってた。だから別に無念じゃない。
ただ、何のために義務教育を終えて、勉強してまで高校に入って、事故に遭うまで生きてきたのか、僕はわからなくなってたんだ。その時間が終わった今は、何でこの世界にいるのかわからない。少なくとも人間が死んだら天国か地獄かに行くっていうのは嘘なんだ。
どうして僕はこの世界にいるんだろう。生きている間に出なかった問いの答えが、死んでもまだ出せない。
僕は体を丸めて目線を落とした。生きてる間は一人が好きとか寂しさなんて感じないとか、うそぶいたこともある。だけどそれは、いつか一人でなくなるかもしれないって、希望を信じられたから言えたことなんだ。
今の僕は誰と関わることもできない。今まで信じてきた希望が、完全に叩きつぶされているんだ。
僕は、一人が嫌だ。寂しさをとても強く感じてる。それが本音だ。
それを聞いてくれる人もいないけど。
いつまでこうしていたらいいんだろう。誰かに聞いてほしい僕の気持ちは、自分でも数え切れないほどある。聞いてくれる人がいたら歯止めが利かなくなると思う。
だけど叶わないんだ。僕は思うことに疲れてため息をついた。
「俺が花を供えたらいけないか」
ちょっと呆れた感じの、妙に軽い響きの声がした。
自分に向けられた声なんだろう。周りに人はいない。
まさか人に話しかけられるとは思っていなかった僕は、電柱の前にしゃがみ込んでいる人を呆然と見下ろした。
「花供えちゃいけねえのかって訊いてんだけど」
少し乱暴な言葉遣いだけど、怖い感じはしなかった。人懐っこい笑顔を見せてるからだろう。
その人は僕とあんまり変わらない年頃の男の子で、ジャケットとキャップを着けて活発そうな見た目をしている。僕とファッションセンスがかなり違う。僕が着るには派手すぎて気後れしそうだった。
「よお、俺の声聞こえてる?」
ぼんやりその男の子を見ていた僕は、ラッパーみたいな呼びかけでやっと我に返った。でも言葉を探しあぐねて、別にいいけど、と何とか口にする。
「そうかい。じゃ、続けるからな」
何だか戸惑った感じの声しか出せなくて嫌だったけど、男の子は気にした様子もなく一輪の花を供えた。
「じゃあな」
しばらく両手を組んで目を閉じていた男の子は、ぱっと顔を上げて立ち上がると、最初の人懐っこい笑顔を見せて立ち去ろうとした。
僕は男の子を追った。手が伸びたけど肩をうまく掴めなかったから声を上げた。
「待って」
短いけどはっきり出せたような気がする。
振り向いた男の子はやっぱり笑っていた。
「何だよ」
「そうじゃなくて、その」
いくつも訊きたいことがあって、それがうまくまとまらない。だからいつもうまく他人と話せなくて、死んだ後も直ってない。
「何でもないなら行くぜ」
ちょっと表情を陰らせた男の子が踵を返そうとする。
僕は必死で声を上げた。
「どうして!」
きっと生まれて初めてだったと思う。こんなに大きな声を、それも他人に向けて上げたのは。
男の子は足を止めていた。何だか怪訝そうな顔をしている。
きっと僕を変に思ってる。何でもないって言って、会話を終わりにしたい。そうすれば恥ずかしさとか劣等感とか、色んなものから逃げられる。
その時は男の子も一緒に逃げてしまう。誰にも声を聞かせられない僕が、初めて喋った人が。
「僕とどうして喋れるの?」
そんなことを訊くのに、深くは悩まなかったけど、一番訊きたいことだった気がする。
そんなに離れてなかったけど、男の子は近づいてきた。
「そりゃ、お前が見えて声も聞こえるからだよ」
「じゃあ、どうして花を持ってきてくれたの」
「寂しそうにしてる幽霊はほっとけないだろ」
男の子は事もなげに言った。寂しそうっていうことは、イコール友達がいないってことだから、そういうオーラが出ないように気をつけてたつもりだ。それを見破られたってことがちょっとショックだけど。
それよりも僕を見てくれていたことが嬉しかった。ほっとけないから人が喜ぶようなことをしてくれる。そんな人がいるなんて思いもしなかった。
「そういう仕事なの」
僕の頭に思い描かれたのは、死ぬ直前まで読んでた漫画だった。
男の子は苦笑した。
「アニメじゃねえんだから。偶々幽霊を見て会話できる力があって、気が向いた時に使ってるだけなんだから、あんまり深く訊くなよ。俺自身は適当に生きてるだけのフリーターなんだから」
僕は男の子の格好を見直して、納得した。もう九時を回ってるはずで、普通の学校なら授業が始まってる。見た目通りの歳なら学校に行ってるのが普通だ。
「悪いな、そろそろバイトなんだ」
そう言って男の子は背を向けた。僕はそれ以上引き留める気にはならなかった。
だけど言いたいことが一つ浮かんだ。
「またね!」
また驚くぐらい大きな声が出た。
男の子は手を挙げ、手のひらをひらひら振った。
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