第5話

「よし、整理体操終わり。お疲れ様でした」

太陽が半分ほど、山脈の向こうに沈むと練習が終わる。結局今日は、コーチが選手二人のクセだとかを探したり、弓の調整だとかで、三十メートルでの練習だけだった。照明がないため、日が落ちたら練習は終わりにせざるを得なかったのだ。練習道具を片付け終え、コーチの締めくくりに、ヨシュアはいかにも体育会系な返事をした。一歩遅れてフランシスもそれに倣ったが、しかしスポーツ選手にしては力のない挨拶であった。コーチは苦笑している。

「う~ん、締まらないわね。まあいいわ。さて、今日は初顔合わせだし、どこか行きますか。お酒でもどう?」

 コーチの一言にヨシュアは跳んで喜んでいたが、ワシ頭は戸惑った。他人と酒を飲むなんて、片手で数えられるほどの記憶しかないからだ。

「なんだよフランシス、コーチがおごってくれるんだぜ? のんでおけよ!」

「ちょっとヨシュア、私はそんな事……まあいいわ。家に帰られる程度にしなさいよ。さ、車に乗った乗った!」

 と、フランシスをよそに話はどんどん進行。ヨシュアはすっかり盛り上がり、彼の手を引いて、コーチのセダンへ向かっていく。

声にならない声を上げていたら、いつのまにか後部座席にちょこんと座らされてしまっていた。どうやらヨシュアに無理やり押し込まれたらしい。当の犬頭は、いつの間にか人様の――フランシスの――鞄を持って、それを後部のトランクに突っ込んでいるようだ。ばん、と勢いよくトランクが締まると、犬頭は隣に入ってきた。それを見ている自身は、クチバシをぽかんと開けたままにしてしまっていた。

 そのままコーチも運転席に入り、車のエンジンがかかった。するりと車体が滑り出す。と思いきや、後輪が滑り、まるで戦車が向きを変えるかのような挙動。

驚いてコーチの座るシートにへばりついて聞く。「ど、ど、ど、どうしたんですか?!」と。今日はいきなりのことばかりですっかり疲れているからか、思わず裏返った声を出してしまった。

それに対して返ってきた言葉は、コーチからではなくヨシュアからのもので「いつもこうしているけどなぁ。びっくりしたか?」と聞こえた。恐ろしい、というよりすさまじいことに、運転手のコーチも、ヨシュアも平然としている。そんな車内の空気に、一抹の不安はぬぐいきれなかった。

「まあ、さすがに安全運転するから安心してね」

 と、コーチはにこやかに宣言した。なんともさわやかな笑顔だ。その言葉の真意を考えるまもなく、車体が公道におどり出た。「ひい」と、身元を隠している暗殺者にしては情けない声を上げて、目を硬くつぶり、縮こまる。

「何してんだよ、フランシス」

 隣から噴き出すのをこらえているようなヨシュアの声。ワシ頭は我に返ると、乗っているセダンが驚くほど静かに走っているのに気づいた。その瞬間、クチバシの先端まで熱くなるほど恥ずかしくなる。コーチは本当に安全な運転をしているのだ。

「はっはは! コーチは、車出すとき以外はああいうことしないよ。まったく、何を想像したんだよ」

 ヨシュアはまたしてもけたけた笑った。

 それに対して大きく息を吐きながら「それならそうだと言ってくれ。びっくりしたじゃないか」とこぼした。

「ま、むかしはちょっとヤンチャもしたけどねぇ」

 コーチの一言はさぞ懐かしいといったものに聞こえた。今と同じようにハンドルを握って、どんなことをしていたのだろうか。

胸をなでおろしながらコーチを見ていたら、ヨシュアに肩をトントンと叩かれた。彼のほうを見てみれば「まともに話せるじゃないか」と言われた。またしてもよく分からないことを言われて、ワシ頭は調子を崩した。

 運転席のコーチもそのやり取りをミラー越しに見て、楽しそうに微笑んでいる。同時に、内心ホッとしていた。先週になって突然、無名の、しかも胡散臭い選手を預かれと頼まれたのだから。それが、現れたのは少しシャイな好青年。やや人付き合いが苦手なようだが愛想は良いので好感が持てる。もちろん、彼女はフランシスの身の上など知る由もないし、どういう素性かを疑う必要もない。そう言う点で、彼女は安心しきっていたと言っても過言ではないだろう。フランシスの態度は、彼女には引っ込み思案に見えており、その点に関して彼女は不安だが。

 すっかり紺色になった空の下、コーチの白いセダンが走る。古臭いナトリウムランプの街灯が、ひび割れてぼろぼろのアスファルトにオレンジ色の光を落としている。周りには電気自動車の出来損ない、ガソリンと電気の両方で動くハイブリッド車が静かに、ときにガソリンが燃えて出た呼気を吐いて走る。

 フランシス自身、先ほどの戦車のような動きに揺さぶられてから心拍があがりっぱなしだったが、ようやく落ち着きを取り戻していた。

 落ち着いたところでヨシュアからの質問が飛んできた。

「どこに住んでるんだ?」

 答えてみる。

「テオドル通りのマンション」

「今度遊びに行っていいか?」

 これも黙っていたら怪しいので答えてみる。

「いいよ」

「アーチェリーはいつ始めたんだ?」

「ミドル(中学)卒業してから」

「モテるだろ?」

「いいや」

 あまりにもぶっきらぼうかもしれないが、上出来だと思う。ヨシュアも質問するのに夢中なのか、大して気にしていないかもしれない。同じく中学卒業と同時に、コーチとマンツーマンでアーチェリーを始めたことを話したり、仲間が出来たことを喜んでいる。コーチにはもうダンナが居るから、と切なくも面白い恋愛事情も話してくれた。

コーチはそれを聞いて「そういえば、最近ダンナがバイト、クビになっちゃってね」とか言いだした。コーチの夫もキメラ症なのだそうだ。この手の失業の話はよくあることだ。キメラ症に理解のある人間が少ないため、キメラ症の失業者は少なくない。自身もそのことは承知しているが、キメラ症のダンナ、という言葉には、なにか不思議なものを感じざるを得ない。

 ヨシュアはその話を何度か聞いていたのか、今度はどうしたのかと聞いた。

「いや、レストランでね、毛が入ってる、って怒られて一発だって。あの人トカゲのキメラ症なのにね」

 コーチは苦笑交じりにそう言った。

 紙皿のように使い捨てられるキメラ症も少なくないのだ。この手のことなら話せるので、会話に参加してみる。

「オリンピックでキメラ症のことを分かってくれると良いけどなぁ」

 それを聞いて「言うねぇ」とヨシュアの一言。彼はそのまま、どういう部分がキメラ症の良いところかを聞いてきた。フランシスは、体力、能力的に優れているところ、と安直に答え「それを良いように使うのは、許されないよな」と締めくくる。

 ヨシュアは複雑そうな表情を見せたが「そうだな」と同意した。しかし、フランシスに対してこうも言った。「でもさ、能力、体力ばかりがキメラ症のよさじゃないだろう?」そういった主張をするのはキメラ民主党員みたいだ、と。ヨシュアの表情は真剣だ。

 フランシスはぎくりとしそうになったが、ばれるワケには行かない。なにしろ世間での話題は、先週の『アーチェリー暗殺事件』なのだ。傍目には一流の射手である彼が、キメラ民主党員であるとなったら、怪しくて仕方ない。「そ、そうか」と主張を緩やかにした。

「ほら、お前みたいに面白いやつって、キメラ症でもなきゃいないだろ?キメラ症っておもしれ~!」

 と先ほどの表情から一転、ケラケラと笑い始めた。大きく開いた口からは、イヌ科の大きな舌が零れ落ちそうだ。そして、ワシがオウムみたいに話してるのが面白い、と続ける。キメラ症は、再生医療の応用で作られた人工声帯を装着しているので、オウムでなくとも、また鳥でなくとも人間とほぼ同じ発音が出来る。ヨシュアもそうしているはずで、そう面白いものでもないはずなのだが、そう言いかえせるほどワシ頭自身は口が器用でないようだ。

 あまりに笑いすぎるヨシュアを、コーチがたしなめた。笑い上戸も度が過ぎないか、と。これにはヨシュアも、怯えたイヌのような切ない鳴き声を一つ上げて縮こまるしかなかった。

「酔っ払う前に連絡。明日は早速だけど、市内のレンジに行くわ。それと、フランシスの弓、一式買い換えるから、週末の予定、空けておいてね」

「へ~いへい。何も用事なんてないですよ~」

 すっかり友達感覚で話しているような二人に、上手く口を挟むことができないが、ヨシュアに肩をぽんぽんたたかれながら、ただ相槌を打っているのに、悪い気分はしなかった。


「よし、整理体操終わり。お疲れ様でした」

太陽が半分ほど、山脈の向こうに沈むと練習が終わる。結局今日は、コーチが選手二人のクセだとかを探したり、弓の調整だとかで、三十メートルでの練習だけだった。照明がないため、日が落ちたら練習は終わりにせざるを得なかったのだ。練習道具を片付け終え、コーチの締めくくりに、ヨシュアはいかにも体育会系な返事をした。一歩遅れてフランシスもそれに倣ったが、しかしスポーツ選手にしては力のない挨拶であった。コーチは苦笑している。

「う~ん、締まらないわね。まあいいわ。さて、今日は初顔合わせだし、どこか行きますか。お酒でもどう?」

 コーチの一言にヨシュアは跳んで喜んでいたが、ワシ頭は戸惑った。他人と酒を飲むなんて、片手で数えられるほどの記憶しかないからだ。

「なんだよフランシス、コーチがおごってくれるんだぜ? のんでおけよ!」

「ちょっとヨシュア、私はそんな事……まあいいわ。家に帰られる程度にしなさいよ。さ、車に乗った乗った!」

 と、フランシスをよそに話はどんどん進行。ヨシュアはすっかり盛り上がり、彼の手を引いて、コーチのセダンへ向かっていく。

声にならない声を上げていたら、いつのまにか後部座席にちょこんと座らされてしまっていた。どうやらヨシュアに無理やり押し込まれたらしい。当の犬頭は、いつの間にか人様の――フランシスの――鞄を持って、それを後部のトランクに突っ込んでいるようだ。ばん、と勢いよくトランクが締まると、犬頭は隣に入ってきた。それを見ている自身は、クチバシをぽかんと開けたままにしてしまっていた。

 そのままコーチも運転席に入り、車のエンジンがかかった。するりと車体が滑り出す。と思いきや、後輪が滑り、まるで戦車が向きを変えるかのような挙動。

驚いてコーチの座るシートにへばりついて聞く。「ど、ど、ど、どうしたんですか?!」と。今日はいきなりのことばかりですっかり疲れているからか、思わず裏返った声を出してしまった。

それに対して返ってきた言葉は、コーチからではなくヨシュアからのもので「いつもこうしているけどなぁ。びっくりしたか?」と聞こえた。恐ろしい、というよりすさまじいことに、運転手のコーチも、ヨシュアも平然としている。そんな車内の空気に、一抹の不安はぬぐいきれなかった。

「まあ、さすがに安全運転するから安心してね」

 と、コーチはにこやかに宣言した。なんともさわやかな笑顔だ。その言葉の真意を考えるまもなく、車体が公道におどり出た。「ひい」と、身元を隠している暗殺者にしては情けない声を上げて、目を硬くつぶり、縮こまる。

「何してんだよ、フランシス」

 隣から噴き出すのをこらえているようなヨシュアの声。ワシ頭は我に返ると、乗っているセダンが驚くほど静かに走っているのに気づいた。その瞬間、クチバシの先端まで熱くなるほど恥ずかしくなる。コーチは本当に安全な運転をしているのだ。

「はっはは! コーチは、車出すとき以外はああいうことしないよ。まったく、何を想像したんだよ」

 ヨシュアはまたしてもけたけた笑った。

 それに対して大きく息を吐きながら「それならそうだと言ってくれ。びっくりしたじゃないか」とこぼした。

「ま、むかしはちょっとヤンチャもしたけどねぇ」

 コーチの一言はさぞ懐かしいといったものに聞こえた。今と同じようにハンドルを握って、どんなことをしていたのだろうか。

胸をなでおろしながらコーチを見ていたら、ヨシュアに肩をトントンと叩かれた。彼のほうを見てみれば「まともに話せるじゃないか」と言われた。またしてもよく分からないことを言われて、ワシ頭は調子を崩した。

 運転席のコーチもそのやり取りをミラー越しに見て、楽しそうに微笑んでいる。同時に、内心ホッとしていた。先週になって突然、無名の、しかも胡散臭い選手を預かれと頼まれたのだから。それが、現れたのは少しシャイな好青年。やや人付き合いが苦手なようだが愛想は良いので好感が持てる。もちろん、彼女はフランシスの身の上など知る由もないし、どういう素性かを疑う必要もない。そう言う点で、彼女は安心しきっていたと言っても過言ではないだろう。フランシスの態度は、彼女には引っ込み思案に見えており、その点に関して彼女は不安だが。

 すっかり紺色になった空の下、コーチの白いセダンが走る。古臭いナトリウムランプの街灯が、ひび割れてぼろぼろのアスファルトにオレンジ色の光を落としている。周りには電気自動車の出来損ない、ガソリンと電気の両方で動くハイブリッド車が静かに、ときにガソリンが燃えて出た呼気を吐いて走る。

 フランシス自身、先ほどの戦車のような動きに揺さぶられてから心拍があがりっぱなしだったが、ようやく落ち着きを取り戻していた。

 落ち着いたところでヨシュアからの質問が飛んできた。

「どこに住んでるんだ?」

 答えてみる。

「テオドル通りのマンション」

「今度遊びに行っていいか?」

 これも黙っていたら怪しいので答えてみる。

「いいよ」

「アーチェリーはいつ始めたんだ?」

「ミドル(中学)卒業してから」

「モテるだろ?」

「いいや」

 あまりにもぶっきらぼうかもしれないが、上出来だと思う。ヨシュアも質問するのに夢中なのか、大して気にしていないかもしれない。同じく中学卒業と同時に、コーチとマンツーマンでアーチェリーを始めたことを話したり、仲間が出来たことを喜んでいる。コーチにはもうダンナが居るから、と切なくも面白い恋愛事情も話してくれた。

コーチはそれを聞いて「そういえば、最近ダンナがバイト、クビになっちゃってね」とか言いだした。コーチの夫もキメラ症なのだそうだ。この手の失業の話はよくあることだ。キメラ症に理解のある人間が少ないため、キメラ症の失業者は少なくない。自身もそのことは承知しているが、キメラ症のダンナ、という言葉には、なにか不思議なものを感じざるを得ない。

 ヨシュアはその話を何度か聞いていたのか、今度はどうしたのかと聞いた。

「いや、レストランでね、毛が入ってる、って怒られて一発だって。あの人トカゲのキメラ症なのにね」

 コーチは苦笑交じりにそう言った。

 紙皿のように使い捨てられるキメラ症も少なくないのだ。この手のことなら話せるので、会話に参加してみる。

「オリンピックでキメラ症のことを分かってくれると良いけどなぁ」

 それを聞いて「言うねぇ」とヨシュアの一言。彼はそのまま、どういう部分がキメラ症の良いところかを聞いてきた。フランシスは、体力、能力的に優れているところ、と安直に答え「それを良いように使うのは、許されないよな」と締めくくる。

 ヨシュアは複雑そうな表情を見せたが「そうだな」と同意した。しかし、フランシスに対してこうも言った。「でもさ、能力、体力ばかりがキメラ症のよさじゃないだろう?」そういった主張をするのはキメラ民主党員みたいだ、と。ヨシュアの表情は真剣だ。

 フランシスはぎくりとしそうになったが、ばれるワケには行かない。なにしろ世間での話題は、先週の『アーチェリー暗殺事件』なのだ。傍目には一流の射手である彼が、キメラ民主党員であるとなったら、怪しくて仕方ない。「そ、そうか」と主張を緩やかにした。

「ほら、お前みたいに面白いやつって、キメラ症でもなきゃいないだろ?キメラ症っておもしれ~!」

 と先ほどの表情から一転、ケラケラと笑い始めた。大きく開いた口からは、イヌ科の大きな舌が零れ落ちそうだ。そして、ワシがオウムみたいに話してるのが面白い、と続ける。キメラ症は、再生医療の応用で作られた人工声帯を装着しているので、オウムでなくとも、また鳥でなくとも人間とほぼ同じ発音が出来る。ヨシュアもそうしているはずで、そう面白いものでもないはずなのだが、そう言いかえせるほどワシ頭自身は口が器用でないようだ。

 あまりに笑いすぎるヨシュアを、コーチがたしなめた。笑い上戸も度が過ぎないか、と。これにはヨシュアも、怯えたイヌのような切ない鳴き声を一つ上げて縮こまるしかなかった。

「酔っ払う前に連絡。明日は早速だけど、市内のレンジに行くわ。それと、フランシスの弓、一式買い換えるから、週末の予定、空けておいてね」

「へ~いへい。何も用事なんてないですよ~」

 すっかり友達感覚で話しているような二人に、上手く口を挟むことができないが、ヨシュアに肩をぽんぽんたたかれながら、ただ相槌を打っているのに、悪い気分はしなかった。


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射手 大竹 和竜 @OtakeWaryu

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