第4話
翌週、彼は街の郊外にあるだだっ広い、ただの空き地のような場所にいた。周囲は汚らしいラクガキを施されたアスファルト壁やら、その向こうの何処に植わっているのか、広葉樹の枝、低いビルが見えるぐらいで、人はほとんど皆無だ。
先週のあの日、軍服の男に、ここに集合するように言われてここに着た。動きやすい格好で来るよう言われていたので、普段のようなスーツは家に置き去りにして、着古したミリタリーパンツに長袖のTシャツを着ている。あとは適当な、申し訳程度のジャージを羽織っている。暫くクローゼットの奥に眠っていたもので、すこしばかり樟脳臭い。
家に居てもすることがないので、朝起きてさっさとここにきてみたが、やはりやることもなくただぼうっとするしかなかった。この国は南米でも高緯度地域にあるため、それなりに冷える。雑草と赤土が半々ぐらいで広がっている空き地に風が吹く。砂煙が上がった。
羽毛に砂が絡まりそうで少しうっとうしい。
この場所まで来るには一苦労あった。自宅のある街から、電車で三十分。更にそこから二十分は歩いたのだ。もう準備運動は十分だと思う。
こんなとき、この国のキメラ症事情を思い知らされる。その辺に倒れていたドラム缶に腰掛け向こうを眺めて見れば、健常者が運転する乗用車。胸の奥が締まる思いになった。
キメラ症には、見た目や症状は様々といえど、人並みの生活を送ることができる者も多い。海外ではキメラ症だけを引っかき集めた警察の隊ができたりしたようだが、この国のキメラ症事情は、そんなようなことも関係なかった。キメラ症は、症状にかかわらず重度の病人として――もしくは人間ではないものとして――さまざまな権利を奪われている。選挙権はさすがにあるが、公職に着くことは困難だ。さらには運転免許を得ることも出来ない。どん底にもなると、スラムで健常者に蹴られるようなホームレスをやらされかねない。
「車の一つぐらい運転したいな」
今朝はシャワーを浴びたが、散々歩かされたので体が汗ばんでいる。以前には羽毛が汗を吸って、酷い臭いがしたこともあった。自動車に乗れればこういうこともないだろうに。
そうして羨ましがりながら、往来する自動車を見るともなく眺めていた。普段使っている弓が入った、くたびれたバッグを抱えたまま。
そのうち、一台のセダンが往来の中から空き地にそれてきた。運転席には、スポーティな服装の金髪の白人女性がハンドルを握っていた。金髪を前髪ごと後頭部で束ね、団子のようにしたヘアスタイルをしている。かわいらしいでこっぱちだ。助手席にはなんとなくどこかで見たような、犬頭の若者がいた。
先日、軍服の男にコーチが女性だということは聞いていたが、助手席にいるシェパード犬の頭をした若者のことは聞いていなかった。何か犯罪沙汰のことを起こすわけではないからうろたえたりはしないが、誰だろうか。
セダンは土煙を上げて適当に空き地の端に止まった。その二人が降りてくる。コーチと思しき女性は白いジャージをぴったりと着こなしている。まだ三十代の前半だろうか。尻尾を生やしたシェパードの若者も、どこか重い表情をしているが、それを隠すかのようにコーチと談笑している。はたから見ると無表情な自分が一番老けているようにも見えるかもしれない。
「あなたが、連絡にあったカーターさんね? 今日からあなたのコーチになるリンよ。よろしくね」
そう名乗った女性は、綺麗な指で握手を求めてきた。爪には透明なマニキュアをしているようだ。
こちらもお決まりのように名乗ると、握手。コーチは続ける。
「こっちが、あなたと一緒に私が面倒を見るヨシュア。キメラ症同士仲良くしてあげてね」
「よろしく、え~と、カーターさん」
ヨシュアと名乗った彼とも握手をした。毛皮同士の握手で少し暑苦しい。
「フランシス、でいいよ。皆そう呼ぶし」
「じゃあ、よろしく。フランシス」
ヨシュアははつらつとした声でそう言った。
自分の名前を言う程度の、軽い自己紹介を終える。予想外の事態、つまりヨシュアの出現には、混乱というほどのものは起こしていなかったが、戸惑いは覚えていた。
目の前の犬頭は最初こそ、何故か重たい表情を浮かべてはいたが、キメラ症にしてはえらく明るいのだ。自分はどうだかよくわからないが、普通ではない人間であることは確かで、この犬頭のようなキメラ症も初めて見た。思ってみれば人生で初めての体験だ。
「さぁ、早速だけど二人とも、練習始めるわよ。準備手伝って!」
コーチはいつのまにやらセダンの後ろ、トランクを開いてなにやら用意している。ずるりと出てきたのは、黄色やら赤やら、カラフルな円形の模様が描かれた大きな紙。アーチェリーの的紙だ。ヨシュアもそこへ駆け寄ると、それとほぼ同じ大きさの板のようなものを引きずり出した。それを抱えて重たそうにしている。彼に続いてそれに近づいて、何かと覗き込んでみると、それは表面に整然と草が編みこまれた、的を貼り付けるための畳だった。畳というものは東洋でしか見ることのできない、エキゾチックなものだと思っていたので、ついついそれに釘付けになってしまう。
畳を眺めていると、コーチに声を掛けられた。「どうしたのフランシス?ヨシュアの顔に何かついてる?」どうやらヨシュアを見ていたと勘違いしたようだ。
「あ、ああ。なんでもないです」
アーチェリーなんて今日が始めてで、畳なんて見たことなかった、そう言えるわけもない。この一週間、党本部でアーチェリーのレクチャーやトレーニングは受けたが、用意まで自分でやったわけではないのだ。
トランクに入っていた、油絵だとかを描くときに使う、イーゼルのような物を引っ張り出す。的を掛ける為の道具だ。かなり年季が入っている。
半ば間の抜けた声で「え~?なんかついてますかぁ?」というヨシュアは、もう空き地の中ほどあたりまで畳を運んでいた。
数分後、だだっ広いだけのただの空き地が、アーチェリー用のレンジに変わっていた。と言っても、先ほどの的を組み立てて、離れたところに置いただけなのだが。的を組み立てているときに、この空き地で練習すると聞かされたときは驚いたものだが、この国なら仕方あるまい、と落ち着いた。
準備運動を終えて程よく汗をかいているキメラ症達。体毛についた赤土をはたいて落としたりもしている。
ヨシュアに体の硬さを大笑いされたが、どう受け答えしていいか分からず、どもってしまった。そのときの表情が変に見えたのか、更に大笑いされた。表情にあまり変化のなさそうな面構えだとは思っているのだが、何か分かるのだろうか。「見た目ほどカッコよくないな」とも言われた。間接的に見た目のことを褒められたのか、ますますどうすれば良いか分からない。面白いやつ、だとか言われたこともない。
見かねたのか腰に手を当てて仁王立ちしているリンが言った。
「はい、おふざけはそこまで。じゃあ、準備が出来たら、まずはフランシスからやって見せて」
正直自分のことが分からなくなっているところに、この一言は助け舟となった。ホッとしながら返事をすると、くたびれた鞄から愛用の弓を引っ張り出す。組み立て式でない、すべてのパーツが一つになっているワンピースボウとかいうらしい。党でレクチャーを受けるまでには微塵も知らなかったが。
しかし、それを見たコーチは「あらなんでそんな骨董品みたいなもの使ってるのよ。しかも健常者用じゃない」と、まるでリサイクル品店で売られている物を見るように言い放った。
「コレしか買えなかったので。キメラ症用のはちょっと少ないですし」
もし聞かれたら、こう答えろ。そういう手筈だった。党でのレクチャーは、アーチェリーよりもこうした身分の隠匿のハウツーが多かった。どうせなら新しい弓をよこせ、とも思った。しかし、金がない、と切実なことを言われてしまえばさすがに従うしかない。キメラ民主が聞いてあきれるものだ。自分たちに合うように作られた弓も買うことができないとは。
弦の調整などは、普段からやっているので戸惑うことなく準備に入れた。弓を射る前に緊張していなかったのは初めてだ。別の初めて、つまり初めて人に矢を放ったときは数万倍緊張したものだったのだが。
調整を終えて、羽毛で手が滑らないように革手袋を着け、矢を持つ。コーチの声がかかる。
「まずは、三十メートルね。お手並み拝見といきましょう」
と、的を設置したときに地面に刻んでおいたラインをまたぐ。そのまま構えたが、コーチに制止された。「ちょっと、スタビライザーも着けないで射るの?」と。
スタビライザーというのは、矢を射った際の振動を除去したり、弓を安定させたりする装置のことだ。弓の前方に装着する棒状のものである。そう党員に教えられたが、持っていないし、そもそも使う必要もなかった。狙撃地点から逃げるのにかさばって邪魔だったからだ。
しかし、そんな風に答えろ、とは教えられていない。答える必要もない。「ちょっと買うお金がなくて」こう答えた。全て金銭面のせいにしてしまえば、この国では多少おかしくても「そうね」で済まされる。コーチは、ヨシュアの弓を使うよう勧めたが、断った。さすがにここまでは指示されていないが、自分の弓を使いたい。
改めて構えなおし、矢をつがえ、照準から向こうを見る。近くの風景が霞んだ。照準器に重なって的の真ん中、黄色の部分が視界に広がる。それを狙って弦を引きしぼった。同時に「先週の、あの男は動いていたな」と、今朝のニュースにも映っていたスーツの男を思い出した。
その目は、彼の容貌どおり猛禽類が獲物を狙うものだった。集中力が全身から、弓を引くのに必要な部分にのみ集まっているかのように、彼の羽毛がざわつく。冠羽を広げた勇壮なカンムリワシの容貌に、コーチとヨシュアは釘付けになった。弓のハンドルを握る彼の左腕は、まるでその位置に固定されたかのように動かず、しかし繊細に的を狙っているのだ。
先週のアパートの中で射った時と同様、体温が上がったような感覚に襲われた。このタイミングだ。そう思った。
同時に、ボッ、という音と共に矢が放たれる。確信を持って弓を下ろした。
矢は音を立てると、的の黄色い、最高得点の部分に的中した。彼の冠羽も降り、彼の初めての、スポーツとしてのアーチェリーの射撃も終了した。
ヨシュアとコーチは息を一つ吐き、おのおのに呟く。
「お見事。スタビライザーなしですごいじゃないか。相当上手いとは聞いていたけど、先輩のオレより上手いんじゃないか?」と、毛皮の生えた手で、ぽふぽふと拍手してくるのはヨシュア。
「上手いわね。キメラ症じゃなかったら、もっと早く、良い選手として活躍してたでしょうに。けど、ヨシュアも負けてないわ。次は彼よ」とコーチ。
見ると、ヨシュアはいつの間にか小奇麗な青い弓を持っていた。矢の前部には、長い棒が一本出ている。更にそこから彼の手前側にむけて、ちょうどY字をつくるように短いものが二本装着されている。これがスタビライザーだ。
フランシスは先ほどの位置を空けると、ヨシュアと交代した。
シェパード頭の男は矢をつがえると、優雅に弦を引いた。弓が限界までしなっても、凛とした表情。それを見ているフランシスには分からないが、彼自身の、殺気を無理やり押さえ込んだような雰囲気とは対照的だ。
ヨシュアのグローブをはめた指が弦から離れる。弦が空気を切る音が、ぴゅうと響いた。
放たれた矢は、まるで当然のように黄色の、的の中央部分を射抜いた。フランシスの射った矢の真横に、寄り添うように刺さっている。
「すごいな。ああ、なんて言えばいいんだろう」
ワシ頭は彼の射形、弓を構える姿に衝撃を受け、そう言った。彼では言葉に出来ない、何か涼やかで、さわやかな印象を受けたのだ。武器を扱う姿ではない。ワシ頭でそう思ったのだろう。
矢を放ち終え、弓を手首からぶらりと下げたヨシュアは、一呼吸おいてこう答えた。「なに、弓に当てさせてやればいいのさ。矢を、的にね」その表情もさわやかだ。
「ふうん。難しいな」
眉間にしわを寄せ、そう言った。いまひとつ釈然としない。彼自身、自分の力と、勘を頼りに、殺すべき人間へ矢を放っていたからだろうか。そんなことを知らないヨシュアは「ど真ん中に当てておいて何言ってんだよ」とケラケラ笑った。
これまたどう対応すれば良いかわからず、クチバシながらにもごもごと口ごもるしかできなかった。見かねたコーチは、彼に再度矢を射るように指示、練習が本格的に始まった。
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