第6話

 ふと目を開けると、髪の長い女が覗き込んでいた。

「大丈夫?」

 女は、ガラス玉を反射させたような透明な声で、僕に語りかけてきた。僕は、この女を知っている。重い記憶の中から、切れ端を探す。


 誰だったっけ? 誰だったっけ?


 女は真っ白で、中身が全て見えてしまうんじゃないかと思えるくらい、薄い肌をしていた。艶やかで真っ黒な髪が、さらさらと揺れる。風さえも女のために自身の意思で吹く。柔らかそうなつるんとした唇が動くたび、時は刻むのを忘れてしまう。

 この時、全ての概念は女のために存在していた。


 女の奏でる音が、皮膚が、匂いが、僕の何もかもを絡めとる。二人の身体は、静かに、静かに、はなびらに埋葬されてゆく。息苦しさの中で、僕は女と溶けあった。僕たちに言葉は必要なかった。そして、曖昧な記憶も要らない。感覚だけが、求めあい、慰め合った。

 そう、僕は女を知っている。そして女も僕を知っていた。


「母親の羊水の中って、きっとこんな感じよね」

 顔を寄せて、女は自信ありげに微笑んだ。そんなこと考えたこともない。ただ、このどうしようもなく気だるい感覚は、胎児の頃に経験した、ひとかけらも思い出すことの出来ない羊水というところに、とても、似合っているような気はした。


 母は僕を決して許さない。自分の生きるためのすべてだった娘を殺した醜い鬼は、自分の息子ゆえにどうしても許せなかった。だから、あの時僕を殺して自分も死ぬつもりだったんだ。でも、僕は死ななかった。あなたの憎い息子は、ほら、まだこうして生きているよ。


「大丈夫。ワタシがいる。約束したでしょ。ワタシがずっと守ってあげるって」

 女はそう慰めながら、僕の涙を拭いた。僕は、何が悲しいのだろう。何が悲しくてこんなに泣いているのだろう。


 だって僕は母が好きだったから。天使のような妹のことだって、本当は大好きだったから。殺すつもりなんてなかった。あのとき・・・、あのとき背中を押すつもりなんて・・・。


 桜が舞う―――

 烈しく、うねりをあげて

 解き放つ


 僕の罪は

 僕の記憶は


 あの少女は、本当に僕だったのだろうか。


 

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