23.
家に帰着し、郵便受けを見ると二通の封筒と一通のおそらく手紙の体をしたものが投函してあった。一枚は先輩からで、もう一枚はタカヤ、残るそれは差出人不明。
玄関の扉の前で、僕は街頭の灯りを頼りにそれぞれを読むことにした。
先輩からの封筒を開くと一枚の便箋が出てきた。最初にすまない、の一文が書いてあった。
〝すまない。お前の公演に行かなかったことをまず謝らせてもらう。そして、俺とお前の好で報告したいことがある。
同じ職場の女性と結婚することにした。今まで何度も言おうとしたが、ずっと言い出せなかった。多分、お前は俺を浮気癖の甲斐性ない男だと思っているだろう。お前に結婚のことを素直に伝えてどんな風に思われるのか怖かった。馬鹿にされると思った。俺の今までを知っていれば当然のことだ。女を口説いて、出会ったその日に寝て、それでさよならする男だ。でも楽しいんだ。しがらみのない女と過ごすのは。それじゃダメだとずっと気づいていた。俺は変わりたい。そして見つけた。俺の隣に居てくれる白猫に。俺は振り返りたくない。だから、この手紙をお前との最後のやりとりにする。一方的ですまない。
実を言うと既に会社の地方支店に転勤した。お前と会った最後の日の翌日だ。前から決まっていたことだ。自分勝手で悪い。これでさよならだ。元気でな。俺はきっと元気だ。
P.S 結婚相手の子はコーヒーを淹れるのがとても上手い。〟
もう一通のタカヤからの封筒にも便箋が入っていた。先輩の手紙と同じようにタカヤの手紙も謝罪の言葉から始まっていた。
〝せっかくのお前の公演、聴きに行けなくて申し訳ない。もう一度お前のチェロを聴きたかったが、聴けなくて残念だ。
実はお前と会った数日後に、アメリカのインディーズレーベルから電話があった。手当たり次第、色んな事務所にCDを送り付けていたんだが、メンバーの一人がアメリカにも送っていたらしい。他にも何件かアメリカから連絡があった。メンバーと相談してその中の一件と会ってくることにした。笑っちゃうような話だが感性ってのは本当違うものだと痛感したよ。
そういう訳でお前の公演の日とフライトの日が重なってしまった。当然ながら俺は俺の道を歩く。俺が成功したら、ライブでお前にチェロ弾いてもらうからな。〟
二通の手紙を読み終え、僕は嬉しさと寂しさで胸が痛くなった。僕は取り残されてしまったらしい。
本番前日、切ない思い出だと、あの湖で彼女は言った。その時、僕は気付いた。僕はきっと荒野に降り注ぐ朝焼けをはじめて目の当たりにした未開人のような顔をしていただろう。何も話していないのに彼女が僕のこの思い出をまるですべて知っているかのように的確に表現して見せたからだ。そうして、それが切ないという感情だと知った。僕の生涯はすべて切なさで描かれ、満たされている。それが僕という一人の人物にまとわりつく色彩のようなものなのだ。砕けたガラスの欠片で心の柔らかい所を優しく傷つけるような感覚だろうか、それが放つ音はとてもチェロの音色に似ている。どうしてこれほどまでに切ないと思うのかは分からない。かろうじて分かるのは、僕は良くも悪くも耳につくこの音色からまだ離れることは出来ないということだ。
玄関の扉を開け、階段を上って二階の自室に戻る。家の中は灯りが点いてなく真っ暗だった。あとでゆっくりコーヒーでも淹れて飲もうか。開いていたカーテンからは月明かりが降り注いでいた。部屋はぼんやりと霧に包まれたように朧気に揺らいでいる。
思えば今朝、喉の痛みはすっかりどこかへ消えていた。
僕は手に持っていた一輪の青いバラを部屋の机に置いた。明日、これに似合う花瓶を探しに行こう。
今日は、月が青い。
いつからだろう。
どこからかカプリースが聞こえる。
青い月は静かに。
――青い月は僕に笑う。
青い月は君に笑う @philip-K
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