うんてい

三矢サイダー

第1話

「そんなところで何やっているんだ、日向」

僕は見上げながら、目をつむる日向に言った。

僕がトイレから帰ってくると、日向はどういうわけか、うんていの上に登っていて、またどういうつもりか、その上で座禅を組んでいた。

僕の言葉に日向は眉を動かす。ゆっくりと瞳を開き、僕を見おろしてきた。

「遅かったね、氷河」

「そんなに時間はかかってない、だろう」

「そんなことはないさ。君と別れてから十分も経っているよ。母校が懐かしくて思い出にでもふけっていたのかな、君は」

そう言って目を細め、唇の両端をあげて日向は笑った。

「…いや、違うよ。懐かしすぎて、トイレの場所を忘れていただけだよ」

「それはまた難儀なことだね、氷河。郷愁の念に駆られることも過去を思うことも悪いことではない。むしろ素晴らしいことだ。そうやって、誤魔化す必要はないとボクは思うよ」

ばればれだった。

日向が言うように、さっきまで僕はちょっとノスタルジーに浸っていた。だって、母校は昔の記憶と寸分違わず存在していたのだから。ところどころ凹んだ鉄製の下駄箱。茶色く薄汚れた壁や天井。ボロボロになった薄緑色の掲示板。全てが僕の覚えている光景、そのままだった。

とはいえ、それを正直に感動していたと言い表せるほど、僕は成熟していない。恥ずかしいとまでは思わないけど、つまらないものだとは思ってしまう。

郷愁。感傷。憂い。

どれも人に言ったらつまらないものになってしまう。

特に、日向には。

「それはそれとしてだ。日向、なんでお前はそんなところに登っているんだ?」

しかも座禅する必要性はあるのか?

僕の質問に、日向はよく分からない顔をした。

「…いや、これが『うんてい』というものかと、初めて目にした感激で遊んでみたくなったんだ。それで実際に遊んで、ぶらぶらとぶら下がって移動している最中に、何となく登ってみたくなったんだよ。そして登ったら何となく座ってみたくなったんだ、ボクは」

と、日向は言った。

「まあ、何となく登ってみたくなる気持ちは分かるけどな。僕も小学生の時は、よく色々なものに登っていたしな」

うんていだけじゃなく、登り棒や鉄棒や、うさぎ小屋の屋根にまで登っていた。なんでそんなことをしたのかと問われても、今の僕ではやはり何となくとしか答えられない。でも、多分、僕は高いところに登りたかっただけなのだろうと推測はできた。昔は特に背が低かった僕だ。子供心にコンプレックスを抱いていて、無意識に高いところを望んだ可能性はありそうだった。

「にしても、座禅を組む必要はないだろ」

「そうかな? 座るんだったら、座禅が一番だとボクは思うよ。一番、落ち着く。一番、物事を奇麗に考えられる」

腕を組みながら、日向は頷いてそう言った。

「それに、うんていの上で座禅すると、意外と安定するんだよ」

「安定、ってか痛そうだけどな」

「それは確かに」

日向は苦笑して、「ほっ」と掛け声を出してその場に立ち上がった。そのままなだらかな坂になったうんていの上を降りていく。端まで来たところで、地面に軽々と飛び降りた。

見るからに身軽な奴だ。

日向は僕に近づいてきて、今度は先程と逆に、僕を見上げながら言った。

「さて、それではそろそろ校内を案内してもらおうかな」

「ああ、いいよ」

僕らは運動場のトラックを横切って、校舎に向かって歩き出した。


「ふうん。君はこの教室で学んでいたんだね」

日向が教壇に立って、教室を見回すようにして言った。

「そうだよ。ああ、確かにここだったはずだ」

今から考えて六年前。僕が小学六年生の時に使っていた教室に、僕らはいた。

最初、僕は自分が小六の時、何組だったかを覚えていなかった。六年前だ。去年のクラスだって覚えていない僕としては、その数値はもはや未知数でしかなかった。自慢できることではないけど。

でも、校内を散策している内に、いろいろと思い出してきた。音楽室、図工室、図書室にパソコン教室。そして、数多くの通常の教室。自分が何組だったかはいまだに思い出せないけど、自分が何処を使っていたのかは、その光景を目にして思い出すことができた。

「ははは、なんだかんだで覚えているもんだな」

そんな些細なことが、妙におかしくて、不思議と嬉しくて、僕は笑ってしまった。

「記憶というものはそういうものだよ。関連づけが重要なんだ。よく暗記法にもあるだろう、何かを覚えるときは覚えやすいものと関連づけて覚えるという手法が」

「ああ、なんかきいたことがあるな」

「そもそも記憶――脳の記録方法は、種々雑多な情報を一つ一つ刻みつけるというものではないんだ。そんなことをしたら、たちまちボクらの脳は容量オーバーで壊れてしまうだろう。脳の容量は人が思っているほど大きくない。人が思っているほど脳は万能ではないんだ。脳は万能だなんて、ダジャレみたいで美しくないな」

と、一旦どうでもいいことで日向は言葉をつまらせた。

「脳は記録するとき、検索をかけやすくするように、圧縮が効きやすくなるように、様々なことを整理しつつ関連づけさせるんだ。例えば、昔よく聴いていた音楽を聴いたとする。すると、その音楽を聴いていた時の、昔のことが自然と思い出すことがあるんだ」

「それはよく分かるな。昔に流行っていた曲とか聴くと、そのころ何をしたとか他に流行っていたものとか思い出すもんな」

「そうだろう? そうやって実体験していると想像しやすいだろう。脳は決して情報を個々に記録するのではなく、関連づけによって記録することがね」

日向はそこで、苦々しい顔をした。

僕には、その理由が分かった。

手に取るように、

思い出すまでもなく、

分かる。

日向には、記憶がない。

記憶がなければ、過去もなかった。

日向は記憶喪失だった。

記憶喪失。こう聞くと、よくドラマや小説の中で出てくるいわゆるところの『ここはどこ? わたしはだれ?』というやつを思い浮かべるだろう。誰もが知っているように、あれはある一定の区間の記憶を失ってしまうものだ。社会的知識、日常生活における情報――例えば学校だったり、教室だったり、うんていだったり――は覚えているものだ。だから、普段を暮らすには不満はあっても不便さはない。だが、日向の記憶喪失は、違った。日向のそれは、それまで蓄えてきた脳の情報をそっくりそのまま、全て失ってしまうものだった。学校だって、教室だって、うんていだって、分からない。単語が分からない。意味も分からない。意味という言葉さえ、分からない。分からないということが、分からない。全てが、分からない。つまりはそういうことだ。僕が出会ったときの日向は、まるでとかの枕詞がつかないくらいに、赤ん坊同然だった。見るもの全て知らないし、触るもの全て分からない。自分が何かも分からなければ、やはり分からないことも分からない。

 それから数年で、幸いなことに、日向はこうしてしゃべれるまでには成長できた。記憶ができた。脳が正常に働いてくれていたのだ。だが、正常に脳が働いているからこそ、どうして日向が記憶喪失に陥ったのか、まったくわからなかった。『理由がなければ、脳は壊れない』。僕はそう思った。どう考えても、人間がどんなに未完成な存在でも、理由もなく壊れることはないはずだ。だけど、日向の記憶喪失には理由が見あたらなかった。外傷もなければ、兆候もない。もし、精神的ショックを受けて、脳が自動的に記憶を消し過ぎたとしても、それには外傷を伴うことが非常に多いらしい。苛め、虐待、事故に事件、それらは記憶を失うには十分なほどの凶変であり、当然それに伴って身体には必ず何かしらの痕が残る。だというのに、日向には目立った外傷はおろか、些細な傷跡でさえ身体には存在しなかった。

 そして現在、正常に脳が動作していることからも、喪失の兆候は見られなかった。だから、僕は怖かった。今、正常に動いているのは、単にそう見えるだけで、また何かの拍子に、いや、なんの前触れもなく脳が壊れるのではないかと不安になる。また、記憶を失うのではないかと、恐怖に駆られた。

 これは僕が感じたことだ。僕が考えたことでしかない。日向は違った。自分のその症状から逃げようとしなかった。日向は将来への恐怖からも不安からも、逃げようとしなかった。それどころか、日向は過去からさえも、逃げようとはしなかった。

 自分の記憶を探す。自分の過去を見つける。そう僕に宣言してきた日向。僕はその言葉に、一種の畏怖さえ感じた。当然、と僕は頷いた。頷いて、僕も手伝うと言った。当然、と日向は僕に笑いかけた。それから、僕らは過去を探し続けている。日向の記憶を探し続けている。

 記憶の関連を探し続けている。

「……氷河」

日向が不意に僕の名前を呼んだ。

「どうした?」

「すまないが、トイレの場所を教えてくれないか?」

少し顔色が悪い。土気色とまではいかないが、普段の白さよりも一層白く見えた。

お腹を片手で押さえていた。

「なんだ、腹痛か?」

「……まあ、そんなところだ」

一瞬、言葉を詰まらせて、日向は言った。

なぜ、言葉を詰まらせたのかは、分からない。

僕はじゃあ連れて行ってやると日向に言った。

日向は教えてくれるだけでいいよと僕に言った。

では、と僕は日向に言葉で教えてあげた。

そして、僕は一つ付け足した。

「女子は赤い人型が描いてある方だからな」

「ボクだってそれくらい分かっているよ、氷河。子供扱いしないでくれ」

そう言って、苦しそうなのに笑った。

日向がドアを開いて、教室を出ていった。

僕は適当な席に座って、日向が帰ってくるのを待った。

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うんてい 三矢サイダー @mitsuyasprit

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