明後日

ダイナマイト・キッド

第1話

 気の早い寒波に見舞われた外の空気とは打って変わり、むっとするような熱気と喧騒が渦を巻く舞浜駅前のこじんまりした居酒屋「まえだ(駅前店)」の店内。僕はカシスオレンジが半分残ったグラスを片手に、テーブルの正面に胡坐をかいて座る女性の容赦ない罵声とカラカラした豪快な笑い声を浴びた。それが甘ったるいお酒と一緒に脳みそにしみ込んで、視界をぐらぐらと揺する。

 この大酒飲みで口の悪い女性は、僕の姉だ。といっても歳が8つも離れているうえ、高校卒業と同時に家出同然で飛び出したっきり。以来こんな風にゆっくり話をする機会はなかった。しかし、かといって他人という感じがするまでもなく…久々に会ってもやはり姉は姉だった。そして僕にはどうしても、ずっとずっと思い続けてきたこと…姉に会って、話したい…いや、伝えたいことがあった。

 ある日、突然姉から連絡が来た。僕が二十歳になったので、彼女が現在暮らしているこの街で酒でも飲もうという誘いだった。断る理由もない。僕は小遣いを有りっ丈もって新幹線に乗り込み、ここ舞浜市へとやってきたのだが…まさかここまでの酒豪とは知らなかった。そして数年ぶりに再会を果たした彼女は、その間の気苦労や年月の経過を重ねた分、顔に少しの皺と影が増して、それがどきっとするぐらいの艶やかさを放っているようにも見えた。

「で、何の話だっけ。続き続き。」

「え、だからあの」

そのとき、騒がしい店内に一際やかましい音楽と、耳障りなカン高い声が響き渡った。

「お得堂テレビショッピング!今日ご紹介するのは、なんとタラバガニ3キロセット!!みんな大好き冬の味覚の王様、タラバガニ!こちらを3キロセットにして1万5千円!どうですか、このボリューム!北海道で水揚げされたところを瞬間冷凍!鮮度も抜群ですよー!そしてなんと、今回はそれだけじゃありません、この3キロをさらに4キロに、いや5キロにしましょう!驚きのボリュームです!お電話は今すぐ、0120…」

 姉が不機嫌そうにつぶやく

「最初から5キロにしろよ」

 興味もなく、会話を邪魔された僕も曖昧に相槌を返す。

「そんなにあっても、ねえ…」

 テレビショッピングはお構いなしに捲し立てる。

「足の数にしてなんと90本から150本!大きさにバラつきはございますが、こちら税込み1万500円のところをさらに値引きして、税込み1万450円!!送料は、別です。」

「なら北海道行って1万円食ったほうが早いじゃねえか」

「まあ、ねえ…」

 どうやらここの主人が通販好きらしく、テレビの通販チャンネルを点けたらしい。

「おーいおっさん、うるせえよ。それよりお茶割り持ってきて!」

「はいよ!」

 姉はこの店の常連で、店主とも顔見知りらしい。この街に越してきてから3年というから、もうすっかり店に馴染んでいるようだ。

 目の前のテーブルに転がったビール瓶は9本。さらに今、焼酎のボトルとお茶を持ってこさせて、自分で適当に割りながら飲んでいる。常連客ともなるとこんな飲み方も出来るのだろうが、お酒を飲み慣れていない僕にだって、彼女の大ぶりなグラスの中身の比率がおかしいことぐらいすぐわかる。明らか、焼酎が濃いのだ。


 姉は大きなグラスにとくとくとお酒を注ぎながら、嬉しそうに自ら話を続けた。

「だっからさあ、あんたもいつまでもマゴマゴしてんじゃねえーんだよ!女の子だっていつまでも一緒じゃないんだよ。時間が経てば、気持ちも環境も変わるんだから。」

 ごっぷごっぷごっぷ、と喉を鳴らしてお茶の焼酎割りを流し込み、ぷはっと息をつく姉を半ば呆れながら見て僕は口答えをする。

「だって、そのチャンスが無かったんだから仕方ないじゃないか。」

「それよりあーた、その好きな女の子ってのは年上?年下?」

「だいぶ年上。」

「あーにぃ?生意気な!!」

そう、僕はつい口を滑らせて、いま好きな女性がいることを姉に教えてしまったのだ。おかげでこりゃいい肴を得たとばかりに、さっきから尋問と罵声の雨あられ。一体全体、僕はどうすればいいんだ。今更言えないよな…まさか目の前に座ってるあんたが好きだなんて。


「だって怖いんだ。もし言って、自分の気持ちを伝えた瞬間からそれまでの関係が壊れたりとか…もう同じ目では見てもらえないんじゃないかって。」

「そりゃま、そうだろうよ。誰だって今の今まで知らなかったのに、いきなりそんなこと言われちゃビックリするわな。」

「でしょう?」

「でもよ、それってのは結局おめぇーが、その子に知られたくないような下心があるからそう思うんだよな。」

「えっ、」

「あんだよ。違うんなら問題ないだろ?やましいことがあるから言いにくいんだ。そうだろ?やりてえんだろ。そうだ、男はみんなそうなんだ!どん!」

 どん、と姉は自分で言いながら、握りこぶしでテーブルを叩いた。そしてまた濃すぎるお茶割りをぐいと飲み干す。グラスから口に入りきらず溢れたお酒が彼女の白くふくよかなあぎとを伝って滴り、ぽたぽたと垂れてゆく。濡れた唇をぺろっと舐めてこちらに向き直った目が、完全に座っている。

「で、でも…」

「デモもストもあるか!どうなんだ!?やりてえか!?あん?」

ガヤガヤと喧しい店内だから良いようなものの、大声でそんなことを言われると困ってしまう…だってそりゃあ、姉さんの言うとおりだし…けど、相手が相手だから…うーん…

「え…まあ、うん」

「ほーーーれみろ!!このドスケベが!!!」

「………」

「大体さ、ずっと何も言わないで普通に過ごしてきて、いきなり好きだなんて言えた義理かよって。何年何か月か知らねえけど、ずっと下心持たれてたわけだろ?たまんねえよ女からしたら。愛とか好きとか言やあ耳触りは良いけどよ、要はヤリたいんじゃねえか。そんなもん、ちょっと付き合いの長い女の子んとこいって ずっと好きでした、って言やあ誰でもなんでも良いじゃねえかよ。」

 姉さんの集中砲火は続く。

「そもそもお前、女の子と付き合ったことあんのかよ?」

「まあ、一応…」

「一応?ハッキリしねーなー!付き合ったことあんのか?ヤったのか!?」

「う、うん…」

「ほーお!お前てっきり童貞かと思いきや。案外やるじゃねえか。」

「いや…けど…」

「けど?どいつもこいつも大して好きじゃなかったってか?」

「違うよ!…みんな好きな人とだったよ。だけど」

「いま好きな人とは比べ物にならない?」

「うん…」

「へーーえ!ほーーーーお!!」

「………」

「まあよ、お前の言いたい事もわかるよ。けど、そう深刻な顔すんなって。なんだかんだ言って、よほどの相手じゃなきゃ嬉しいもんだよ。嫌いだって言われたり、侮辱されるわけじゃないからな。一応、自分に魅力を感じてくれてるってことだし。」

「そうかなあ…だといいけど」

「まあ聞けって。お前らぐらいの年頃だろうと、あたしらよかずっとイイ歳こいた連中だろうと、恋愛なんて所詮猫かぶり合って好き勝手言ってるだけなんだ。出会って付き合あってみてヤってみて、それからだよ。どこで終わろうがどこまで続こうが、どんな相手とどんな始まりでも、どんな終わりでも、それはそれ。どっかで「はい、オシマイ!」ってなるまでの楽しい人形劇ってわーけだ。」

 ぐびっっっ…とグラスに残った焼酎を一気に飲み干し、姉さんは僕を少しだけじっと見た。目線が、テーブル中央に置かれたフライドポテトの上でかちっとぶつかった。そして目線をそらさずにふふっと笑うと、

「うし、飲んだ飲んだ。カラオケ行こうぜ!」

と言うが早いか立ち上がり、ブーツを履いてレジへと歩いて行ってしまった。僕は慌てて食べ残したポテトを一掴み口に放り込むと、その後を追った。

「はい、よろしく。デートじゃいつも払ってるんだろ?」

 姉さんにぐいと突きつけられた細長いバインダーには、無数の手書き伝票が重なっていた。だけどよく見ると、最終的な合計金額は僕が思っていたよりもずっと安かった。


「うう、さみい…あ、ごちそうさまでした!」

 腕を組んでばたばたと大げさな足踏みをしながら、姉は僕に礼を言った。

「思ったよか安かったね!」

「だろ、良い店だ。」

 姉は黒い厚手のコートを羽織ると、店の外に置かれている 居酒屋まえだ(駅前店)と書かれた看板をばしばしと叩いて、僕の方を振り返らずにスタコラ歩き始めた。僕はまたもや慌てて後を追い、横に並んで歩いた。

 往来の途絶えた歩道と、ロータリーで所在無げにしているタクシーを背景に、姉のきれいな顔が夜風を切って進んでゆく。冷たい風に時折顔をしかめると、ぎゅっとつぶった眼と瞼が子供っぽさを増して、また可愛いと思った。

「あに見てんだよ」

「え」

「なんかついてるか?」

「いや、可愛いなー…って」

「はあ?」

「だって」

「ばっかじゃねえの」

「すみません」

 まるで相手にしてもらえないみたいだ。そりゃそうか、僕、弟だし…。でも、可愛いよなあ。

「おい、こっちだ」

「あ、はい」

 ぼんやり歩いていたら、もうお店の前についていた。カラオケ屋は周囲の閑散とした雰囲気に全くそぐわない、お馴染みの派手な電球が沢山点いた看板をびかびか光らせて、僕たちを待っていた。そこはカラオケ以外にも飲食店やマッサージ店などが入っているビルで、カラオケ屋は3階から5階までを使っている。やたらと白く明るい蛍光灯だけがまぶしい殺風景な廊下を奥へと進み、エレベーターのボタンを押す。言葉もなく、吐き出す息だけがふわっと白く膨らんで消えてゆく。間もなく、銀色のドアがかこんと音を立てて開き、僕と姉は小さな四角い箱の中に入った。間近に立つと、小柄な姉の髪の毛がちょうど僕の鼻先にあって、横柄な態度やややきつめの美貌とは少し違った甘いにおいがした。僕は息を吸い込むたびに、この甘いにおいで肺の奥まで満たされた。だけどエレベーターはすぐに3階に上がり、姉はまたしてもスタコラ歩いて、フロントに向かってしまった。エレベーターの中に、ほんの少し、甘いにおいが残っていて、名残惜しかった。


 フロント係の茶髪で細身の男が、姉の言葉を聞いて慣れた手つきで伝票をだし、

「こちら右手奥の307号室になります、お飲み物はこちらです。ごゆっくりどうぞ。」

 と案内しながら、液晶付きのリモコンとおしぼりの入った赤いカゴをひょいと渡した。すい、と伸ばした姉の手と、その店員の手が軽くぶつかって触れた。

「あっ」

「お」

 二人の声が騒々しい店内に漏れ出した。僕は甘いにおいでいっぱいだった胸の奥に、急に冷たい風が強く吹くのを感じて、少しだけ店員をにらみつけた。

「おい、コーラ。」

「あ、はい」

姉のぶっきらぼうな注文で我に返った僕は、フリードリンクのサーバーにグラスを置いて、青いボタンを押してコーラを注ぎ込んだ。自分の分も同じくコーラを注いで、グラスを二つ持って僕は振り返った。フロントの男をちらっと見ると、まだ姉を遠目で見ていた。僕の視線に気が付いているのかいないのか、その目には明らかな意思があった…と、僕には感じられた。


 307号室は狭く、廊下の曲がり角だった。そのため外からは部屋の中が見えにくく、大きな死角があった。姉はその外から見えなくなった部屋の角っこにすぽっと入り込むと、居酒屋の時と同様に脱いだコートやカバンを置いてすっかりくつろぎ始めた。まるで巣作りだ。僕は姉の対面に座って、コーラのグラスを差し出した。

「おっ、ご苦労ご苦労。」

「もうそんなくつろいでるのかよ」

「なんか歌ってくれよ」

 姉は僕の言葉には答えず、そう言いながらリモコンを手渡してきた。最新式だが、随分傷や手あかのついた液晶リモコンの画面を指でつつき、僕は少し緊張しながら歌う曲を探した。あまり歌は得意じゃないし、早く姉の歌を聞いてみたかったが、逆らっても仕方がない。カラオケに行くことは事前に決めていたので、実はこっそり歌う曲を考えておいたのだ。いくつかある候補のうち、一番初めに歌おうと決めていたものを探して、送信ボタンを押す。イントロが流れ始めて、僕はカゴの中からマイクを一つだけ取り出して、口元に寄せて叫んだ。

「お前も蝋人形にしてやろうか!」

 口に含んだコーラを吹き出して、姉は大爆笑していた。やった。もうこれで、ほとんど目論見は達成したも同然だった。僕は気分よく歌い終わり、マイクのスイッチを切った。

 姉はテーブルと傍らの上着をおしぼりで拭きながら、まだくすくす笑っている。

「お前、そりゃねえだろ!」

 乱暴な言葉を投げつけてくるけど、その言葉の端が笑っているから、不評ではなかったようだ。衣服が汚れたことを少し言われるかな、と思ったけど、それもなかった。次はいよいよ、姉の歌を…

「あーおかしい。よしもう一曲いってみようか!」

「へっ」

「ほらほら!」

 …なんでえ。仕方がないので、また次の候補を探してみる。僕の地元よりも大きな街だからか、カラオケの曲目も豊富なようだ。よしこれにしよう…。


 そして僕は、結局この後も姉から様々な(散々な)リクエストを受け、10曲連続で歌い続けた。その間、姉は携帯電話をいじくったり、コーラを飲み干したり、歌っている僕と妙なドラマ付きの歌詞を交互にぼんやり見たりしていた。そうして僕が10曲目を歌い終わって漸く、

「よし」

 といって、姉はリモコンを手に取った。

 少しして、姉が入力した楽曲が画面に表示された。


 無邪気だったあたしはあいつだけのものだった

 無邪気だったあいつはあたしだけのものだった

 

 もうあの桟橋に 灯りは点らない…


 中島みゆきの歌だった。姉の声質によく合った、切なくも力強い歌声。画面を見ながら歌う姉の横顔を、僕はじっと見ていた。頬や唇がぐっと動くたびに、マイクを握る指先に、力がこもるたびに。僕は姉の歌声に引き込まれていった。

「おう、どーよ」

「すごいよ!うまいじゃん。もっと歌ってよ」

「店でよく歌ってたからな。狙った点数も出せるし、それでよく賞品もらってたんだ」

「なーるほど」

 いわゆる水商売の長い姉にはうってつけの特技だったらしい。そういえば家にいた時には、音楽に興味のあるそぶりも見せなかったっけ。何か歌っているところも、ついぞ見たことがなかった。仕事をこなし、日々の楽しみを探す中で見つけた特技なんだろうか。僕は僕の知らない、姉の数年間を少しだけ見た気がして、どきどきしていた。調子づいた姉は内線でチューハイのお代わりを頼むと、再びリモコンの液晶をつつきながら選曲を始めた。今度はどんな歌だろう。姉の歌を、もっと聞いていたい。あの滑らかに動く口元に、しばらく見とれていたかった。テレビのお知らせ画面が暗転して切り替わり、曲名と歌い手が画面に映し出される。僕はどんなそれを忘れまいと、目を凝らしてじっと見た。

「流星群」

 と書いてあった。


 結局ここでも姉はしこたま酒を飲み、そのあとぶっ続けで歌い続けた。そしてあらかた歌い尽くしたところで

「疲れた。あと歌ってくれ」

 と言って、僕にマイクをひょいと寄越して自分はソファに横になってしまった。マイクにはまだ姉の手の温度と、ほんのり湿っぽい感触が残っていた。あれだけ熱唱したのだから、汗もかくだろう。僕は姉に悟られないようにそっと、だけど強くマイクを握りしめて、その湿っぽさを自分の手のひらにしみ込ませた。丸い網目に顔を近づけたくても、すっかりくつろいで目を閉じた姉の口元に近づきたくても。僕はそうはせず、リモコンの液晶を人差し指でぽんと突ついた。

「ねむい」

 姉が突然言い出した。そりゃあ、まあそうだろう。

「寝る?」

 僕は少し期待した。

「寝ねえーよ。」

 しかしあっさり否定された。

「おい、あっこ行こう。」

「へ?」

「あるだろ、駅前によ。ペンギンの。」

「ああ。いいよ。」

 どうやら遅くまでやっている激安雑貨屋に行きたいらしい。

「欲しいもんでもあるの?」

「うん、ピアス買う。」

「ピアスしてるの?」

「おお」

「今日は?」

 姉の耳たぶは白くてぷるぷるしてて、とてもきれいだ。

「してない。」

「なんで?」

「いいじゃねえか。」

 実は、ピアスしてない方が姉のきれいな耳のためにも、良いと思う。でも、ピアスを選ぶ姉を見てみたいとも思う。昔から着飾ったり、甘い化粧と恰好をするようなタイプではなかったけれど、それは今も変わらないみたいだ。きっと仕事をするときにだけ付けているんだろう。だからこそ、どんなものを、どんなふうに笑って選ぶのだろうかと、僕は興味津々だった。ペンギンの看板がある雑貨屋は、夜更かしをする街になら全国どこにでもある大型チェーン店だ。僕自身はあまり用もないので入ったことは少ないけど、姉は仕事柄か元々の趣味なのか、ちょくちょく利用することがあるようだ。

 僕は内線で退室を告げ、フロントで例の男をにらみながら精算をした。男はこちらの目も見ずに、ぼそぼそと金額を述べただけだった。姉と並んでエレベーターに乗り込むと、歌ってがなって汗をかいたのかさっきよりも甘いにおいが強くなっていて、僕の鼻をぐるぐるとくすぐってきた。ドアが開いて、外の冷たい空気が一瞬でこの小さな箱の中を蹂躙してしまう。僕はどさくさにまぎれて、姉と手を繋ごうと右手を伸ばした。

「んだよ、うっとーしいな!」

 が、これもまたあっさり拒まれた。

「いいじゃんか、手!」

「やだ!」

 ちぇっ。


 雑貨屋はカラオケ店を出てそのまま駅と反対に進み、飲食店やいかがわしいお店の入った雑居ビルのうちのひとつを丸ごと使って営業していた。棚卸の今日を除いて、年中無休で。

「あーん?棚卸だあ!?」

「あらまあ…」

「何考えてんだこの店はよ、あたしが来るっつってんだろ今日わ!」

 わ、と語尾を強調して怒っているが、ただの八つ当たりだ。

「どうしよっか」

「知るか!」

 完全にとばっちりだ。

「よし散歩だ」

「へ?」

「歩け、若者よ!」

 いきなり何を言い出すんだ…でも、真夜中に二人でふらふら歩くのも悪くないか…ふとそんな風に考えて、結局しぶしぶついていくふりをしている自分が、情けないような可愛らしいような。全ては、この愛すべき酔っ払いであり誰よりも愛する姉のためだ。

「なんだよしかし棚卸ってよ」

「まだ言ってる」

「そら言うだろ!こんちきしょーアッタマ来た」

「まあまあ」

「あんだよおめえわよお!」

「まあまあ」

 僕はなだめるどさくさに紛れて、姉の肩にぽん、と手を触れた。

「さわんなっ!」

「姉さん酔ってる?」

「酔ってねえ!あのな、あたしゃ酔ってるときよか醒めてるときのがおかしいんだとよ。なんか、そう言われんだよ。おかしいか?」

 うん、まあね…と言いたいところだが、ぐっとこらえて質問に答える。

「いや、まあ、酒に強いから酔ってても変わらないんじゃない?だから、酔ってるときのがマトモに見えるんだよ。」

「じゃあやっぱおかしいんじゃねえか!」

 しまった。

「まったくお前は気が利かねえな。おっ、ほら見ろ、あの部屋、まだ灯りが点いてる」

 姉が指差したのは、ちょうど真上の辺りにある高層マンションの上の方。かなり上の部屋にひとつだけ、ぽつりと黄色っぽい灯りが漏れた窓がある。

「今、あの部屋の奴が雑貨屋行きたくなったとするだろ、そんで行ってみて閉まってたら、頭来るだろ?」

「んな夜中に雑貨屋行くやつばかりじゃないって世の中!」

「いーや、奴は行くね!」

 いつの間にかあの部屋の住人の事を、奴、と呼び始めた。

「今から言って聞いてやろうか?ぴんぽーん、て。そんで、あのーすみませんが、今、雑貨屋行きたいですよね?」

「きちがいだよそれじゃ!」

「いーや、奴は言うね。あー!今ちょうど行きたかったんですよ!」

「いやいやいやいや」

「そしたらあたしがこう言うわけだ。でもね、今日、棚卸で休みなんですよー。」

「そんで?」

「そしたら奴だってアタマ来るだろうよ。ふざけんな!って」

「んなわけあるか!」


 あてもなく歩き続ける僕と姉の、どうにも行き先の見えない会話が夜道に響き渡る。人も、車も、滅多に通らない。もうかなり深い時間だ。姉の吐き出す白い息が、僕の顔の方に流れてきて、僕は思わず呼吸のリズムを乱して、咳き込んでしまう。

「おいお前こそ酔ったか?弱いもんなー、酒。」

 憎まれ口を叩きながらも、姉の白くすべらかな手のひらが、僕の背中をさすっている。厚手のジャケットの上からでもわかるくらい、細くてしなやかな指先。誰となら、この手を繋いでいるのだろう。誰となら、この指を絡めてきたのだろう。

「あ、ありがと」

「ん、おう」

 姉は僕の背中をぼん、と叩き、また歩き始めた。

「ねえ」

「あん?」

「どこ行くのさ」

「さあーな」

「さあって」

「いいじゃねえか。あ、ほれ、あそこにコンビニがある!」

「ああ。何か買う?」

「いや。あ、ほらコインランドリーもある!」

「あるねえ。」

「駐車場もあるじゃないか!便利だなー!」

「…うん。」

「なんだよ」

「ううん。」

「疲れた。」

「結構歩いたね。」

「座ろう。」

「うん。」

 姉はコインパーキングに入って行って、通りからは車の陰になるところを選んで黄色くて丸っこいフェンスに腰かけた。僕も、その隣によっこらしょっと座る。すっかり冷え切ったフェンスの所為で、お尻が冷たい。

「ふう」

「ふう」

「マネすんな!」

「してないよ」

「おい」

「ん?」

「あったかいコーヒーがあったらいいと思わないか」

「飲みたいの?」

「るせえ!こう、真夜中に星を見ながら語るのにだな」

「買ってこようか?」

「聞く前に買うんだよ、こーゆーのは!」

「はいはい。」

「そこの赤いのな。」

「朝専用。」

「いいじゃねえか!」

「まあ、もう朝みたいなもんか」

「いやそこまでじゃないな」

「なんなんだよ…ほれ」

 僕は自販機から温かい缶コーヒーを取り出すと、姉に向かって軽く放り投げた。

「おう。」

 パキッ、という乾いた音をたてて、姉の缶コーヒーが開けられた。甘いコーヒーのにおいのする湯気が、隣に座った僕の鼻先にもふわりとゆれる。

「お前さあ」

 唐突に、姉が言う。

「いま好きなひとが居るつったろ?」

「…うん。」

 思いがけず蒸し返されて、僕は少し戸惑った。何か答えようにも、心の準備が…くどいようだが、僕が今心底愛しているのは、目の前にいるあんたなんだ。

「そいつとさ」

「んー」

「アタシとどっちが美人よ」

「はあ!?」

 僕の素っ頓狂な声が、夜空にこだまして消えてゆく。

「どーなんだよ」

 姉はニヤニヤしながらこっちをじっと見ている。

「そりゃあ、まあ」

「まあ?どっちだよ、あそうだ、そいつの名前教えろよ」

「えっ、なんで」

「聞きてえから」

「ヤだよ。」

「言えよ。」

「ヤだよ。」

「チッ」

「舌打ちすんな!」

「つまんね。」

「悪かったな。」

「じゃ言えよ」

「なんでよ!」

「言わねえなら謝んな。」

「………。」

「そんな好きかよ」

「………。」

「どーなんだよ」

「うん。」

「ふーん。」

 気まずい話題が、ずっと続いてゆく。姉は時々夜空を見上げて、ほわっと大きな白い息を吐いた。冷たいフェンスに腰かけて、白くて小さな両手で缶コーヒーを握りしめる姉はやっぱり可愛かった。そしてその顔で次々に悪態をついては、ゲラゲラ笑う。その対比がまた、魅力的だと思った。

「姉さんは…」

「あ?」

 姉が空っぽになった缶を歯で咥えながらこっちを向いた。

「姉さんのが、美人だよ」

「…そうかい、ははっ。」

「うん。」

 本当は違うんだ。「姉さんは、美人だよ。」そう言いたかった。だけど、やっぱり言えない。言葉にして口から出そうとすると、どうしてもつっかえてしまう。

「お前、なあ」

「えっ、なに?」

「なーんか隠してんだろ?」

「えっ、なにも?」

「ふうん。」

 姉の鋭い眼光が真っ直ぐ僕の瞳を射ぬいて、整った口元が妖しく笑った。

「姉さん、いま何時?」

 僕はあからさまに話を逸らした。

「んー?」

 んー、と言ったきり、姉は時計も携帯電話も見る素振りがない。

「ねえ」

「ああん?」

「時間。」

「そんなに知りてえかよ。」

「いちおう…。」

「いいじゃねえか。」

「まあ…」

「お前、どうせ朝には帰るんだろ。」

「うん……えっ?」

「え、じゃねえよ。大体、おめえ近えよ!」

 どん、と姉にどつかれて、僕はフェンスからすとんと降りてしまった。フェンスに座っている姉の顔と、目の前に突っ立っている僕の顔の位置が、大体同じだった。ホントに小柄で童顔なのに、顔たちと身体つきから立ち上る色っぽい、陰のある雰囲気が濃密で、本当に魅力的だと、改めて思う。こんな人が、今ずっと隣を歩いてて、誰も知らない夜の街で、二人きりの時間を過ごしている。だらだらと過ぎていったこの数時間が、急にかけがえのないものに感じられた。

「よし。」

「へ」

「ねかへー行こう。」

「ねかへー?」

「インターネットカフェだ!」

「ああ、ネカフェ。」

 また唐突な。でも、いいか。そろそろ出歩くのも疲れたし…狭い所で二人きりになれるし。僕と姉はゴミ箱に空き缶を放り込み、いま来た道を折り返して歩いた。

「どこだよ」

「は?」

「ねかへー」

「知らないの?」

「お前は?」

「知らないよ!」

「なんでだよ!」

「姉さんの地元じゃないか!」

「あにい?えらっそーに。調べとけよ!」

「そんなあ」

「まあいいや、あーここだ。」

 二人で喋りながらダラダラ歩いていたら、再び駅前の静まり返った歓楽街に戻って来ていた。さっきのカラオケ屋のすぐ近くだ。同じような雑居ビルだけど、駅前のロータリーに面している分こちらの方が小奇麗だ。エレベーターで2階へ上がって店内に入ると、静まり返った空間に空調と誰かのいびきだけがかすかに聞こえてくる。カウンター越しに時計を見ると、時刻は深夜3時を過ぎていた。応対する店員もひどく眠たげに見える。僕と同じぐらいの年恰好でかわいい子だけど、恐ろしく愛想がない。声に抑揚もないし、こちらを見ようともしない。その点うちの姉はむすっとしているが動作やふとした表情が妙に可愛らしかったり、色っぽくてドキッとしたりする。可愛ければいいというもんじゃないんだな。

「ペアシート、フラットで。あーはい。禁煙で。」

 なんだか無愛想というより無表情と言うべきな気がしてきた店員に対し、姉はすらすらと受け答えをしている。ペアでフラット…タバコは、案外吸わないんだな。

「ではDの28番、3階になりますので奥のエレベーターからどうぞ」

 店員の案内を聞いて、再びエレベーターに乗り込む。少し汗をかいたのだろうか、姉の髪の毛の甘酸っぱいにおいが、僕のところまでハッキリ漂ってくるほど濃厚になっていた。


 Dの28番は、これまた店の奥まったところにあった。他の個室は隣同士がくっついているが、ここは角なので右側だけだ。その右側のフラットシートからは、静かな寝息が二つ、不規則なリズムを作って漏れてきている。姉はいそいそとブーツを脱いで、黒いシートにごろんと寝転んだ。

「おい、梅昆布茶とソラニン。」

「は?」

「はいご苦労さん!」

「……」

 僕も早く姉の隣に寝転ぶ気満々だったのだが、見事な先制パンチを浴びた。しまった、こういう奴なんだこの姉は…嫌いじゃないけど。そんなところも。

 まずエレベーターで2階へ戻り、漫画を探す。ソラニンは僕も好きな作品だけど、さてどこにあるのやら。よく考えてみると、何処の出版社のどの雑誌に乗って居たかなんて、まったく知らなかったのだ。どうしよ…。途方にくれながら、僕は一番手前の本棚から順番に、五十音順に並んだ単行本の「そ」の欄を覗いて行った。


 意外とソラニンが見つからず、作品自体も二巻しかないだけに探すのにずいぶん手間取ってしまった。漸く手にした単行本を持って、今度は梅昆布茶を用意する。ドリンクコーナーに用意された熱湯と粉末の梅昆布茶を湯呑に溶かし、自分の飲み物を…と思ったが、単行本と湯呑で両手がふさがっていた。仕方がない、あとでまた取りに来よう…。僕はあっつい湯呑を揺らさないように、そっとDの28番ブースへ戻ってきた。姉のブーツが、まだ外に置かれたままだ。中に靴を置くスペースもあるのに…ズボラなところは、変わってないんだな。実家に居る時も、風呂上りは下着かバスタオルを巻いただけでウロウロしてたし。

「姉さん、梅昆布茶とソラニン。」

「………」

 あれ?僕は両手がふさがったまま苦労して靴を脱ぎ、肘でブースの引き戸をスルスルと開けて驚いた。…寝ている。姉は個室の床に寝転んで、自分の左腕を枕にしてスースー寝息を立てていた。とりあえず、テーブルに湯呑と単行本を置いて、自分の靴を下足入れに仕舞った。姉のブーツは、これには入りきらないみたいだ。折り曲げるわけにもいかないだろう…僕はそれを手に持ったまま、少し動きを止めてしまった。ずっと歩きっぱなしだったから、ブーツにはまだかすかに熱が残っていそうで、僕は内側をじっと見てしまった。

(顔を近づけてみようか)

 ブーツの内側に顔を突っ込んだ、自分のみっともない姿が脳裏に浮かぶ。本当にこもっていて欲しいのは、熱なんかじゃない。

 肺の奥で熱い空気が膨らんで、頭がくらくらする。さっきまでの乱暴な言動と不可解な行動とは裏腹に穏やかな寝顔を見せている姉の、汗と匂いの染みついたブーツ。よくよく見れば見るほど、姉は美人だった。そんな姉の、足の裏や、首筋や、耳の後ろ側は、どんなにおいがするだろう。

(バカなことやってんなよ)

 という姉の声が今にも聞こえそうで、僕はそそくさとブースに入った。ブーツは結局、外に置いたままだ。ただし邪魔にならないように、横向きにして引き戸の下に入れておいた。


 あ。僕は自分の飲み物を持ってきていないことを思い出した。靴を脱いで、柔らかな床に座ってしまうと、もう立ち上がって飲み物を取りに行くのもおっくうだ。そしてテーブルの上には、程よく冷めた梅昆布茶。そういえば、そんなものが好きだったんだな姉は。僕は姉の寝顔をチラチラ見ながら湯呑を手に取って、梅昆布茶を飲んだ。少しお湯が多かったのか、味が薄い。姉に飲ませなくってよかったかも知んない。

それにしても…何かと騒がしい姉が寝てしまったので、僕は途端にやることがなくなってしまった。というか、四方を壁に囲まれた狭い部屋に二人きりなのに、目の前で無防備な姿で寝転がっている姉を見ていると、どうにも落ち着かない。僕はパソコンの電源を入れて自分のブログを更新したり、好きな有名人の日記を見たり、それも終わると退屈しのぎにヘッドフォンをして動画を漁ったりしていた。


気が付くと、動画を見始めて30分ほど経っていた。このブースに入って小一時間か。姉は全く起き出す気配もなく、身じろぎひとつせずに寝入っている。僕はヘッドフォンをはずして、ゆっくりと後ろを振り返った。すーっ、すーっという規則正しい姉の寝息が、何となく乾燥した雰囲気のブースの中にかすかに響いている。短いデニムのスカートから、黒いタイツの細い足が無造作に伸びて、スカートの裾をほんのすこし広げてしまっている。そう、ほんの少しだけ…見えそう。でも、見えない。店内の薄暗い照明と黒いタイツの所為で余計に暗くなっていて、本当に、ここからでは見えそうにない。…ここからでは。

僕はパソコンの前からほんの少し、右に20センチほどずずっと移動した。そのどさくさに紛れて、ほんの少し前進。足を折り曲げてこちらに突き出された姉のお尻に、じりっと近づいた。ここは天井の照明も届きにくくて薄暗いので、黒いタイツのつやつやした表面が余計に淫靡に見えた。そっと首を伸ばして、その足先に顔を近づける。姉さんの爪先が、ゆっくりと近づいてくる。僕は深く、ゆっくりと息を吸い込んだ。ねかへー独特の薄暗いにおいと、かすかに梅昆布茶のにおいがする。姉さんのにおいは、まだわからない。もう少し近づいてみなきゃ…。僕は再び、音を立てないようにお尻を浮かせて全身をした。すーっと、柔らかな床とズボンのこすれる音がする。姉のお尻の真ん前まで来た。

(起きない…よな。)

 僕は口から飛び出しそうな心臓とくらくらする頭を必死で抑えながら、初めて麗しの姉を間近で見つめた。じっとりと、まとわりつくように。千載一遇のチャンスを、とことん味わってやるつもりだった。床にそっと手をついて、姉さんの顔の方にじっくり近づく。横向きに寝転がっているので、脇腹の少し上のところにくっきりとインナーの線が浮き出ているのが見えた。それに、ベージュの薄手のセーターの脇の部分には、うっすらと汗がにじんでいた。僕は自分でも自分を変だと思うけど、思うけど、思いながらも、そこに顔を近づけたくてたまらなかった。気付かれたらどんな罵詈雑言を浴びるかわからないけど、それでもいい。僕は姉さんの全てが知りたかった。


 V字型に折り曲げた左腕の中に顔をうずめて静かに眠る姉を、じっと見下ろす。寝息がかすかに鼻をくすぐるくらいの距離まで近づいてしまった。お酒臭い…そして少しだけ、唾液の乾いたようなにおいがぷんとした。わずかに開いた口から、白い歯が見える。白くてすべすべした肌、腕枕でむにゅっとなった左半分の頬。額にはうっすら汗がにじんでいて、化粧品のにおいがする。髪の生え際からは、少し汗ばんだシャンプーのにおい。耳の後ろから首筋からは、蒸れた肌のにおい。女の人って、こんなにいろんなにおいがするんだ…そしてそのどれもがますます僕を狂わせていく。結局姉には、好きだ、とも、愛している、とも言えなかった。このまま朝が来たら、もうチャンスはないかもしれない。

(もう、だめだ…。)

 僕はそっと手を伸ばした。震える指先が、姉の白い肌に吸い寄せられてゆく。自分でもわかるぐらい、鼻息が荒くなってきている。そして…ふにっ、と、指先が触れた。姉さんの白い頬に。人差し指に吸い付くようなもち肌の、汗ばんだ湿っぽい感触。僕は指を離すことが出来なかった。そのまま少し、指先を押し込んでみる。頬に埋まる爪の先が柔らかな体温に包まれて、僕は今、自分がしている事…しようとしていることをはっきりと感じ取っていた。指先は中指も加わり、薬指、小指、そして手のひらになり、姉さんの顔や首筋を、そっと撫でてみた。耳たぶ、髪の毛、そしてまた頬に戻って、首筋。

 僕はそこでそっと手を離し、そのまま自分の鼻先へとかざしてみた。姉さんのにおいが手のひらにうつって、ふあっと香る。

(ぐくり)

 生唾を飲んだ僕は、いよいよ姉さんの右肩に手を触れた。ほんのり温かく、湿っぽさもある。その下のシャツと下着の手触りも感じる。ゆっくりと手のひらを下へと動かして、脇の付け根でそっと動きを止める。肩口よりも冷たく湿った手触りが、あこがれ続けた姉の秘密に触れたような気がして心地よい。人差し指と中指にほんの少し力を込めて、そのくぼみに指先を押し込んでみる。二の腕が閉じているのであまり奥には入らなかったが、それでもより深い部分の湿り気を指先に感じることが出来た。少しの間、ゆっくりと指紋の隙間の一つ一つ、皮膚の細胞一つ一つに彼女の汗と匂いをしみつかせるように指先を動かしていった。そして相変わらず静かな寝息を立てる姉の目の前で、僕は何気なく鼻先をポリポリ掻くようなしぐさで指先の空気を吸い込んだ。店内独特の空気のにおいに混じって、ぽわんと甘苦い香りが鼻から肺をゆっくり浸していった。数回、息を吸ったり吐いたりを繰り返す。段々自分の手のひらのにおいが混じって来て、物足りなくなる。そして再び手のひらを肩口へ…今度はそこからさらに、肌の露出した胸元へと伸ばしてゆく。白くきめ細かい肌の、少し湿っぽくて冷たい手触りが心地よい。汗が冷えたのだろうか。僕は鎖骨を撫でるようにゆっくりと手を動かしてみた。指先が、少しだけ下着の肩ひもに触れる。もう、あまり躊躇う事もなくなっている自分に驚きながら、僕はその下着をなぞっていった。横向きになった身体と下着のあいだに、指先が入り込めそうな隙間が空いていた。そこから、姉の白い乳房と、薄紅色の突起が見える。一度、軽い深呼吸をして…僕はその隙間に指先を滑り込ませた。それまでの皮膚と肉体の感触とは違う、張りのある柔らかな感触が伝わってきた。経験のある人間ならだれもが知る、この柔らかさ。僕は今、実の姉と、都会の片隅にある「ねかへー」の一室で、それも姉が寝ているうちに、その感触を味わっていた。二重三重の背徳が、僕の胸の中で膨らんで熱くなる。

「う、うーん…」

 !?

 一瞬、姉がもぞもぞと動いてうめいた。気付かれたかと思って、僕は思わず手を引っ込めて飛びのいた。しかし姉は、再度うーんと言ったきり、今度は仰向けになってまた眠り続けた。両手を軽く万歳するようにしているので、顔も身体もがら空きだ。僕は呼吸を整えると、足が姉の身体に触れないようにゆっくりとのしかかっていった。ちょうどお腹の辺りで馬乗りになると、顔をゆっくりと腋の下に向かって降ろしてゆく。さっきまで下敷きになっていた左側の腋は、体温とビニール製の床で蒸れてしまっているに違いない。セーターの腋にも、うっすらと丸い染みが出来ていた。鼻先まであと数センチと言うところに来て、それは突然やってきた。濃密な汗と皮膚蒸れたかおり。わきがの類ではなく、むしろ汗臭くて少しすっぱい。

(美人で可愛い姉からも、こんなにおいがするんだな…。)

 僕は今はっきりと、彼女を姉ではなく一人の女性として愛していることを感じた。自分の中でずっともやもやしていた感覚が、すーっと晴れていった。僕は、彼女が欲しいんだ。彼女が姉ではなく、一人の女性あるように、僕もまた、彼女にとって一人の男として見られたい。一人の男として、彼女のことが、すべてが欲しい。そして僕はさらに顔を近づけ、ゆっくりと両手を伸ばして彼女のあぎとをそっとつかんだ。目を閉じて寝息を立てる白い顔が近づいてくる。アルコールと、乾いた舌のにおい。すう、ふう、すう、ふう…彼女の小刻みな呼吸を見つめて、タイミングを計る。心臓が口から飛び出しそうだ。胸がいっぱいで、いまにも眩暈を起こして倒れそうだ。目玉の裏側からチカチカと星が光って、くらくらする。すう、ふう、すう、ふう…すう。

(千夏…)

 僕は小声で、彼女の名を呼んだ。そしてその瞬間、少し開いたままの彼女の唇に口づけた。ちゅっ、と柔らかな音がして、温かな感触がじわりと押し寄せてくる。目を閉じて、ゆっくりと彼女の唇に吸い付いた。両手を添えた頬が、ほんのりと熱を帯びている。息苦しそうな鼻息が僕の顔中に吹きつけられてきて、今自分が何をしているのか…ハッキリ教えてくれているようだった。


(ちゅるっ)

 えっ。

 あっという間の出来事だった。僕はさっきまでとは反対に両手でしっかりと顔を抑えられ、唇を貪られた。そして息苦しさに口を開いたところに、細長くてしっとり濡れた舌が強引にねじ込まれた。彼女の反撃を受けている、と気が付いた時には、顔を抑えていた手が首の後ろに回り、僕は柔らかな床の上に転がされていた。姉の冷たい足が僕の太ももの辺りに絡みついて、身体と身体がしっかりと密着している。二人の衣服がごしごしと音を立てた。

 どれぐらいそうしていただろう。気が付けば僕も夢中で姉の唇に吸い付いて、舌を絡ませていた。ブースの中に湿っぽい音が響いているけど、すぐ近くの天井でごうごう唸っている空調の音の方がうるさくて、僕たちの秘密に気付く者はいないようだった。そっと目を開くと、ぎゅっと目を閉じた姉の白い顔が間近に迫ってきていて。彼女の甘い吐息が唇の隙間から漏れて、僕はそれを胸いっぱいに吸い込んだ。夢を見ているような、どこかでまだ信じられない気持ちのまま、僕はもう一度目を閉じて姉の唇の奥へ舌をねじ込んだ。

 そーっと、後頭部に添えていた右手を背中の方へと移動させてみる。嫌がるかな…怒るかな…殴られるかな…。そんな僕の心配は、どれ一つとして当たらなかった。姉さんはただなすがままに、僕の手のひらで撫でられてくれていた。背筋に沿って手をゆっくり動かすと、そのうち服越しの手触りが少し変わる。下着の留め具のようだ。この服と下着の向こうには、むき出しの彼女が居る。そう思うと、この留め具の手触りさえ愛おしくてたまらなかった。姉さんの吐息の甘さが薄れてきて、もっと生臭い剥き出しのにおいがするようになった。きっと僕もそうだ。絡み合う舌と舌の間から唾液がこぼれて、黒いシートにぽたっ、と落ちた。その音を合図にして、僕は再び手を動かした。下敷きになったほうの手を下へ、下へとずらしていって、細い腰回りを通り過ぎた。姉さんはほんの少し身体を硬くした。ぎゅっと閉じた目元に、うっすらと汗がにじんでいる。…いいんだ。


 今度は僕が緊張して、ぐっと体をこわばらせた。その感覚が伝わったのか、唇をくっつけていた姉が不意に目を開いた。彼女はぐっすりと寝ている、という、とうに崩れ去った大前提が、ついにはっきりと否定されたその瞬間に、彼女は僕の目をぎっと見つめていった。

「いーんだな。」

(えっ)

 僕は言葉の真意がわからずに、彼女の目を見つめ返した。その戸惑いの色を感じ取ったのか、彼女の言葉は一層鋭さを増して僕を突き刺した。

「これでもわかんねえのかよ。」

(あっ)

 僕はあまりに意外な物を目にして、再び固まってしまった。大粒の、透明な雫。生まれて初めて僕の前で見せた、玉のような涙だった。泣いている…?姉さんが、あの姉さんが泣いているんだ。泣かせたのは、僕だ。

 あまりの事態だったが、僕は思ったよりも冷静だった。なんとかしなくちゃ…そう思えば思うほど、彼女がますます愛おしくなってきて止まらなかった。寝転びながら俯いた彼女を、僕はぎゅうっと強く抱きしめた。頭の上から覆いかぶさるように、彼女の涙を、見なかった事にするように。

 ひっく、ひっく…と、しゃくりあげる声が聞こえる。僕の胸の中で泣き続ける彼女の体温と汗と甘いにおいで、体中がいっぱいになっていくようだ。

(いーんだよ…)

 僕はそう言う代わりに、再び顔を近づけて、呼吸を合わせて彼女に口づけた。涙の味がして、少ししょっぱかった。彼女の冷たい手のひらが、僕の身体を音もなく滑って行った。


 彼女の背中は、ほんのり汗ばんでいた。僕もシャツの中にうっすらと汗をかいていて、少し暑い。暖房の効いた店内で、ビニール皮の床に寝転んでいるせいもあるだろう。だけど、それだけじゃないだろう。

僕は彼女をゆっくりと転がして、仰向けになってもらった。その横から上半身だけを持ち上げて彼女の胸のあたりに乗っかった。特に抵抗はされなかった。だけど、彼女はずっと僕と目を合わせようとしてくれない。それが少し気になったけど、もう自分で自分が止められなくなっていた。ずい、と顔の前まで来て、今度は耳の後ろからゆっくりと首筋へ唇を這わせてゆく。白い肌の冷たくて塩辛い感触が心地良い。手のひらを衣服の下へもぐりこませても、やはり抵抗はしないようだった。僕はおへその辺りをゆっくり撫でて、再び首筋と鎖骨の辺りに吸い付いた。

ちゅっ。

と音がして、僕はどきっとした。周りに聞かれたらまずいに決まっている。だけど彼女の方はお構いなしといった様子で、少し荒い吐息を漏らしながら僕をぎゅっと抱き寄せて離れようとしない。…可愛い。ほんっとに可愛い。僕も抱きしめかえして、衣服を首のあたりまで一気にまくり上げた。白くスレンダーな胴体と、そこに食い込む白と黒の下着が露わになった。質素だけど、ちょっとかわいい。いかにも姉らしいものだった。

僕は緊張を高めながら、その白黒の下着に指先をひっかけた。人差し指に力を込めて、白い肌と黒い布地に隙間を作る。すい、と開いたそこに、薄茶色の乳首と乳輪がちらっと見える。(ごくり)と生唾を飲み込んで、僕はそこに顔を近づける。彼女の肌から、あまったるい汗のにおいが立ち上って来て、僕をほんの一瞬ためらわせた。目を閉じて、鎖骨のすぐ下の辺りにそっと唇を這わせてみた。背中に片手を回して、人差し指と親指で留め具を外す。彼女の上半身を覆う布地が、すべて取り払われた。乳房を隠した彼女の両手をそっと取り払って、僕はそれをまじまじと見た。きれいだ。思わず声に出そうなほど、彼女の身体は美しかった。少しくすんだ桃色をした小さな突起に、指先で触れてみる。ぴくん、と跳ねた腰の辺りが、淫靡で美しかった。


スタスタスタスタ…不意に、壁の向こうから足音が聞こえてきた。

「(コンコン)失礼します…お待たせしました。から揚げセットでございます…ごゆっくりどうぞ。」

店員だ。隣の客がいつの間にか起きていて、から揚げセットなどを注文したらしい。そういえばなんとなく、油と肉のにおいがぷーんと漂ってきている。こんなときに…と思ったが、明らかにモラルに反しているのは僕たちの方だった。

スタスタスタスタスタ…足音が遠ざかっていく。どうやら店員は去ったらしい。隣の部屋で、がさがさと身動きする音が聞こえる。


ふと我に返って彼女を見ると、裸のままでじっとしていた。ただし、少し不機嫌そうな顔で。恥ずかしさをムッとした表情で押し殺しているようだ。だけど、頬にくっきりと涙の痕がある。思わずクスっと笑うと、意外なことに彼女も一緒になってフフッと笑った。気まずい空気が、また元の雰囲気に戻った。僕は尚更この美人が可愛らしくなって、彼女の上半身をじっと眺めた。そして軽く跳ねあげられた両腕の付け根に、黒々とした腋毛が生い茂っているのを見つけた。彼女の甘いにおいの元は、これだったのか。僕は迷うことなく、右側の茂みに顔をうずめて息を吸い込んだ。

「ばかっ。」

 彼女が赤い顔をして、僕の顔を押しのけようとする。その拍子に、じょりっと鼻の辺りで茂みがこすれて、甘いにおいがより一層感じられた。このまま、僕の顔中の皮膚ににおいが染みつけばいい。

「おい、くすくす、やめろって」

 小声で、くすぐったいのを必死でこらえて彼女が言う。それが余計に可愛くて、僕は反対側の腋の下にも顔を向けた。だけど、それはしっかりと阻止されてしまった。仕方がないので、僕は無防備になった彼女の小ぶりだが形の良い乳房に吸い付いた。

「あんっ!」

 僕の不意打ちに、普段の彼女からは想像もできないほどの可愛らしい、か細く高い声が漏れてしまった。僕は、その声でとうとう完全に理性を失った。もう、どうなってもいいや。上下の歯にわずかに力を込めて、彼女の突起を弄ぶ。堪えきれずに漏れる吐息と、かすかな声。僕の頭をぎゅっと抱えて、身体をくねらせる彼女。狭いブースの黒い床の上で、抱き合ったまま右へ、左へ、転がり合った。上になって、下になって。僕はそのどさくさに、右手を伸ばして彼女の短いスカートの向こう側へそっと差し込んだ。すぐに、熱く湿っぽい部分に指先が触れた。彼女は抵抗もせずにほんの少し足を開いて、僕の指先を受け入れた。人差し指と中指の先でそこをなぞると、彼女が穿いていたのは長いストッキングで、その奥は剥き出しの下着であった。てっきりパンストだとばかり思っていたので、僕は少し驚いた。この指の先にある布きれの、さらに先には…そんなミもフタもない事実が、胸の奥で渦巻いてどうしようもない。僕は足を組み替えて、腰のあたりをもぞもぞと動かした。ズボンの前がきつくなってきている。それを察知したのか御見通しだったのか、姉の冷たい手がさっと伸びてきて、そこを優しくなぞるように手のひらを這わせた。

 

 お互いの手が、お互いの熱い秘密を握り合った。すりすりと僕のズボンの前を擦る音と、しゅるしゅると僕の手が彼女の下着をなぞる音が低く響いている。指先に感じる湿り気が、段々熱を帯びてくる。僕自身も、自分でわかるほど熱くなってきていた。何度目かの、我慢の限界を覚えた僕は、彼女の下着に指をかけて、そっと足元まで引き下ろした。抵抗はされなかった。足枷のようにぶら下がった黒い下着を、彼女が掴んで恥ずかしそうに机の下に放り投げた。僕がそれを名残惜しそうに眼で追っているのに気が付いて、彼女はほんの一瞬だけいつもの姉に戻って言い放った。

「っんとに変態だな。」

「嫌?」

「……っ!」

 彼女は顔を真っ赤にして、プイと横を向いて目を閉じてしまった。だけど、白く伸びた足は閉じていなかった。僕は彼女の上に伸し掛かって、自分もズボンと下着を脱ごうとがさごそと足だけでもがいた。

 どん!

(あっ、しまった!)

 もがいたその足で、隣のブースを仕切る壁を蹴ってしまった。結構大きな音がした。

(バッカお前何してんだ)

(だって!)

 小声で言い争いながらも、僕は再び身体を重ねていった。彼女の足の間に腰を滑り込ませて、ぎゅっと抱き寄せる。お互いの呼吸が震えている。初めてじゃないけれど、こんなに緊張したのは初めてかもしれない。顔をうずめた首筋の白い肌から、甘い汗のにおいがふわりと漂う。抱き合っているから、彼女の表情はわからない。だけどさっきから僕に伝わってくる熱さが、僕を待ってくれているような気がした。太ももの付け根同士が擦れ合う感触が、この後起こる出来事をはっきりと思わせた。

「姉さ…」

「呼べよ。」

「え」

「さっきみたいに…呼べよ。」

 抱き合ったまま、彼女はそう言った。そうか、名前で呼んでほしいんだ。

「ち、千夏…さん。」

「……バカ。」

 どうしても、面と向かって呼び捨てにはできなかった。でも、いつか…。僕は彼女をぐっと抱きしめ、ゆっくりと腰を沈めていった。はあっ、と大きな吐息を漏らして、彼女も僕をきつく抱いてきた。


 トントン。

 !?

 僕は思わずビクっと身体を震わせた。さすがの姉も、身体をこわばらせてじっとしている。ブースの引き戸を誰かがノックしているのだ。

「お客様。」

 …店員だ。声を潜めるようにして、こちらに呼びかけている。僕も彼女も黙っていると、そのまま話を続けた。

「お休みのところ申し訳ございませんが、他のお客様のご迷惑になりますので、お静かにお願いいたします。」

 ……………あっ、黙っているわけにもいかないだろう。

「す、すみませ…。」

 蚊の鳴くような声で僕が応えた時、もう店員の足音はブースから遠ざかっていった。少しの間呆然として、再び気まずい空気がごおーっという空調の音と共にブースの中に充満した。

「ね、姉さん」

「んだよ。」

 言葉も態度もすっかり元通りだ。興醒め、というやつだろうか。姉さんは最後の言葉を言い終わるよりも前に僕の下からするりと抜けて、手早く下着を胸にあてて直し始めた。僕も慌てて脱ぎ捨てた下着とズボンを穿いた。そのどさくさに紛れて、人差し指を口元に近づけてみる。すると確かに、彼女のにおいがした。


「どーすっかな。」

 二人して俯いたまま会計を済ませ、冷たい外の空気にさらされながら姉が言う。

「えっ、それって。」

「バカ。これからだよ。こ・れ・か・ら!」

「うん…あの、僕…さ。」

「ん?」

 すっかり身支度を整えた姉がこちらを振り向いた。乱れた前髪がおでこからつるりと垂れて、いまも夢の続きなんだと思わせた。

「ずっと姉さんと一緒に居たい。」

「そーじゃねえよ。…勝手に居ろ、バカ。」

「ありがと。」

「は?」

「一緒に居てくれて。」

「バッカ。」


 僕と姉は再び並んで歩き出した。もうすぐ夜明けだ。少しだけ白んだ空に、カラスが二羽、あてもなく飛んでいく。

「姉さん。手。」

「ああ?」

 ぎゅっ。と音がしそうなほど、僕は姉の手を強く握った。さっきは絶対につないでくれなかった手を、渋々差し出した姉の、照れた横顔。

「いってえな!バカ。」

「ごめん、姉さん。」

「…バカ。」

「…千夏、さん。」

「さんを付けんな、バカ助野郎。」

 …またしても僕は、面と向かって呼び捨てにはできずに俯いてしまった。どうしても…こう、どうしても…。その時、ぎゅっと握られた手を強く引っ張られて、僕は強引に顔をあげられた。そして、そこには姉さんの顔がすい、と迫って来ていた。

(ちゅっ)

「!?」

「ふん。」

 一瞬の出来事だった。姉さんは狙い澄ましたように僕に口づけると、すぐに顔を離して歩き始めた。もう、遠慮しなくていい…いや、遠慮しちゃいけないんだ。

「ち、千…夏…」

「……」

振り向いて立ち止まった姉が、手を後ろに組んで僕をじっと睨む。

「千夏…!」

「………」

 黙っているけれど、目には(あんだよ、早く言えよ)と書いてある。だけど僕は、こんな時に彼女にかける言葉を、用意していない。何もかも勢いに任せて、明後日の方向へ飛ばしてしまった紙ヒコーキの様な心持でここまで来てしまった。夜は白々明けてきている。もうすぐ、街は動き出す。もう今しかない。夜が明けたら、また僕たちは離れ離れになる。


「愛してる。」

「………!」

 自分でも、思いもよらない言葉が飛び出した。僕の言葉が冷たい朝の風に乗って、無人のロータリーでくるくると回っている。

「愛してる!千夏…愛してる!」

「………こえてんだよ」

「えっ」

 キッとこちらをにらんだ姉の眼元が見る見るうちにゆるんで、大粒の涙をぽろぽろ流しながら彼女はもう一度毒づいた。精一杯、抑えた声で。

「聞こえてんだよ、バカっ。」

 僕はたまらずに駆け寄って、彼女を強く抱きしめた。彼女も、僕を強く抱きしめた。

「千夏…。」

「あんだよぉ。」

 僕の肩に顔をうずめて泣き続ける彼女からは、涙のツンとしたにおいがした。ひっく、ひっくとしゃくりあげる声だけが、目覚める前のシャッターに跳ね返って、ビルの隙間の朝日に溶けてゆく。


 金色の細長い光が、狭い空の上から、建物と建物の間を縫うように降り注ぐ。朝が来た。僕と彼女の、真冬の夜の夢が終わる。今日からは、またただの姉と弟。離れて暮らす男と女。

「うし。」

 彼女が、何かを振り払うように声を出した。もう、いつもの声だ。

「おい。」

「な…なあに?」

 ついに別れの時が来てしまった。こんな時は、やはり彼女の決断は早かった。潔く、僕も帰ろう、わが街へ。

「お前、迎えに来い。」

「は?」

「行こう、どっか。」

「は??」

「行くんだよ。」

「で、でも」

「ああ?逃げんのかよ。」

「だ、だって」

「……責任、取れよ。」

「あ、」

「ずっと一緒なんだろ?」

 彼女はそういうと、ニヤっと笑った。この顔は、本気だ。

 夢は、まだ終わらない。いやきっと、夢じゃなくなったんだ。色もにおいもある、身も蓋もない現実になったんだ。

「わかったよ。で、いつ?」

「2日くれ。仕事辞めて、荷造りすっから。」

「…うん。わかった。じゃ明後日ね。」

「ぜってー来いよ。」

「うん。ぜってー来る。」

「明後日だぞ。」

「うん。明後日。」


 彼女の顔から、険が消えていた。すっきりとした面持ちで僕と約束を交わすと、そのまま駅構内へ歩き始めた。彼女の今の住まいは、ここから私鉄で二駅だ。

「ねえ。」

「あんだよ。」

「僕も呼んでよ」

「は?」

「名前。」

「は??」

「な・ま・え!」

「ヤだよバカらし。」

 ちぇっ。


 慣れた手つきで切符を買って、電光掲示板をチラッと見る。彼女の周りに、彼女の日常が舞い戻って纏わりついていた。僕の魂は。しばし置いてけぼりだ。明後日まで、この駅に。

「じゃあ、また連絡するよ。」

「おう。」

「場所はここでいいの?」

「ああ。」

「明後日、どこ行くの?」

「さあーな。」

「ねえ」

「あ?」

「これって…かけおち?」

「じゃなんだよ。」

「いや…まあ…」

「じゃあな。ちゃんと来いよ。」

「うん。じゃあまたね。」

 彼女が振り向いて歩き出して、ホームに降りる階段を下りて見えなくなるまで、僕はそこに立って見送った。さて、僕も帰らなきゃ…と思った時に、すべての現実が頭と体を駆け巡ってゾクゾクした。

 実家住まいの荷物をまとめて、お金をおろして、仕事…は、特にしてないからいいや。

(………おや。)

 考えてみると、自分でも驚くほど出発は容易だった。飛び出してしまうことぐらい、誰にでも、いつでも出来ることなんだ。踏み出した後の事さえ考えなければ。

 

僕は浮腫んでだるい身体が少し軽くなったような気がして、上機嫌で指定席の切符を買って改札を通り抜けた。明後日、僕は彼女と旅に出る。何処にでも、ずっと一緒に行くんだ。僕は片道切符を握りしめて、もう一度心の中で(愛してる)とつぶやいた。

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明後日 ダイナマイト・キッド @kid

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