ロボットの時代(The Rest of the Robots)にみる三原則

一瞬だけ「子ロボットのワルツ」として公開したが、さして楽曲縛りの効果もないので即物的なタイトルに修正した。


 誰も待っていないだろうがお待たせしましたと一応言っておこう。

 いよいよ、「ロボットの時代」の話をします。


 とは言いながらこの作品集は「三原則」について何かを知ろうと思うのであれば、あまりバランスが良いとは言えない。とにかく三原則ものを使って物語を作ろうと思うのであれば、何しろ「校正」は必読。これはSFミステリとしてすっげえいい。では他のはどうか、と言うと、俺は好きだけれど三原則ものとは言いにくい、という構成になっている。

 そういう訳で、ロボット物を書きたいあなたにとって、三原則の資料を集めるという意味では、ま、「校正」だけ読んでおけばよろしいのではなかろうか。


 もちろん普通に面白いSFを読みたい君は買うなりなんなりして読むべきだと思う。言うまでもないことではあった。


 そういう訳で、特に前半の作品群は、ロボットはテーマであるけれども、三原則が厳密なテーマになっているものではないので、さらっと眺めていくことにしよう。

 ※これは作品としての価値が低いということではなく、たとえば「AL76号失踪す」とかは俺は好きだけれども、三原則を語る上では、あまり重要ではないという意味である。


 序:この序はいい。アシモフは各作品に自作の解題を載せることが多く、俺は凄くそれが好きなのであるが、それを差し引いてもロボット物を書くときには心に留めておきたい話である。まあ、要するにフランケンシュタイン・コンプレックスについての説明であるが、人工物は「安全に」作られるべきである、というのは良く分かるところであると思う。安全性に疑いのあるロボットは、「どこかおかしい」ということでもあるし、「安全性」を突き詰めて行った結果、なんらかの危険が生じるとなれば最高に面白いよね、ということでもあろうか。


 AL76号失踪す:人間がロボットに怯え、がためにロボットの創作した素晴らしいものを台無しにしてしまう話であり、寓意がある。


 思わざる勝利:『決定的!』(『ガニメデのクリスマス』<アシモフ初期作品集2>所収とのこと。未読)の続編、ということになっているが、単独で問題なく面白い。俺がロボットとは関係ないけど、宇宙人が何の疑いもなく光学情報を走査し、音声言語でコミュニケートすると思えなくなったのはこの作品が原因で(木星は大気が濃く、ほとんどガスなので、木星人は質量を走査することで物を認識する)ある。ほとんど最強の弱虫sissy達が『思わざる勝利』をする話である。

 

 第一条:ショートショート。前書きの方が長いくらいで笑うが、『イリアス』(叙事詩ですよね)にも侍女ロボットが記載されていることで、だからその辺りに当たるべきなのかもしれない。

 ドノヴァンが間抜け可愛い。MAエマはお母さんかわいい。母性は第一条に優越する、ということになっているが、これはどうかなあ。もう少し伏線があれば納得いくかなと思わなくはないので、改稿を望みたいですね(誰がするのか?)


 みんな集まれ:十一人いる! (しまった、ネタバレか?)



 で、問題はここからだ。

「お気に召すことうけあい」「危険」「レニイ」の三作品は、スーザン・キャルヴィンが出てくる、いわばU.S.ロボット社のテンプレが出来てからの話であるので、極めて完成度が高い。けれども、これも「三原則」という観点からみると、まあ、さして目新しいものはない。にもかかわらず、「人間とロボット」の関係性という観点からみると、まあとにかく凄まじく良い。ので、ひとつひとつきっちり眺めていきたいと思う。お付き合い願おう。


 お気に召すことうけあい:大変シンプルに言えば、イケメンロボットであるトニイに、クレア・ベルモント(ベルモント夫人)が寝取られる――は、ちょっと強すぎる言葉でしたね。精神的にと申し上げますか。とにかくそういう話である(違う)。

 アシモフの前書きがなかなか笑えるので引用しておくと、

"この作品で興味あるのは、読者からおびただしい数の手紙がよせられたことで、それもほとんどが若い女性からのものであり、またほとんどがトニイにあこがれをよせる内容のものであった――まるでどこへ行けばトニイが見つかるかわたしが知っているとでもいうように。

 わたしはこの事実から道徳的(ないしは不道徳的)な教訓をひきだそうとは思わない。”

 ということで、イケメンは正義。しかもロボットなので性格的にも問題はなく、いやむしろそこらの人間よりはるかに良く、人間なんかに勝ち目がある訳はないのである。ただトニイは、ハービイが失敗したのと同じように、短期的には人間の精神に迫る危害を回避することに成功しているが、おそらく長期的にはより大きな危害をもたらし――かねない行動をしている。

 これは明らかにその人間の未来に人間が関与しているからである。

 ロボットだけが人間に関与していれば、この長期的危害は生じない。


 これらの虚構から我々が描く未来は二つある。

1.人類はもはや、生殖以外の社会的行動を異性――あるいは同性――に要求することはない。それらは全てロボットが解消してくれるからである。その方がローコストであり、世界は平和である。生殖活動だけは遺伝子のマッチングを行い、適当なところで行う(太刀川るい氏の「おやすみ、おちんぽ」 https://kakuyomu.jp/works/1177354054880643052 あたりを参照されたい)。なんだったら、生殖などせずに、静かに衰退していったって良いだろう。

 これは我々にとっては相当なディストピアであるが、その中で生きている人たちにとっては幸福なのではないかという感じもする(同、「全自動称賛機」 https://kakuyomu.jp/works/1177354054880545959 が当たり前になれば、我々は承認欲求などに振り回されずに生きていくことができる)。

 マズローがもし正しいとすればだが、人間には自己実現欲求だけが残り、世界には美しい創作だけが生まれるのではないだろうか。


2.その未来はあまりにも殺伐としすぎていると感じる(この言葉をつけて許されるのならば、「古い」)人間たち――俺は結構驚いたのだが、人間の中には、本を裁断して電子化するという行為に対する強い嫌悪を示すものもいる。これは著作権がどうこうということではなく、『本』を『断つ』という行為がとにかく生理的に受け付けないということらしい(別に焚書を経験したからとかではなく、単に、そう、我々が犬とか猫とかを食う時に感じるなんとはなしの背徳感のようなものに近い、ようだ)。コスパが良い、利便性が高いということと、美意識に適合するということは、別の話なのである、言うまでもなく――によって、ロボットが精神面に介入することは阻まれる。ロボットに、あるいは「非実在の」存在に精神を癒やされようとする行為、とりわけ性的なかかわりを持とうとする行為は危険視される。どこかで聞いたような話である気もする。


 そもそもまともなロボットが形成可能か、という問題はさておき、人間は不完全なものであり、その不完全性を愛することには強い困難が伴う(不可能であるとは言わないし、不完全性を愛することができたときは、いいなあ、と思う)。でもロボットはその点、「完全」、別の言い方をすれば「都合がいい」のであって、さて、我々は1と2の未来をどの程度の配分で選択するのであろうか、なんてなことも考えてしまう話でもある。


 そんなことねえよ、普通に夢物語として面白がれば良いのでは、というのも、もっともな意見であるとも思う。


 危険:超空間ハイパー・スペースを介したワープは、死よりもひどい何かを生命にもたらす。「逃避」のドノヴァンとパウエルは、そういう意味ではラッキーであった(それよりもひどいものを味合わずに済んだ、という点で)。

 そんな訳で、超空間で何が起こるかという調査を生命のある人間にさせる訳にはいかず、よってその任には生命を持たないロボットが選ばれた。そう、これを適材適所と言う。


 残念ながら適所ではあったが、ロボットは適材ではなかった。


 ロボットは第二条により人間の命令に従う。従うけれども、その「従い方」は、命令の仕方に依存する。


 人間は違う。人間は、命令を解釈して従う(あるいは従わない)ことができる。

 これが人間の、あるいはブラック博士の強みである。


 レニイ:『忌々しいフランケンシュタイン・コンプレックス』を打ち破るためには、むしろ危険を強調し、そのスリルに惹きつけるべき、というキャルヴィンの慧眼が発揮されるが、話はそういうことではなくて、製造過程のバグによって、成人相当の知能を取り除かれた――つまり残るのは幼児的な知能――のLNEレニイがかわいいということである。そうではない。申し訳ない。さっきからこればっかだな。俺が好きな部分を抽出すると本論から逸れるということなのだが、分かっていただけるだろうか。

 レニイは驚くべきことに、一条を違反せぬまま人間の骨を(物理的に)折ったりする。自分の力・人間の脆さについて「無知」であれば、第三条に従う、すなわち自己を守るために相手を「払いのけたり」することもでき、人間に危害を加えてしまうということもある、ということだ。そこに意図がなければ危害を加えることが可能、というのは、「迷子のロボット」でも示された見解である。


 君はレニイを恐れるか? 


 恐れることはない。レニイは最初、言葉を話すこともできなかったが、スーザン・キャルヴィンの『教育』の成果で、言葉を覚えた。人間は概ね1歳ころに初語を発するが、数か月で、を学習した。きっともっと賢くなるし、そういう多目的ロボットを開発すること、その危険性、スリルを強調することが、むしろ人を惹きつけるとキャルヴィンは言う。


 たぶんそれ正しいだろう。

 ただ、この話のオチは――俺はこれを美しい、とも、悲しい、とも、滑稽だとも言えるし、どれとも言えないのである。君がどう思うかを知りたいと思う。



 さあそして「校正」だ!! これがもう、すっごく最高にいい。アシモフ自身も好きと言っている。こういう作品を誰か書いてくれたらもうしっぽ振って読むんですけどねえ、というのがこのエッセイを書き始めた動機でもある。


 校正:完全、完璧、最高、究極、すげえ好きな三原則×法廷ミステリ。

 イージィはかしこかわいい。

 とにかく損しないからこれだけでも読んでほしいのだけれど、読まれてしまうと俺のたわごとに価値はなくなるので、簡単に解説しておきたい。

 話の構造としては、「古畑任三郎」に近い。(近いか?)


 U.S.ロボット社は、「校正」用のロボット(EZ27号、イージィ)をノースイースタン大学にリースする。文章を書く君なら分かる通り、校正というのは極めて面倒臭い上に、ゼロをプラスにするのではなく、マイナスをゼロに近づけるという、なんというか不毛な感じがする行為だが、これをやらないことにはマイナスが残るのでまあ、やるしかないよねという苦行に近い所業である。注意力散漫、持続的作業の苦手な人間(俺のことだ)にとってはまさに地獄と言える。

 ましていわゆる「論文」を書くとなるとこの作業は苛烈を極める。「、。」「,。」「,.」のどれを選択すべきか、文献の引用時、初出は全員のファミリィ・ネームを書くか、3人までは全員を書くけど4人以上のときはet al.で済ませるのか、筆頭著者のアルファベット順に引用文献を整理するのか、文中に出現した順番で引用文献を整理するのか、論文タイトルは大文字か、単語頭のみ大文字か、ミドルネームはどう扱うべきか、エトセトラ、エトセトラ。これらの多種多様でしかし本質とはあまり関わらない規定は、なんと雑誌によって異なるのである。科学雑誌というのは科学の徒、合理的な人間が投稿する物であるのに、こういう合理性が感じられない仕組みになっているのは全く解せないが、そういうものなのである。

 たとえば、Scienceの投稿規定では"Do not use "and." "となっているが、日本化学会の投稿規定では、"雑誌の引用法は,著者名(T. Tanaka, B. T. McCain, and T. Suzuki)の"ように示すとなっている。仲良くしろよぉ。しかもこれはまだいい方で、andが許容されるのかされないのかを明記していない投稿規定もあったりして、つまり相当細かいところで面倒なのである(当然だが、俺自身はScienceに投稿したことはない(日本化学会もない))。


 という訳で、超高性能EndNoteあるいはMendeley(どっちも文献管理のソフトウェアである)といった風情のイージィは、大学に売り込まれる訳だ。こいつはレポートを作成したり、答案の採点もしてくれるということで、いやまったく夢のような機械である。しかも、U.S.ロボット社は、「地球上ではロボットを使用していはいけない」という法律の緩和のとっかかりにしたいと考え、このロボットを年間1000ドルでリースするという。教授たちはもろ手を挙げて――裁判上は、そうは言わないけれど――イージィの導入に賛成する。

 

 社会学部学部長、サイモン・ニンハイマー教授を除いて。


 ニンハイマー教授は、しかし、その学問的集大成である『宇宙飛行スペース・フライトにともなう社会的不安とその解決』の校正をイージィに任せる。たとえ自分が反対していたものであろうと、一度導入されたものであれば、使っても良いだろうと考えたと教授は述懐する。任せた結果、イージィはこの著作に。それはニンハイマー教授の学術的生命を絶たせるほどの大改変であった。


 イージィはなぜそんなことをしたのか? イージィの言い分はこうだ。


"「教授、あなたの原稿のこれらの部分は、あるグループの人間にとってははなはだしく礼を失しています。彼らに危害を及ぼすことを避けるためには書き変えたほうが望ましいと考えました」

「なぜそんなことをしたのだ?」

「ロボット工学三原則の第一条は、人間に危害を及ぼすこと、また、その危険を看過することによって人間に危害を及ぼすことをわたしに禁じています。社会学界におけるあなたの名声を考え、またあなたの本が学者のあいだに広く読まれることを考えますと、あなたが言及された多数の人間に対してかなりの危害が及ぶものと考えられます」

いま及ぼうとしている危害にきみは気づかないのかね?」

「危害のより少ないほうを選ぶ必要がありました」”


 この理屈はみなさんにどう映るだろうか?


 実はここにはあるトリックがあって、キャルヴィンはひとつの罠をしかけて、そのトリックを破る。ここがもう最高に良くて、人類……! 人類……!! ロボット……!!!! となるのであるが、まあここは各人に読んでいただこう(すでに読んだという人とは、なりますよね、という共感の握手を交わそう)。


 ただ一つだけ言っておきたいことは、ニンハイマー教授は愚かな人間の象徴ということなのである。「マルチバックの生涯とその時代」でも問われた問いを投げかける人間であり、彼の叫びは我々に共感を呼ぶものでもある。

 (俺が完全に共感する、ということではない。残念ながら。でも、「カク」人が多いここでは、胸が打たれるひとも多いのではないだろうか?)


"「書物というものは著者の手で造型されるべきものだ。一章、一章が育っていき、成長していく過程を自分の目で見守るべきだ。くりかえし手を入れながら、最初の概念を超えたものに変化していくさまを見守るべきだ。校正刷を手にとり、活字となった文章がどのように見えるかを眺めながら練りなおしていくべきだ。人間とその仕事とのあいだには、そのゲームのあらゆる段階でおびただしい接触が行われる――その接触自体が愉しみであり、想像したものに対するなによりの報いなのだ。」"


 という訳で主要な三原則短編については捉え終わったことになろう。「鋼鉄都市」と「はだかの太陽」、あと未読だったがこれは読むべきだったと思う「夜明けのロボット」「ロボットと帝国」については、また日を改めてお伝えしたいところであるが、その前に、次回は一度ここまでのまとめとでもいうべきものを示し、以て創作の糧になることを祈ろうと思う。風船に花のタネを結びつけ、どこかで実れと祈るような行為であり、色々な批判もあろうが寛恕いただきたい。

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