聖者の行進(The Bicentennial Man and Other Stories)に見る三原則

(旧題:アンドリュウの葬送行進曲) 


 この旧題は結構気に入っているが、前項で示した理由の通り、タイトルは適切と思われるものに修正した。アンドリュウはマリオネットでも操り人形でもないので、旧題は不適切ではないかと指摘したい君はとても心が優しいと思う。俺と固い握手をしよう。

 しかしまあ、葬送行進曲はグノ―の専売特許という訳でもないし、許していただきたいと思う。連想してしまったことは否定しない。

 

 意味が分からない君は「聖者の行進」を読み返してから続きを読むことにしてほしい。


 いや、だったら公開するなよとかそういうことを言いたい気持ちは大変良く分かるし、原典を読んだらもうお前のたわごとなんて聞いてもしょうがないだろうが、という指摘はごもっともである。

 だから最終的にはもうちょっとまとめた、本当に「創作に役立つ」に漸近した形での話を公開しようと思うが、そのためにはやはり整理が必要で、その整理のプロセスはお前の机の上、つまり誰にも公開しない昏くて深い海の中でやれよ、と思う気持ちは良く分かるのであるが、そうすると一生まとまらない。

 人生にはどうしたってバイアスが必要だからである。


 ということで、前回に引き続き、三原則についてアシモフ自身がどう扱ってきたかについて、公開整理を続けていくことにする。実際、非常に魅力的なテーマなのだ、ということは、分かって……いただけたかなあ、どうだろう。やっぱりこんな文を読んでないで、原典に当たるべきでは、そのことを警告してこの文を終えるべきではという良心の声は常に俺を苛み続けるが、しかし人間は正しいことだけを為して生きられない悲しい存在なのである。


 さてそういう訳で、I, Robot (われはロボット)が書かれたのが1950年、The Bicentennial Man and Other Stories(聖者の行進)が書かれたのは1976年(ちなみに聖者の行進は、原題をMarching In といい、ロボット三原則も関係ない話である。なぜこれを表題作に選んだのかは、まあ、二百周年の男、では分かりにくいと思ったからでありましょうか)ということで、26年の時を経たロボット三原則の進歩やいかに、というところである。


 ところが、前の話に書いたように、既にこの作品で書かれるべきことは、もう「われはロボット」の段階でほとんど書かれており、これはアシモフが保守・懐古主義者であるということではなくて、先見性が高すぎるということに由来する、と俺は思う。


 聖者の行進に所収されている作品のうち、三原則(ロボット)をテーマに扱っているものは以下の通り。


 「女の直観」「心にかけられたる者」「バイセンテニアル・マン」「三百年祭事件」


微妙なラインは「天国の異邦人」「マルチバックの生涯とその時代」


 ロボットまったくナシは、

「男盛り」「ウォータークラップ」「篩い分け」「聖者の行進」「前世紀の遺物」「発想の誕生」


 ということで、まあ三原則、あるいはロボット一本槍の作品集ではない。

 ちょっと天国の異邦人だけ特殊な話なので、とにかくほかの奴らを片付けよう。


女の直観:なんにでも萌えるでおなじみの日本人には意外なことかもしれないが、U.S.ロボット社が作ってきたロボットは中性で、習慣的には「男」として扱われてきている。そこで――という訳ではないし、もちろんセクサロイドとしてでもなく――ジェーンが現れるのは、我々がそうであると想像するよりもはるかに遅い、ということになる。

 ロボットの特定の仕事に就けるのではなく、オープン・エンドの、自由な発想(これを「女の直観」と呼んでいる訳だ)ができるようにしたらどうなる、という話であるが、実は本筋はまったく別の話である。ネタバレになるので「The Invisible Man」を引き合いに出すのはやめておこう(おい)(作者名を言ってないからセーフ)(そうか?)。


心にかけられたる者:これにはミステリック(君がミステリアスではないか、と言いたいのは良く分かるのであるが、「ミステリックサイン」という作品がこの世に存在する以上、俺は-ousよりも-icを選択することにしているのだ)な要素はまったくない。

 ないにも関わらず、俺がこれだけこの作品(あとバイセンテニアル・マン)を好んでいるのは、やっぱりここで交わされている議論が、ロボットのことを語っているのに人間のことを語っているから、なのかなあ。ロボット単体も好きなんですけどね。


 そもそもロボット三原則は(ロボットを無邪気に、あるいは素朴に愛する我々としては到底信じがたい考え方ではあるが)、フランケンシュタイン・コンプレックス、つまり、被造物が造物主をぶち殺して回るのではないか(我々が神を殺したように)という恐怖を抑制するために作成されたものである。

 この話は、残念ながら三原則だけでは抑制は成功しなかった、という未来において、U.S.ロボット社は、どのようにロボットを作っていくか、ということを、物語である。

 

 ロボット――ふたりのジョージ――は、1976年に書かれたとは思えない解決策を提示する。


 超特殊用途のロボットを作成し(たとえば、特定の害虫だけを食べるロボバード、とかだ)、それ自体、その存在だけで三原則を遂行できるようにすれば良い、というのである。


 まあ、ルンバだと思ってもらえればいい。


 ルンバは、少なくとも弱い一条を持っている。というのは、たとえば老人がルンバに躓いて転んだり、赤ん坊がルンバに食われたり、という事態は生じる可能性があるので、「ロボットは人間に危害を加えてはならない」とまでは言い難いし、当然「危険を看過することで危害を加えてはならない」の方までは責任は取れないが、それなりに運動能力を持つ人間に危害を加えることがないように設計されている。そりゃあそうだ。そうでないと市場に出すことはできない。


 また、受け取る命令は非常に単純なものだが、その命令には従うし(そして、たとえばそうだなあ、外に飛び出して行って、交通のマヒを起こすような「命令」には従わないことになっている)、ま、自分から壊れにいくこともない。


 そういう特殊用途のロボットは、陽電子回路を持たずして、三原則を守っており、人間はそれを恐れることはないだろう、とジョージは結論づける。


 このジョージの予想が正しかったのは我々の良く知るところである。


 ちょっと余談だが、まあ、とにかく今の自動車の機能は凄い。後方視、自動ブレーキ、なんでもこいで、こうなると早晩マジの「自動」車(automatic-automobile? もっと気の利いた名前もあるんだろうけど)が主流になっていくだろう。

 その時代には、おそらく今の「オートマチック」を「マニュアル」と呼ぶことになるのではないか。俺のマニュアル-トランスミッションの免許証を、その時代の若いモンに見せびらかすのが今の俺の生存理由の一つである。

 で、完全オートマチック化が成し遂げられた暁には、もう信号なんていらなくなる。というのは、人間はロボットよりは愚かであるので、信号機があろうがなかろうが、赤信号で飛び出したりもするはずだ。そういう(愚かな)人間を轢き殺したりしようものなら、自動自動車は早晩規制されるはずである。となれば前提としてこの事態は想定しておかなくてはいけない。

 この事態をどう解決するか?


 方針は三つある。一つ目はどうせ自動車で一定の人間が死ぬのであるから、それは不運な事故としてカウントしようということ(これについては、イスカリオテの湯葉氏が、「東京都交通安全責任課」という名作を書いているので、要チェケラである。

https://kakuyomu.jp/works/4852201425154872717/episodes/4852201425154926902

)であるが、しかしやはり愚か者とはいえ、死、あるいは怪我は避けたいものである。特に愚かであることを自覚している俺なんかは、なおさらだ。

 

 二つ目の解決策は、各自が外出時には特定のデバイス(アップルウォッチみたいなものだ)を持って――まあ、もう少しSFチックに行くなら、生まれた瞬間から生体内にチップを埋め込まれていて、でも良い――このデバイスの接近を認識した段階で車が停止するように作られている。

 これは安全だが、当然交通網に与える影響は大きい。


 三つ目の解決策は、人間の安全を最大化し、同時に交通網に与える影響を最小化することを考えるものである。つまり、所与のデバイス、ないし生体チップは、車の接近を検出したとき、あるいは危険域(横断歩道のない車道)に接近したように設計されており、危険なところにはそもそも近寄ることができないようにコントロールされる、という仕組みだ。


 この社会においては、交通事故は当然発生しない。あるいは発生率は極めて下がる。ではこれでめでたしめでたしとなるか、というと、この技術を応用すれば、上位の権限を持つ人間は、下位の人間の動きを命令によって拘束することができるということにも繋がり、当初は警察官が犯罪者を拘束することだけが認められていたのが、次第に親が子を、教師が生徒を、上司が部下を拘束できるようになり――

 

 話が逸れ過ぎた。


 とにかくこういう事態が成立した場合は、人間の安全は保障され、信号機は不要になりえるだろう。


 この場合、第一条は完全に守られている。人間に危害は加えられないし、人間の危険を看過することもない。そして、その条項を守っている場合に限って、自動自動車は人間の命令に完全に服従し、ということは車同士がぶつかる可能性だって低減されている訳だから、自己も守っている。イッツ・オーライ。ドント・ウォーリー・ビー・ハッピー。

 

 ここで興味深いのは、一条は守られる、という側面もあることで、我々はこの場合、ロボット(自動自動車)に危害を加えられないために、我々の行動を制限する道を選ぶ、こともありえなくはないだろう。


 というか、こんな大仰なたとえ話をしなくったって、そう、例えば、ATMが平日の夕方までは手数料が無料である、とか、月に何回まで振り込み手数料が無料である、といった制限を我々は諾として受け入れ、それに最適化した行動をとる。

 ルンバに部屋を掃除させるために、床は事前に片付けておく、でもいい。


 ようするに、「安全で」便利なロボットがあるならば、より小さい不便は受け入れるようになる。そのことは君も、俺も、良く知っているだろう。


 そう。

 「安全」で、人間に逆らわないようなか弱いロボットを受け入れるということは、そのロボットによる制限を受け入れるということである。ちょっと覚えておいてもらいたいキーフレーズである。


 そしてこの物語の本質は、実はここではなくって、ロボットが第二条で従うべき、「人間」とは何か、ということなのである。


  初回の話を覚えて頂いているだろうか。

 俺よりも美しく、感受性豊かで、賢く、金も人望もある君は、列車に轢殺されたのだった。

 だからそう、これはそんな君のための葬送行進曲でもあるのだ。


 ともあれ、俺は生き延び、君は死んだ。本来はまったく逆の結果になるべきであったのに、だ。

 こんな理不尽が許されるだろうか?


 ジョージたちは許されないと考えた。この結論も尤もだ。

 

 そして、「命令を発する」あるいは「危害を受けそうになる」人間が複数いるとき、優先されるべきは、高潔で賢い人間である、という新しい制限を考案した。

 なるほど、良かった。これで君は助かり、俺が死ぬ。それで世界は平和になる。


 そうだろうか?


 人間の価値とは、どのように判断されるべきか?

 そもそも人間に価値などあるのか? 

 あるとしたら、絶対的に高い価値を持つ人間は、存在するのか?


 ジョージたちはする、と考えた。

 かは――秘しておくことにしよう。



バイセンテニアル・マン: 完璧、最高、夢のような話。リトル・ミスがクソ可愛い。もちろん晩年の彼女が、だ。文句あるか?

 バイは倍のバイで、というのは嘘だが、バイナリとかのバイ、つまり2だ。センテニアルは、centuryを由来とさる単語で、ようするに200周年のことを指す。つまりこの話は、200年生きたロボット、いや――人間(man)の話である。


 アンドリュウは不思議なことに芸術的才能を持っており、その力で自ら金銭を稼ぎ出し、自由と呼ばれるものを買った。

 そして法を変え、自らを変え、世界に貢献し、「人間」になろうとした。


 その過程で、アンドリュウは自己の目的を果たすために(朝比奈みくる達未来人勢力がそうしているように)、人間の手で人間に危害を加えさせたり、しており、これはギミックとしては面白いところだと思うが、肝心なのは、彼が最後にした選択なのである。


 そこまでして彼がなりたかった人間、とはなんなんだろうか。

逢坂ソフナ氏の「ワンセンテニアル・ユキ」で、(俺にとっては)分かりやすく示されていると思うので、こちらも紹介しておく。

https://kakuyomu.jp/works/1177354054880501770


 この作品のレビューでほぼこれから言いたいことは言ったので、ここでは、アンドリュウの言葉を引用するに留めておこう。


"「リトル・ミス」

 声にならぬ声で彼は言った。"


 はあー。良すぎる……。


三百年祭事件:アシモフが自身でコメントを残しているように、「証拠」に極めて似た話である。ただこちらにはちょっとした叙述トリック(というほどではないか)があり、我々は何に、どう従うべきなのか、を別の側面から考えさせるものである。


マルチバックの生涯とその時代:第零条に基づいて人類を平穏裏に支配したマシン、マルチバックから、人類の自主性を取り返すまでの物語、で、まあ、良くあると言えば良くある話なのだが、この結末は全然古びない。


天国の異邦人:反自閉(アンティ・オート)、つまり現在の呼び名で言えば自閉スペクトラム症を治療しようとする人間の自閉スペクトラム症に関する理解が、水星探索のためのロボット開発に役立ちます、という話で、まあ、これは今読むと「トンデモ」にはなってしまう。

 とはいえ自閉スペクトラム症の身体感覚異常と、「環境の方を変えてやるべき」というところにはまあ、見るべきところもあるかな、という感じではある。



 そのほかの作品には、ほとんどロボットは出てこない。


 という訳で、ロボット三原則を突き詰めていくと、「人間とは何か」「人間とロボットはどう違うのか」「人間はなぜロボット(あるいはマシン)に優越するのか」という、ちょっとした哲学みたいなところに到達する(マジの哲学をやっている人にはごめんなさい、と言うしかないが)。

 これはこれで面白いし、現にそういう作品も好きであることは上で語った通りであるが、次回は「ロボットの時代」について触れていきたいと思う。


 俺の個人的見解では、三原則ものの主要短編集が「われはロボット」「ロボットの時代」「聖者の行進」だとすれば、総力としては「ロボットの時代」(個々の作品としてはまた別なんだけど)が一番高いと思うので、ちょっと整理を頑張りたいと思う。


※ところで、ほげ山さん氏が、「三原則は異世界・チート・ハーレムを充たすための便利なギミックだ」みたいな考察をされているので、

(氏の近況ノート(https://kakuyomu.jp/users/incense/news/1177354054880713599)を参照のこと)

 そういう路線での創作もいいんじゃあないですか! 読みたいですよ!!


※※残念ながらほげ山さん氏はカクヨムより撤退された。残念なことであるが、論旨は優れているので残しておきたい。

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