『蒲焼』
矢口晃
第1話
猫は、――という書き出しをしましたが、これからお話しするのは、実際は猫のお話ではありません。ただ、便宜上ここに「猫は」、と書いておくのです。何の便宜か。それは書いている本人にさえわかりません。よく怖い話、怪談でも言うではありませんか。「これは本当にあった話なんだけど……」。あれです。あれは便宜上ただ冒頭にそう言っているだけで、実際は本当にあったかどうかなんて話している本人さえわからないのです。ただそう言っておくことで、聞き手により積極的に話に耳を傾けてもらいたい、そういう話し手の意思から発せられている言葉にすぎないのです。「本当にあった話なんだけど」――なるほど、いい言葉です。それはそうですよね。誰だってどこか全然知らない自分とは全く無関係なことなんて、聞きたいとは思わないじゃないですか。それが、「本当にあった話なんだけど」、たったこの一言で、急に自分に身近な話になったような気になる。テレビニュースや新聞記事も、あれは画像や写真があるから大衆の興味をそそるのですね。あれでもし画像もなしにニュースを放送してご覧なさい。試してみるまでもないでしょう。画面の中央で、眼鏡をかけた背広姿の知らないおじさんが、まるで自分の活舌度合いや速読能力を実験でもしているかのように、時々カメラに視線を合わせながら、淡々と手元の原稿を読み上げる。何が面白いでしょう。何も面白くはありません。どんな重大な事件やニュースだってですよ、それじゃあ全く、台所の盥の中でぬるぬる動いているうなぎを見ている方がよっぽど面白そうじゃありませんか。うなぎというのはあれでなかなか知恵のあるやつでしてね、自分が桶の中にいることが分かっているんですね。このままじゃ次に人間に食されるのは自分だと思うから、必死に頭を盥の外に出そうとする。まるでヘビみたいにね。どうも食されるだけならまだ堪忍も行くが、脳天をビスのようなもので木のまな板の上に串刺しにされて、背中を鋭い刃でざっくり切られるのだけは堪忍がいかない。武士のはしくれながら拙者にも誇りがござる。むざむざ断たれる命ならば、自ら己の腹を搔っ捌いて見事な死にざま見せてくれるわ。何ていうことはどうやら考えてもいなさそうですが、とにかくうなぎも利口なのは利口だが、何とか桶を這い出したはいいが、結局桶の外はキッチンの流しの中、状況は余り変わらないということまでは知らないようですね。とにかく頭を盥の縁へかけたがるんですから、見ていても飽きませんね。そして今あなたがたが気が付くべきことは、うなぎの生命への執着心の強さなんてことではないのですよ。今私のお話ししていたうなぎについて、とても関心を寄せていたでしょう。うなぎなんて、他愛もないものにですよ。つまり遠くのニュースよりも、近くのうなぎの方が面白い。人間はそういうものに興味を惹かれる。そういった一連の心理作用を熟知した上での、「これは本当にあった話なんだけど」、だというわけです。
それにしても暑い。蝉がじりじり鳴いていますよ。夏の間だけですからね、蝉が鳴けるのは。鳴かしておくのがいいんですよ。隣の赤ん坊は、早く泣きやんだ方がいいな。何も人間は蝉と違って、泣けるのは赤ん坊のうち、というわけではありませんから。何も赤ん坊のうちからそんなに一生懸命泣かなくたって、大人になってからゆっくり泣いたっていいわけです。赤ん坊の泣き声と蝉の鳴き声とでは、どうも聞こえ方が違うのですね。蝉の声は晴天へ抜けるようだが、赤ん坊の泣き声はどうも耳にへばりついてくるようだ。あれでは暑さも倍増というわけですね。暑い上に赤ん坊が泣いている上に暑い。団扇を両手で使うと、涼しさも倍増ですかな。違う。両腕が一緒にくたびれるから余計に暑くなる。第一、蚊が足に止まって血を吸い始めても、両手がふさがっていては叩くことができません。吸われ損の仰ぎ損のくたびれ損の泣かれ損というわけだから、それではたまりません。遠くのニュースも近くの怖い話もあったものじゃありません。こんなに暑いのだからせめて体力だけは維持しておこうと、生のうなぎを買ってきてさっき台所の盥の中に生きたまま入れておいたのです。蒲焼にしようと思いましてね。夏は暑いばかりで損ばかり、ということでもありませんね。そうは言っても、やっぱり夏はいいものです。スイカだのかき氷だのうなぎだの、暑いからこそおいしく頂けるものがたくさんある。カレーだってそうです。カレーというのは、あれはやはり夏の食べ物ですね。辛味を利かせて。汗をかくというのは心持がいいものですね。体の中にたまっていた悪いものが、汗と一緒に表へ出て行くようです。悪いものと言ったって、具体的に何が出るとはわからないんですが、それは肩こりや胃もたれが汗と一緒に外へ出てくれればそんなに都合のいい話はないんでしょうけれどもね。そうはいかなくたって、やっぱり汗をかくのは心持のいいことに決まっていますからね。蒲焼を焼くのだって、ずっと七輪の前にいなくてはならないんですから、もう腕も顔も汗だらけになりますよ。でも、そうして汗をかいて焼いた蒲焼ほど、この世においしいものはないわけですから。うなぎとは言っても、そんなに大きいのではありません。何しろ料理屋のようなりっぱなまな板や包丁があるわけではありませんから。素人に手頃の長さのうなぎを、一匹金を出してもらってきたんですがね、悔しいなあ、ちょっと目を離しているうちに、今台所に戻って来てみたら、大事なうなぎを、泥棒猫に持って行かれた、というお話です。
『蒲焼』 矢口晃 @yaguti
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