最終話 僕と彼女たちについて
シロが公園に現れなくなった。数週間前から姿を見せなくなった。最初は、どこか放浪にでも出ているのだろう、また戻ってくるさと、そう思っていた。けれども、一週間二週間と出会わないまま、時間は流れていった。三週間目のある日、公園に集う主婦たちが、公園で死んでいた猫の話をしているのが耳に入った。小さな白い猫で、主婦たちはタマと呼んでいたらしい。その猫は、まるで人目を避けるかのように、ひっそりとした場所で死んでいたらしい。かわいそうにねえ、と彼女たちは鸚鵡のように繰り返していた。
「最近ずっと、辛気くせえ顔してんな」
唐突に、パン屋の娘さんに言われた。ベーカリー宮川は、いつもの通り客も少なく、二人してレジに突っ立っている有様だった。
「そんなことないですよ」
下手くそな笑顔でもって返すと、彼女はムッとした顔になった。癪に障る笑顔だっただろうか。
「そういう下手くそな嘘をつかれるのが、一番嫌いだ」
どうせつくなら、もっと上手くつけ、と彼女は吐き捨てるように言う。
「……そりゃ、上手いことは言えないけど、聞くぐらいならアタシにだってできるぜ」
そう小さく呟く。彼女はやっぱり優しい良い子だ。
「……シロがね、多分、死んじゃったんです」
ポツリポツリと話しだす。この子の優しさに、答えるように、甘えるように。
「死んじゃったってことは、勿論悲しいんです。悲しかったんです。その話を耳に挟んだとき、泣いてしまいそうでした。でも」
でも。
「話を聞いてから、一日経って、一週間経って、二週間経って……少しずつ、少しずつシロのことを忘れていくんです」
そうだ。死んでしまったと聞いたとき、あんなにも悲しかったのに、今はどうだ。最初の頃は、それでも公園にはよく出かけていたのに、公園に行く度に、シロのことを思い出していたのに、徐々にそれも無くなって、公園にも行かなくなって。
「あんなに可愛がって居たのに、いざ居なくなったら薄情なものです。それが何だか悲しくて」
それに。
「僕も死んだら、こんな風に忘れられちゃうのかなあって」
彼女は黙って、僕の話を聞いてくれていた。ただ黙って、いつの間にか僕の方を見ながら、真剣な顔で。僕が話し終わると、少しの間静かな時間が流れた。
「結構めんどくさいこと考えてんだな」
彼女が口を開いた。けれど、呆れるようでも嘲るようでも無かった。優しい声色だった。
「バイト終わったら、時間あるか?」
そう彼女が尋ねる。
「その公園、行ってみるか」
「あら、偶然ですね」
彼女は僕を見て微笑んだ。
バイトが終わり、日が傾きかける頃、僕はパン屋の娘さんに連れられて公園へと出向いた。公園なんて小学生以来だ、と娘さんは少しはしゃいでいるようだった。楽しげな娘さんを見て、僕も少し気分が明るくなったような気がした。
公園に入ると、見知った人影が目についた。コンビニの彼女である。ベンチに座って、本を読んでいた。店の外で、制服を着ていない彼女を見るのはこれが初めてだった。彼女は僕に気が付くと、本をたたみ、そして先ほどのように言ったのである。
「お店の外で会うの、初めてですね」
ふふ、と少し可笑しそうに彼女は笑う。
「あら、そちらの方は?」
娘さんに気付いた彼女から、尋ねられる。アルバイト先のパン屋の店主の娘さんだ、と答える。すると彼女は目を輝かせて、
「公園デートですか?職場恋愛?」
と聞いてくるのである。随分と乙女な思考回路である。何度も話していたけれど、この一面は知らなかった。そうではないことを伝えると、
「じゃあ、何でお二人でこの公園に?」
そう言った。当然の疑問だ。しかし、ここに至るまでの経緯を話すべきかどうか迷った。よく話すとはいえ、所詮アルバイトと客の関係で、そこまで深いものではない。そんな相手に、先ほどのような話をしていいものだろうか。
「いいじゃん。全部話しちゃえよ」
ポツリ、呟くように娘さんが言った。見ると、娘さんは優しい表情を浮かべていた。
その言葉に背中を押されて、僕はこれまでの経緯を彼女に話すことにした。娘さんにした、シロの死とそれについての僕の思いを、そのまま彼女にも伝えた。彼女も、娘さんと同じであった。ただ黙って、僕の話を聞いてくれていた。僕の顔をじっと見て、何も言わずに。
「最近元気が無かったのは、そういうことだったんですね」
僕が話し終わると、彼女はそう言った。合点がいった、というような風であった。それから、ふう、と一呼吸ついて、
「お二人とも、ちょっとついてきてくれませんか?」
穏やかな声であった。
「ここは?」
僕はコンビニの彼女に尋ねた。僕と娘さんは、彼女に連れられて、公園の裏手にある、林の中を歩いた。少しすると、少し開けた場所に出た。そこで彼女は立ち止ったのである。
「あれ、見てください」
そう言って彼女は指さす。その先には、小さな土の山があった。恐らく、人の手で作られたであろうその山の頂には、木の棒が刺さっていて、手前には小さな紙パックの牛乳が備えるように置いてあった。
「シロちゃんの、お墓です」
もっとも、彼らにとってはタマちゃんのお墓らしいですけど、と付け加えた。
「シロの……」
「ええ、公園でよく遊んでいた子供たちが、シロちゃんを埋めてあげたみたいなんです」
彼女が言うことには、彼女は僕の話を聞いてから何度かこの公園に足を運び、シロを眺めていたらしい。だが、ある日シロの姿が見えなくなった。どこかへ行ってしまったのか、と考えていると子供たちが、牛乳を持って林の中へ入っていくのが目に入った。不思議に思った彼女は、子供たちの後を追い、この場所にたどり着いた。そこに居た子供たちに話を聞くと、どうやら彼らは公園で死んでいたシロ(彼らはタマと呼んでいた)を見つけ、ここにお墓を作ってやったそうだ。そして、時々ここへ来て、牛乳やら道端で見つけたきれいな花やらを供えてやっているのだと。
もう一度、シロの墓を見る。先ほどは牛乳にしか気が付かなかったが、なるほど、名前の分からない、小さな白い花も供えてあった。しかも、花の状態を見るに、つい最近供えてやったもののようだった。
「……確かに、死んでしまったら皆から忘れられてしまうのかもしれません」
静かに、彼女が話し始める。
「でも、こんな風に、忘れないように、忘れないようにってしてくれる人もちゃんと居るんです」
彼女は僕の顔を見て、太陽のように笑って、
「それってとっても素敵なことじゃないですか?」
それに、と彼女は続ける。
「そうやって忘れることを悲しめるあなたも、とっても素敵な人だって、私思うんです」
僕は、耐えきれなかった。ポロポロと涙が零れる。まさか泣くなんて、思ってもなかった。何度も手で滴を拭う。けれども、ちっとも水源は枯れる様子を見せなかった。
しばらくして、やっと涙が止まった。僕は今、酷い顔をしていることだろう。だけど、気分は晴れやかだった。シロの訃報を聞いたあの日から、僕の心にかかった靄が、スッと引いたような、良い心持だった。
「私、アヤって言います」
不意に彼女がそう言う。え、と間抜けな声を出してしまった。
「名前です。私の名前」
そうか、名前。何度も話していたけれど、今の今まで、彼女の名前はさっぱり分からなかった。
「……アキラ」
それまでずっと黙っていた娘さんも口を開いた。見れば頬を少し膨らませていた。
「アタシの名前。」
知らなかったんだろ、と膨れたまま呟く。
「名前、教えてください」
優しい声で、彼女が、アヤが言う。
「あなたのこと、ちゃんと覚えておきたいから」
「……アタシも、ちゃんとメガネのこと、名前で呼びたい」
少し機嫌の悪そうな声で、娘さんも、アキラも言う。
「メガネより長生きして、メガネのこと忘れないようにしてやる。だから……名前」
再び込み上げてきた涙を堪えて、僕は声を絞り出す。
「名前……僕の名前は―――」
折角文学部に在籍しているのだから、小説の一つでも書いてみようと思う。死んだ後も、誰かに覚えていてもらえるように。
僕と彼女とコンビニと猫 国会前火炎瓶 @oretoomaeto1994
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