手
***
起こった出来事がうまくつながらない。ぼんやりとした視界が白く、つんとした、消毒液に似た匂いがすることが不思議だった。ぼんやりとした、ふわふわとした、私の意識はここにあるのかどうかよく分からない。
嵐は、無事だろうか。
私のしたことはどれを取っても無謀でおかしく、きっと無駄だった。魔術師として名を成した娘が、国に利用されて、これまでの努力も、これからの道筋さえも奪われようとしているから、それをどうにかして止めたかった。具体的には娘の昇進がかかった大規模魔術実験。数多の思惑によって失敗することの画策されていた実験は失敗した。魔術は暴発し、隣国との国境を挟む緩衝地帯からおよそ十キロも距離を置かず設定された実験場を超え、国境までも越えて地面を大きく抉った。微かであっても隣国に被害を出した娘は引っ捕らえられ、責任を追及され、立場を失うだろう。私には実験を超える程のインパクトを隣国にもたらすことができた。だからそうしたのだ。この世界で、異世界で娘の将来へ繋がる立場を築き上げるための、私ができたあらゆる手段は瑠璃に――流風に、夏子葉に叩き込まれたそれだった。隣国には、特にあの国境には、私への憎悪が息巻いている。おあつらえ向きだと思った。私には嵐を守る最良の手段が、騒動の最中隣国に身をさらすことだった。公の記録に残しようのない緊急事態、なにが起ころうと不思議では無い――私が、隣国の国境警備兵によっていたぶり殺されたとして。
頭の良い、賢い子だ。あの場で捕まらずにいられたなら、身を潜めるくらいのことはできるだろう。私がしゃしゃり出て、わざわざ嫌な思いまでさせて、隙や時間や段取りを、作ってやる必要はなかったのかもしれない。それでもなにか、私にできることがあったから、やりたかったのだ。自己満足に他ならない、子どもの気持ちさえ慮らない。これは親のすることではないに違い無い。
頭の中がほどけていく感覚がある。考えることが、感じることが手をすり抜けていくような肌触りが。ぼやけている視界がさらにぼんやり、ただの白と灰色へ、遠くなっていく。昔にも見た、あの嫌なしろい光だ。そっくり。まって。身体の動く気がしない。口をこじ開けて、喉を捻り上げる。まって。声を、今度こそ。まって。
白と灰色に、あおが混じる。視界が揺れる。音が聞こえる。懐かしい、耳の熱くなる声。小さいそれがぼんやりしていく。
***
嵐の見た母の最後の姿は、国境の向こうで人に囲まれている姿だった。
実験は失敗した。有効範囲がせいぜい数十メートルの魔術が、数十キロ先まで大きく地面を抉るなど、そんな事態は予想を超えていた。失敗した、それを目の当たりにして、魔術がどこまで届いていたのか、確認に走った先、国境さえ越えて抉れた地面の先に母の姿はあった。
あの場に母さんがいたのは、きっと娘である自分のためじゃない。母さんのためだ。
嵐はこの数日の間、ずっとそう自分に言い聞かせていた。だから母さんがどうなったって、自分のせいじゃないし、そもそももう顔も見たくなくて独り立ちするために実験をしたんだから、気にする必要なんかないんだって。
それなのに、母さんはやっぱり自分の――娘のために飛び出して行って、帰ってくるのが非常に難しくなったこと、父がそこに助けに行ったことを知って、いてもたってもいられなくなった。
なんでそんなことするの。そんな言葉が、母さんの元へ向かう間ずっと頭の中でぐるぐるしていた。腹が立った。胸がつかえて何も喉を通らない。意識が宙に浮いてるような感覚で、耳にすることが一度で頭に入らなかった。下っ腹に力を入れていなければ立つことさえできない予感がした。
「やっと怒ってない顔が見れた」
かすれささやくような声で、母さんは笑った。あの写真と同じ顔。嵐は鼻の奥がつんとして、胸からせり上がってくるものをぐっと飲み込んだ。
「怒ってないわけないでしょ! 心配して死ぬかと思ったんだから!」
口から出る言葉がでたらめで、嵐はまた泣きそうになった。こんなことを言いたいわけじゃない。なのに。は、は、は。かすれ声で声を出して笑う母さんの、手が伸びて頭に触れる。ぎこちなくさする動きがあたたかくて、ぼろり、嵐はとうとう涙がこぼれ出た。
ごめんね。辛かったね。言う母さんに反論したい。黙って。無理しないで。
でも涙と一緒に垂れてくる鼻水と、腹からせり上がってくる衝動に喉が詰まって、口を開けても声が出ない。ひっく、空気を吸うんだか吐くんだか分からない音ばっかりでもどかしくて、鼻をすするのに、顔を上げると後ろ頭に母さんの手の感覚がある。声は全然頼りなくて起き上がれもしないくせに、頭を撫でる手ばっかりがしっかりしていてあたたかくて、ここにいるのだと、感じる。母さんが、目の前に、手の届く距離にいるのだと、やっと感じることができる。
風まかせ 木村凌和 @r_shinogu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます