16年

再会

 誰、その人。

 再会した娘の第一声がそれだった。私の数歩後ろに立っていた皐月を指したであろう言葉にとげとげしい険はあっても熱はなく、眼は睨み付けてくるわけでもなく、どこかあさっての方向に向けられたまま、眼を合わせることもできない。怒りと諦め――大方、父親に散々同じ目に遭わされてきたのだろう。その父親と決別するつもりが、同一視されていることが情けない。

「新しい父親だ。書類の上では」

 日本で夏子葉を通じてやり取りした手筈では、皐月が娘の新しい父親におさまる予定だった。世界を超えてから色々変わった。彼無しの将来を考えられなかったのに、それももう過去のものだ。皐月との付き合いはとうに終わった。

 許して貰おうとは思わない。これは私が勝手にした、単なるわがままの遺物だ。私は平静の声を出した。娘にまで媚びるなどと。それだけはしたくなかった。

「なに、それ」

 嵐の声が硬い。見えないトゲを研ぎ澄ましているような、不気味な硬さだ。

 かちり、眼が合った。正面から見ると、本当に流風に似ている。鼻筋のラインが、記憶の中と写真の中の彼と重なる。前にこの眼を見たときは、ただ見返してくるだけだった。ただ動くものを追いかけた眼。今ここにある眼は、意思を宿して私を射貫こうとしている。強い眼をすることが嬉しい。だから、反抗した。私はそう簡単に負けはしない。口元が緩みそうになるのを抑えたところで、視界が揺れた。

 平手。娘の。

 地に足が着いた感覚が戻ってきたみたいだった。私は、浮かれていた。舞い上がっていた。娘と顔を合わせただけのことで。今ここに立つ娘が、なにを感じているかさえ思い巡らせもせず。

「これで、許すから。そっちの人は早く行って。消し炭じゃ済ませられない」

 静かさを装った娘の声は微かに震えている。俯いた頭の、強がった肩肘の、頼りなさに寄る辺無さに、知らず手が伸びた。伸びて、私の手の、身勝手さが小汚くて娘に触れさせることはしたくない。引っ込めてお互い吐いた小さな息はなんだろう。



***

 しなびた中庭だった。狭苦しい、中庭と呼ぶには小さすぎる建物内のぽっかり空いた空洞の向こう側に男がふたり。ひとりは黒ずくめの、見るからに腕っ節の強そうな大きな男だ。建物への再びの入り口横に立っている。見張り番というわけか。もうひとりはその近くに座っていた。水垢で汚れた白いテーブルセット、しかももう崩れそうなほどに見えるそのイスに掛けてファイルの紙を繰っていた。あおい髪の男だ。私はどきりとして、止まった足が後ろから押されて絡まった。躓いて蹈鞴を踏み、転ばずには済んだものの、顔を上げたあおい髪の男に見られたのはまともに歩くこともできない無様な姿だった。会うつもりではなかった。再会するとしても、こんな様では格好が付かない。私はいつから、流風に格好をつけるようになったのか。

 目を合わせられない。自分でも驚くほどおどおどと下げる視線の道すがら、彼は随分たくましく、しっかりしたと思う。そして年をとったとも。

「別に、不備は無かったはずだけど」

 流風の声がひどく硬い。十年以上ぶりに聞く声だ。彼は、こんな声だったか。懐かしさや、自分から会わないと言っておきながらすごすご会いにきた後ろめたさと彼からの仕打ちを考えて恐ろしくなるものだとばかり思っていた。だが、なぜだか、頭と顔がとてもあつい。耳の奥で鼓動が波打った。

「そういうわけで来たんじゃない。あの子の、ことで」

 声が震える。流風の眼が痛い。怖い。なのに頭はのぼせ上がるばかりで、目の前がちかちかする。

「今更? なに」

 恐ろしくてたまらない。流風の気配にぐっと敵意が混じって、私を押し潰そうとしているみたいだった。

 今更。そうだ、今更。あの子に、環に、嵐に会って、本人ともろくに話もできず、嵐に会う前にも流風に娘に関して連絡をしたことは必要以上になかった。だって恐ろしかった。嫌われていたらどうしよう、覚えても、望まれてもいなかったら。見て見ぬ振りをするために蓋をして、聞くことを避けていた。娘に会いに、ここまで来たのに。

 気圧されて足が退こうとする。それを前へ、下がらないようにするのでなく前へ、一歩踏み出す。ぐっと顎を、顔を上げて、対峙する。私は娘に会いに世界を越えてここまで来た。私は、母親に、なるのだ。

「あの子は何に巻き込まれているんだ」

 声が震えないように。腹に力を込めて、歯を食いしばって。ちかちかする眼があつくて乾いて痛かった。だが彼の顔を見て、言う。



***

 会ってわかってしまった自分が情けない。話してやる対価としてせしめた煙草のパッケージを、流風は手の中で転がした。日本語、特に注意書きのひらがながやけに懐かしい。未開封の封を破る気にもなれずにいる。

 まいった。参ったな。口に出すのが悔しく、ため息だけをはき出す。このままではなにか言ってしまいそうだ。封を破って一本咥え、マッチを擦った。この世界は魔術を使えない人間に対して本当に不親切だ。出来の粗末なマッチは一本折れ二本折れ、火を点けるまでに五本を消費した。

 鼻を通り抜ける匂いが懐かしい。十代の頃に格好つけで吸っていた銘柄だ。颯が真似をして吸い始めたのは知っていたが、銘柄までとは。しかも、十何年経った今になってもとは。

 まいった。自分の単純さが、本当に馬鹿だ。一度、そう見えてしまったら、なにからなにまでそう見えてしまう。顔を真っ赤にして、耳まで、眼まで充血させ潤ませた颯の顔に、そういった意味合いはないはずなのだ。手紙にはっきり書かれていたじゃないか。

会いたくありません、あなたの横暴と暴虐が私は本当に嫌でたまりませんでした――。

 だから違う。さっきの態度は、彼女が自分に対して反抗したのが初めてだったからだ。その、勇気や決意の表れに過ぎない。だから、彼女の吸っている煙草の銘柄や髪型が、自分の好みのまま変わっていなかったりすることにはなんの意味合いもないのだ。

 ない。ないはずだ。そもそも、自分は彼女のことが本当にそんなに、あれだっただろうか。彼女が初めて見た異性が自分だったから、イレギュラーとして瑠璃の人間ながら白伊の姫の教育係になっただけ。教育係だからずっと一緒にいただけ。夜のあれこれを教えなければならなかったから寝ただけ。それがどうしてこんな風になってしまっているのか。

 嵐が生まれたからか。妊娠して、出産までも、それまでと彼女との関係性が変わったわけではなかった。ただ子どもの存在が颯を結びつけて意識させた気はする。興味もなかったのに、自分の子どもは見てみたくて、見たら忘れられなくなった。なぜだか愛着が湧いて、白伊の好きにさせるのが我慢ならなかった。赤ん坊を抱く颯の雰囲気からして引き離したくないとも思った。しかし引き離せざるを得なくなって、娘はみるみる彼女に似ていって、だからあんな手紙を書いて、返事にショックを受けて、新しい女を漁ったりして。

 これは本当にあれだ。参った。自分には今、結婚一歩手前の恋人がいるのに。



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