サイクル2:With great power comes great responsibility.

第一話:ドロップアウト・アーミー

 ――しばらくシャバを体験していないうちに、ずいぶんと世の中は変遷したものだ。


 時州相生は、晴天の下しみじみと思った。

 彼がもたれる温泉施設の中の、八葉輪もそう考えているのだろうか。

 いやさすがに現代っ子にはこの程度慣れたものなのかもしれない。


 伊勢路のパーキングエリアには、温泉施設もあり、アウトレットモールもあり、あげくのはてには観覧車をはじめとする遊園地さえもあった。


 本当の旅行先に行かずとも、ここで一日をつぶせるかもしれない、とも考えてしまう。

 とはいっても、ここは彼ら『デミウルゴスの鏡』護衛斑にとってはあくまで通過点に過ぎず、ましてや物見遊山でもなんでもないわけだが。


 ――ひといきついたら、また来よう。

 彼はため息ひとつこぼすと、公用の携帯端末で通話をつづけた。


「……尾行する車両は見当たりません。というよりも、大金を持つ人間の心理といいますか、すべてが怪しく思えてしまいます」

〈そのとおり、すべてを疑いなさい。おそらく今も、貴方の感知していない部分で、虎視眈々と敵は『鏡』を狙っているはず〉


 母、時州藍の推察は、おそらく当たっているのだろう。

 怪しい人影や車は見当たらないし、ヘリコプターや飛行機も、機影はない。だが、直感的な部分でそれがなおのこと怪しかったし、理屈のうえでもこのまま易々と時州宗家の館まで行かせてくれるとは思えない。


〈場合によっては、その場で八葉輪の腹を裂いてでも、『鏡』だけでも守りなさい。それこそが多くの術者異能者を輩出した時州の義務であり、責務です〉


 ――もっとも、現代いまとなっては、瑠衣るいをのぞけば、もう術らしいものを使える人間などいないがな。


 聞こえないよう、心の中で嘆息した。


〈それで、彼女の様子はどうなのです? 精神や肉体に変調は見られないのですか?〉

「はぁ。そうですね……至極ふつうの少女です。顔立ちはそれなりですが。ちょっと図太いといいますか。今は身の汚れを洗い流していますが」

〈は?〉

「いえ、ですので温泉に浸かってます」

〈この……莫迦ッ! 定時連絡が三十分遅れた原因がそれですか!?〉


 母の甲高い叱責は、予想通りだった。あらかじめ指で耳栓をしておいてよかったと、心から思った。


 彼の足下には、少女が持っていたカラスのぬいぐるみがあった。

 丸々とした体型に不釣り合いな、やたらシャレっけのある赤い帽子。

 持って行かなくていいのか、と尋ねたら、すごい形相でぬいぐるみを睨んだのを憶えている。

 あんな顔もできたのか、と驚いたぐらいだった。

 このカラスは、彼女にとって特別な存在なのかもしれない。自分の理解できない部分での話だが。


「……ですが、御前。いえ、母さん。内部にかかえるものが何者であれ、彼女はついこの間まで、一民間人だったのですよ? いきなり風呂や食い物といった、人並みの幸福を捨てろ、と言われても酷ですし、実感がわかないと思います。それに」

〈それに、なんです〉

「泣いていました。彼女は」


 昨日の晩、監視カメラで夜通し彼女の様子を見ていたが、ぬいぐるみを抱えて、ベッドで震えていたのを思い出す。

 それを思えば、奴隷のようにあつかうことなどできなかった。

 まして自分は、ついこの間まで彼らのような人々を守る義務を、持っていたのだから。


〈つまり、こう言いたいのですか? わたくしに、世界を揺るがすかもしれないこの大事を前に、一人の娘の身だしなみやメンタルに、気遣えと?〉

「……あえて申し上げれば」

〈そんなだから貴方は、自衛隊での出世争いにも負けるのですよ、相生〉


 痛いところを突かれて、ぐっと時州相生は押し黙る。

 そのただ一言が、彼のコンプレックスをひどく刺激し、暗い気持ちにさせたのだった。


〈いいですね、これは戦争なのです。私情は切り捨て、相手が神器をかかえた怪物だということを忘れず、甘い顔などけっして見せないように。……次回の連絡は三時間後です。いいですね〉


 通話は、一方的に切れた。


「……ああああ、はいはいはいはいはいはいはいはい……」


 ひくく何度もくり返し、それから盛大にため息をつく。

 母からも、そして妹からも無能者の烙印を押されている。もっとも妹は霊能者の名門の家柄にしがみついている母を死ぬほど毛嫌いしていて、いくつかの権利書や謄本や口座をかっぱらって、とうに家を出てしまったが。

 一方で自分は、社会や文民に奉仕しようと勇んで世に出たはいいものの、醜い権力闘争に耐えきれずに実家に戻ってきてしまった。


「……ダメなヤツだなぁ、ほんと」

 そんな我が身が情けなくなって、ついぬいぐるみにグチをこぼしたくもなってくる。


「いや、わかるよ。女所帯って、マジ肩身がせまいよなぁ」

「そうそう」

「俺もそうだったんだよなぁ。……周囲にはおっかない女ばっかでさ」

「……この実働部隊組織したの、自分なんだがなぁ……今更陰陽師に出張られたって、連中にミサイル避けの呪文なんて唱えられるかってな」

「それに関しては、正直焼け石に水って感じだけどな。陰陽師うんぬんとか三十分の遅れとか、そんな次元の話じゃない。他の連中はかならず輪の『鏡』を奪いにくる。それこそ、何を犠牲にしても。あれにはそれだけの価値がある」

「というか、なんなんだ。彼女に入っているという、『鏡』とは、いったい」


 と、話を振りかけて、我にかえる。

 そもそも自分は、だれと会話していたのか。

 その答えは、話し相手は、自分の買ってとっておいた、サンドイッチを翼とクチバシで器用に口にしている、帽子をかぶったカラスだった。


「それより美味いな、このスモークチキンサンド。悪いが兄ちゃん、もう一個買ってくれ」


 一瞬後、野太い男の絶叫がハイウェイ中に響き渡った。

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