第十話:月さびの夜

 時州一族とかいう謎の集団に導かれ、私が乗り込んだ車の後背のぞき窓。そこに取り付けられた格子から、月光がのぞく。


 どのあたりを走っているかはわからないけど、車体の揺れ具合から察する公道に出ることはできたようだった。

 空はちょうど笑っているような三日月で、それをあどけなく、無心で見上げるカラスを見つめながら、


「クロウ」


 と、呼んだ。


「ん、なんだそりゃ」

「君の名前。ないと不便でしょ」

「……いちおう本名ってものが俺にもあるけどな。つかクロウってまんまか。いやそれもわるくないな……うん、かっこいいな」


 私はふと思いついた名前を口にしただけだったけれども、彼は思案をするように翼をクチバシの近くに置いた。

 ほんとうは彼の目に宿る三日月クロウからとったんだけれども、それを言うと若干中二がはいってるっぽいカラスをさらに調子づかせそうだから、やめておく。


「まっ、かつての俺を知るたいがいの知人は、どいつもこいつも生き急いでいなくなっちまった。好きに呼ぶといい」


 ゴトゴトと、私たちを荷台に押し込め進む大型トレーラーは、いったいどこに向かおうとしているのか。

 外見こそまるで凶悪犯の護送車のようだったけれども、中は意外と奥行きがあって広かった。やわらかいベッドもあって、病室のより上等な枕もあって……それ以外にはなにもないけど、一眠りするには十分だった。


 横たわろうとして、身体をひねって、

「っ!」

 するどい苦痛が、私の喉元にはしった。

 起き上がると、ベッドのシーツには濃い血の色がにじんでいた。


 そなえつけの鏡が向かいの壁に立て掛けられている。

 そこにはつまらない顔をした女の子が、ベッドにすわっていた。

 そして、自分の首筋からノドにかけて、くっきり入った切れ込みを見て、驚愕しているさまが映し出されていた。


 首だけじゃない。

 血こそかわいていたけれど、手首や、脇腹もそう。


 『シルバー・ハイド』に容赦なく切り刻まれた、生傷がのこっていた。


「……アトにならなきゃいいけど」


 首に血のぬめりを感じながら、私はふるえた声で自嘲した。そこに触れようとする指先は、小刻みに揺れている。


 ぐち、と生々しい、肉と血の音に身をすくませる。

 それは、私の身体から奏でられた音だった。


 だけど、傷が開いた音じゃない。

 むしろ、その逆のことだった。


 ぐちゅり、と醜い音がふたたび聞こえる。

 鏡の女の子の傷が、みるみる内にふさがっていく。

 そもそも服を濡らす血の量から言えばとうに気を喪って……いや失血死してたとしても、ふしぎじゃなかったのに。


 息を呑む。あばれる鼓動を胸の上から押さえつけて、唇を噛みしめ下を向く。下ろしっぱなしの髪が、顔も前へと垂れた。


 ……わかっていた、ことだった、はずなのに。

 私の正体は……生き返った私は……何者か?


 悪夢のような事故から奇跡的に生き延びた幸運の少女?

 弾丸さえ目視できる動体視力とかわす運動能力を持つ超人?

 どんな矛でも叩き割る無敵の盾を持つ魔法少女?

 ……創造神ってのの力を受け継いだ、新しいカミサマ?


 ちがう。

 死なんていう、誰の身にも降りかかる「当たり前」から逸脱した私が成り果てたのは、人間である資格を永遠に喪った、ただのバケモノだった。


 食い破ろうとした唇の傷が、もうふさがっていた。

 痛みも感じなくなっていた。


 今さらになって死にたいとも思わないけれど、変わってしまった自分に無心でいられない。

 ここまでの過去をひとっくくりにして、こう言いたくなってくる。


「ひどいや、神様」


 とでも。


 だけど言わない。泣かない。嗤いさえしない。

 これは、イリーガルな偶然で、ひとり生き残ってしまった私への罰であり、義務なんだから。



「まぁーたお前は、そうやって内に感情を籠もらせる」



 ――そう決意した矢先だったのに、横合いからクロウのケチがついた。


「病院にいた時もそうだ。毎晩夢から醒めちゃ泣いてるくせに、夜回りがくるとピタリと泣き止む。んで、タヌキ寝入り。変なところで意固地になる」

「……関係ないでしょ」


 鏡の下、テポテポと、奇妙な足音を立たせて私に近づいたカラスの男は、

「ここ良いか?」

 と言ってきた。

 断るヒマなく、「どっこいせ」と、私の太ももの上に、無遠慮に腰掛けてきた。

 たとえマスコットと言えど、嫌悪感を感じさせずに、ひとの足下にいとも簡単に自身を滑り込ませられるのは一種の才能なんだろう。



「……かつて、俺の世界にな。姫将だの麒麟児だのと呼ばれた女がいた」

 そして、マジメぶった彼の昔語りは、唐突にはじまった。

 彼がどこから来て、どういう時代に生きてきたのか、そもそも何者かの説明さえなかったけれど。聞く余裕はなかったし、あえて追及する気も起きなかった。

 ただお節介でちょっとホラ吹きなカラスのぬいぐるみ、クロウ。今はそれで良いんだと、思う。


「そいつは聡明な女でな。迷いがなく、自分を律して感情を出さず、自身を父親の理念と秩序の体現者と信じて疑う。そんなヤツだった」

「英雄、ってわけ?」


 私は白馬にまたがってフランス国旗を振りかざす、ジャンヌダルクを思い浮かべた。


「……誰もがそう思い、彼女にすべてを委ねた。でもな、実はあいつ自身の本質は、ワガママで独りよがりでヒステリックでファザコンで空気は読めないしヒトの機微にも疎い。……そう、どこにでもいる、ただの女だったんだな」


 最初っからそう在ればよかったのにな、と彼はわずかに顔を歪ませたようだった。


「でも、そのただの女の子に英雄の虚名を着せて喜ぶような連中がいた。そうして自分たちの汚れ仕事をやらせ、自分たちは思考を放棄して彼女をヨイショする。それですべてがまるくおさまる。そんなふうに考える連中さ。あいつは連中の性根に気づかず、そいつら『同志』の身勝手な期待に応えようと、自分の心も、他人も殺しまくった。必要とあれば乳飲み子にも手をかけた」

「で、その結果は?」

「あいつの前に、ある悪党が現れた。そいつはむごいことに、ヤツの理想の矛盾をつきつけ、その弱さを露呈させた。あいつはその事実に耐えきれずに、ついには壊れた。いや、赤子に手をかける時点でヤツはとうに正気じゃなかった。よしんばその悪人を負かしたとして……頭がいい女だったしな……自分で矛盾に突き当たって、破滅してたさ。より多くを、より最悪のかたちで巻き込んで。自分も、他人も、すべてを受け入れられずに殺し尽くすだろう」


 彼女にまつわる苦い経験がよみがえってくるんだろうか。それとも、彼女をそういうコトにまで追い詰めた、その悪党……たぶん自分の行いを、悔いているのか。

 そう語るクロウ自身の、なめらかながら口調はどこか、岩のような硬さと重さを感じさせた。


「そうでなくとも、あいつは今の今も、その虚像が神としてあがめられている。ヤツの理念はもはやそこにはない」


 後味悪く話を締めくくって、カラスはそのつぶらな目を閉じた。


「結局よくわかんなかったけど。彼女、どうすれば良かったんだと思う?」

「とっとと家出して色恋のひとつでもすりゃ良かったんじゃないか? マジメすぎたんだよ、あのスイーツ女」


 ごほんと咳払いをした後、クロウは言った。


「つまり何が言いたいかっていうと……義務や責任とか、罪とか罰とか、秩序とか正義とか、たかがそんなもんのために自分を殺すな。……あんなもんは、人間のやっていい生き方じゃない。泣きたいときは、泣けばいい」


 向かいの鏡には、彼が映っている。

 空には、三日月が高くのぼっていて、こうこうと照って銀色の夜を演出していた。すこし目に痛いぐらいのそれを、黒い雲が覆い隠し、完全な闇が訪れた。


「そりゃ、生きてりゃ義務や責任も出てくる。お前なりの正義や倫理観ってのもあるだろう。でもそれは、お前の心から生まれるものでなきゃいけない。自分を殺しちゃ意味がないものだ」


 そう言って、カラスは片目を開いた。

 そのサマが格好不相応にキザったらしく、私は思わず笑みをこぼした。


「もし泣きたくなったら、俺の胸を貸してやろう。さぁっ、このふかふかな羽毛ボディに飛び込んでおいで! ……なんて?」

「やだよ。この歳で抱きぐるみ使うシュミないから」


 カラカラと笑うクロウは、私のヒザから立ち上がると、ベッドの上に飛び込んで、勝手にその一部を占拠した。


「じゃ、俺は先に寝る」

「せまいんだけど」

「しょうがないだろ? これ、ひとつしかないんだから」


 そう言うが早いか、彼はそのまま私の枕元に寝っ転がって、寝息を立て始めた。


 私はため息を漏らしてこの無礼な侵入者をまた蹴っ飛ばそうかとも思ったけど、そんな体力も気力もなかった。頭も身体も精神も、何もかもが限界だった。


 身体を横たえる。

 シーツの手ざわり肌ざわり、その下のやわらかさ。

 心地いいはずのそれなのに、私の胸は奥底からはげしく痛んだ。


 違う。

 この痛みは……最初からそこにあった。


 そこから全力で目をそらして、必死で見ないフリをすることが、生きていくのに必要なことだったから。


 苦しくて、辛くて、背を丸める。

 喉は熱く、ひとりでにしゃくり上げて、肩や爪先は意識せずに震える。

 涙は頬やシーツを濡らして止まらなかった。


 すがるように伸ばしたその手に、クロウの身体があった。

 そのやわらかさと小ささが今はちょうどよくて、腕に抱えていろいろとひどくなった顔を埋める。


 混乱とやり場のない怒りと悲しみと、そしてとてつもない疲労とまどろみの中、背中に触れる感触があった。撫でたり触れたり、あやすように軽く叩いたり。

 その手つきに、いやらしさはなかった。ただあのみじかい羽と、身体をつかって、時に迷ったような、戸惑ったような動きを見せながら、ありったけの誠意で慈しんでくれるような気がする。

 それでも、彼は、クロウは、どうしようもなく、


「うそつき……っ」


 だった。

 彼は私の罵声に応えず、無言で私を宥めつづけた。

 でもそのウソは、いつだって、私のために、彼の優しさから生まれたウソだったから、私にはこれ以上責められなかった。甘えるしかなかった。


 そして私はこの三日月の夜、夢を見ずに安らかな眠りに就いていた。




 サイクル1:異形の鏡花……END

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