サイクル1:異形の鏡花
第一話:青い三日月、暗闇に
……そう、バスの転落からが、本当の地獄のはじまりだった。
今でも、あの時の幻が夢に出てくる。
なんとかその赤黒い泥と暴行から逃げまくってきた私だけど、さすがに50キロ以上でダイブして横転する車体のなか、膨張し続ける液体からは逃げられなくなった。
気がつけばヘドロは充ち満ちて、夜行バスを大型の悪趣味な水槽へと変化させていた。
思わず目をつぶる。
いや、本当は開いていたのかもしれないけれど、私自身まぶたの開閉を認識できないぐらいに、真っ黒な世界が周りを埋め尽くしていた。
幕切れの走馬燈は、不快なものばかりだった。
両親が首を吊った光景。イジワルな親戚に閉め出された。そんな家庭環境をネタにしてゆすったり優越感にひたろうとする部活の上級生。
振り返ればろくでもない思い出ばかりで、自分から意志と命を手放したくなる。
あれが、飛び込んできたのは、いっそ死んでやろうかと決めかけたまさにその瞬間だった。
黒以外が何もない空間で、憎悪と嫌悪にまみれた精神世界で、あれだけが、極彩色の輝きを放っていた。
「そんなことはない」
「生きることは良いことだ」
そう無条件に思わせるには十分すぎるほどの、生命の輝き、そのもの。
幾万年だって見てみたいとさえ考えてしまうほどの、神々しさを持つ円盤……鏡。
距離感さえつかめないから、大きかどうかさえわからないけれども、これほど見事な円形は見たこともないってぐらい、綺麗なラインをしていたのはたしかだ。
それが、まっすぐに私の胸を貫いた。
腐った性根を宿す心臓を突き飛ばして……それが、取って代わるかのように。
ちっちゃい子どもが真夜中、家の中で目が醒める。
そこについた、一筋の灯り。その安心感にも似ていた。
と、同時に私は本能的に理解し、戦慄もした。
死への諦観よりも、これを抱えて生きていくことのほうがよっぽどか過酷で、残酷で……きっととてつもなく怖いことだ。
やっぱり光だけじゃダメだ。力だけじゃだめ、命だけでもだめ。
だってそこには、誰もいない。
誰にも話すことなく、理解もされず、人体を瞬く間に修復してしまうような存在と、向き合わなくちゃいけないのか。
いつこれが終わるのか、果たして終わるのか……? それさえも、
そんな孤独に耐えられるほど私は……これに、ふさわしくない。
問い続けるだけで答えは出ない。そして睡眠時間は限界を過ぎて、朝になればイヤでも目が醒める。その悪夢から弾き出されては、夜になればまた引きずり込まれる。
そんな身勝手な夢に、事故の後からずっと付き合わされてきた。それこそ、気が狂うほどに。
仏頂面でヘンクツなのは元々だけど、泣くこともできないし、まして笑うことなんて出来やしないから、さらに感情を出さなくなった。
心が死のうと壊れようと、同じことのくり返し。
そう、昨日寝る前にそう思って本当に気鬱になって……けど、この夜の晩は勝手がちがった。
事故の夢、最悪な走馬燈。飛び込む光の円盤。そして孤独な自問自答。
そこまでは同じだけど、
「見つけた、そこか」
ふいに若い男のひとの声。
どことなく気品はあるけれど、けどそのクセ偉ぶった感じはなく、ラフで親しみを感じる。
声をした方に振り向くと、一人の青年が立っていた。青年といっても声の調子で判断したぐらいで、あとは細身のシルエットだけ見えた。
彼自身が帯びるきらめきが逆光となって、正体を隠してしまっていた。
わかるのは、断片的な服装の特徴だけ。
長い羽織、赤色の帽子。
まるで明治の紳士のような出で立ちの彼は、じっとライトブルーに輝くふたつの目を、こちらに向けてくる。
「……、ぼ……し』を、持ってるのはお前だな」
どうやらこちらのことを認識しているらしいけど、と同時に私はかるく失望も感じていた。
彼の目的は私の救済や理解じゃなく、胸に侵入した奇妙な存在……『鏡』そのものであったらしい。
身構える私の前に立ったその男から、息を呑む気配があった。
こんな暗闇に侵入してくるような異質なヤツが、呼吸を必要とするかはともかくとして、彼はショックを受けたようで、それから呆れたように嘆息して、その後でいまいちしまらない咳払いを
「げほんげほん」
と、くり返した。
彼の青い瞳が、気まずそうにふいと横にそれる。
「あー、いや、うん。まさかな、君みたいななんのへんてつもない小娘が、それを持ってるって思わなかったんだ。正直、すまなかった。許して欲しい」
歯切れ悪くそう言ってから、またわざとらしく咳払いする。
そのなんとも情けない有様に思わず脱力していると、彼はまた私に向き直った。
「……辛かったな。わかってると思うが、それと付き合うのは生き地獄だろ」
ウンとうなずきたくなるのを、ぐっとこらえる。
怒り、悲しみ、もしくはその混合物。そういった感情をぐっとせき止めていると、男の腕が闇から伸びた。
白くて、ほっそりした手。だが骨格自体はきちんと男のひとのそれだ。
無意識に、そしておっかなびっくり伸ばした私の手は、そのまま彼にぎゅうっと握られた。嫌悪感はないし、相手に感じられた様子もない。
卵でもつかむような手の力に、たしかな気づかいがあった。
「だから、俺も付き合う。離れずに、そばにいてやるから」
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