第52話「秩序と不秩序は根底から……」

「清美は元気? 大森さんとは上手くやっているのかな?」


カンナは思い出したかのように話題を変えた。いや、そう見せかけて実は話題は大して変わってはいないことを、良広は十分理解していた。そのやけに優しいカンナの声音に、返答はまたしても返らなかった。カンナにはそれで十分だった。ただそれだけで、所詮どこに行っても千房の女は、千房の女でしかないことが知れたのだ。


「咲は汚い自分の母親をどう思っていただろうね? きっと地獄蝶にとっては、最高な宿主だっただろうね」

「それはどういうことだ?」

「無知な奴と話すのは疲れるね」


眉を吊り上げた良広に、カンナは笑って「反面教師ってやつさ」と歌うように言った。このカンナの笑みに良広の背は、由美の日記を目の当たりにした時の冷たさを思い出した。


「咲は知っていたんだろう?」


カンナが言わんとしていることを、良広はすぐに察した。咲は自分の母親が、不倫という母親失格の行為に及んだことを知っていた。「反面教師」とは、このことを言っているのだ。


「話によれば地獄蝶は母性と性欲を支配するようだね。なら、咲は他よりも積極的にコドモを分け与えていたはずだよ」


良広は無意識のうちに唇をかみ締めていた。皮肉なことに、母親の失態を咲のために隠した良広の行動は、見事に裏目に出たのだ。顔を青くした良広の耳元で小さく喉を鳴らしたカンナは、布ずれの音と共に踵を返し、窓際に立った。そして窓の外を見下ろし、「今の世の中は不秩序が横行しているだろ?」と呟いた。


「遅かれ早かれ、いずれはこうなっていたのかもしれないよ?」

「自分は関係ないみたいなこと言うなよ」

「仕方なかったんだよ。だって蝶は不秩序な存在で、人間もそうだからね」


カンナが見下ろした先の道路の雪を、大型除雪車が力任せに押しのけていく。それまでただ平たく積もっていた雪は、わずかに汚れて大きな塊となり、徐々に歩道に沿って押し固められていく。除雪車の上部にあるマフラーからは、黒い煙が吐き出され、除雪車の後ろには小規模な渋滞が続いていた。


 カンナは掌と額を窓につけ、「ずっと考えていたんだ」と独り言のように呟いた。


「人間が現れると、自然は不秩序になった。けど今は、自然が本来の秩序だって言って、自然を壊した人間は悪だって騒いでる。それに、法が出来る前まで犯罪なんて なかった。この法ってやつも不変じゃなくて、今の殺人罪が昔は身分によっては許 されていたんだよ。いつだって、。でも、秩序も不秩序も人間が勝手に作っただけだろ。もしかしたら、かもしれないよ」


カンナは踵を返して良広に向き直った。白い世界を背景に、着物の裾が翻り、黒髪が肩を流れ落ちるその様は、この世のものではないと思うほどに美しかった。


「地獄蝶は、この世に在るあの世という不秩序の存在だ。地獄蝶の増殖は、なのかもしれないよ」


窓に向かって独り言のように漏らしたカンナの言葉は、寂しげに良広の胸に響いた。わずかな沈黙の間、脳裏に巡った由美の最期に突き動かされるように、良広はバッグの中から由美の日記を取り出していた。カンナはそれを訝しげに見つめた。


「俺がお前を当てにしてたってことは認めるよ。本当にすまなかったと思う。でも、俺も引き下がれないんだ。お前が蝶の犠牲になるしかないのか? 本当に方法はそれだけなのか? 頼む、一緒に咲を助けてくれ」


良広は深々と頭を下げると同時に日記帳を差し出した。カンナは身じろぎひとつせず、ただ突っ立ったまましばしその日記帳を見つめていたが、ゆっくりとした物腰でそれを拾い上げた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る