第48話「本当に罪悪感もなかったら」

 良広は光介が咲のために宛がった部屋の前で躊躇した。障子を開けられるなり、目の前に仏壇が現れたからである。他に部屋がないわけでもなさそうなのに、何故よりによって仏間なのか。それも丁寧なことに、すっかり日に焼けた畳の上には一人分の布団まで準備されている。咲だけがこの部屋でなければならないのだという。訊けばカンナがそうしろと言ったらしい。またあいつか、と良広がうんざりとした溜め息を漏らすと、光介はよほどカンナには似つかわしくない言葉を口にした。純粋な子だから、と。


「照れ屋で、素直になれないだけだと思うよ。きっとこれにも理由があるんだ」


カンナは蝶と浅はかにも契約を交わした自分の魂を、憎んでいるように光介には思えた。一方、良広にとってはまるで天上天下唯我独尊を体現しようなカンナが、そんなことを感じているとは到底思えなかった。だが、駅でのカンナの様子を思い出せば、照れ屋というのに思い当たる節がないわけではなかった。空のショルダーバックを傍らに置いていたカンナ。何も入れないバックは、それそのものが荷物になってしまう。何の為に、カンナはわざわざ荷物を持ってきたのか。答えはやはり一つしかない。カンナは咲がこんな状態であると推測できたにもかかわらず、やはり自分の隣にわざわざ席をとっておいてくれたのだ。


「本当に罪悪感も何もなかったら、カンナは自分で咲ちゃんを迎えに行ったりしな かっただろうし、第一、手紙の返事も出さなかっただろうね」


カンナサマが地獄蝶から本当に逃げたいなら、北海道にいることを何故知らせたのか。カンナ自身が手紙に返事を書いたということは、カンナは自分の居場所をわざわざ蝶を宿しているかもしれない人間に教えたことになる。手紙の内容にしても、どうして矛盾点を含ませたのか。嘘をつくにしても、清美が千房出身である限りはすぐにばれてしまうとカンナも十分承知だったはずだ。まるでばれるような嘘をつくことで受け取った側の感情を煽り、自分の所へ来させるように仕組んでいるようではないか。しかし、血華が蝶を招くなどありえるのだろうか。良広の知る限り、華は蝶に一方的に血を奪われているようにしか見えない。何か策でもあってカンナは自分の蝶を招きいれたのだろうか。


「何をするかはカンナしか知らないけど、カンナは今日二人に会えて嬉しいんだと思うな。その裏返しがあの態度だから、許してやってくれよ」


カンナにとっては咲も良広も血のつながりがある従兄弟である。千房の中では唯一、カンナと歳の近い従兄弟であったという話である。しかしカンナが物心付いたときにはもうその二人は千房から離れ、千房に生まれたことの意味も、カンナサマの存在も知らずに育っていた。


 カンナの欲しかった自由で普通の生活を、自分をおいて千房から逃げた奴等が手にしている。しかも、一歩間違えばカンナサマは自分ではなくそいつだったのに。カンナはそんな思いで咲や良広のことを遠く長崎の地から考えていたのではないだろうか。自分がカンナサマであり、そうして生きてきた以上は納得するしかないのだと分かっていても感じずにはいられない理不尽さや葛藤から、憎しみを感じるまでになるのはそう時間がかからなかっただろう。しかし、いざ会ってみると憎んでいたはずの相手に会えたことを喜んでいる自分に気付く。カンナはそんな自分の矛盾した気持ちに整理がつけられないのだろうと光介は話した。その様子から、光介はあの手紙がそういった気持ちからカンナが書いたものだと考えていたようである。ふと、良広の脳裏に、憤りを滲ませた両親の顔が浮かんだ。カンナの書いた「でたらめな手紙」を、すっかり健司の書いたものだと思い込んで怒りを露にした両親。千房の迷信から逃げるように長崎から出た彼らが感じたその怒りは、カンナサマという最たる迷信を信じていた証。即ち、カンナサマの存在を信じ、さらには現在のカンナサマが血華であることを利用しようとしたということだ。かつてカンナサマを否定しておきながら、自分に降りかかった不幸を見るや否やカンナサマに助けを求めた両親の身勝手さを、カンナはどう受け止めて筆を取ったのだろう。そして、その子供であり、身勝手にもカンナに救いを求めに来た自分にはカンナはどんな思いを向けているのだろう。そう思うに至った良広は、急に自分が卑しい存在のように見えてきて後ろめたさを感じた。


「光介さんは凄いですね」


良広は率直な感想を口にしていた。良広よりも五つも歳上の光介であるが、日に焼けた肌と体躯の良さ、朴訥とした笑顔などから実年齢よりも若い印象を与える。そのせいもあってか、扱いにくいカンナをそこまで分析できる光介はどこか自分とは次元の違う人間に良広には思えた。すると光介は、カンナや健司さんには言ってないんだけど……、とカンナを自分の家に招くことを決心した理由を聞かせてくれた。


 同族意識というものだろうかと、カンナを北海道に招こうと決めた光介は最初、思った。しかし、それだけではなかったことに気付いた。それはカンナと出会った日に鮮明になった一つの夢のためである。人は眠っている間に必ず夢を見ているのだが、起きた時には自分が夢を見ていたことさえもすっかり忘れていることがしばしある。光介の夢もカンナに会うまではそういったものだった。時々覚えていたとしても、突拍子も脈絡もない夢だと思っていたのである。それもそのはずだった。何故ならその夢には、ケッカやジゴクチョウなどといった変なものばかりが登場するのだから。しかし、カンナと出会うことによってそれが血華と地獄蝶のことだと分かった。何も知らなかった光介にとっては何の脈絡もない変な夢であったが、カンナに出会ったことによって一つの筋の通った物語になったのである。そしてその夢はカンナに出会った日を境に毎日起きた後も忘れることはなくなった。夢の内容も徐々に昨日まで聞こえていなかった声が聞こえたり、見えていなかった人物の顔が見えたりと鮮明さを増していった。

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