第36話「単なる言霊信仰とも違うのか」

 玄関から一歩足を踏み出したとたん、健司の周りにはナガサキアゲハが集まってきた。まだ暑さが残ると言えど、夜ともなればあれだけ五月蝿く鳴いていた蛙の声も今では大分大人しい。蜂や蝶などの盛りももう終わりに近いはずだ。それなのにこのナガサキアゲハ達はカンナを夏に咲く花のように求めている。健司はこの蝶達の目的が自分ではないと分かっていても、その不気味で毒々しい翅に脂汗が滲むのを感じた。カンナは健司の背中でうつ伏せの状態のまま体を起こすことが出来ず、顔を埋めていた。力の戻らぬ手でロザリオを持ち、搾り出したような小さな声でカンナは呟いた。


『マリア様、どうか私を天国へお導き下さい』


カンナは前世で自分が口にしたであろう言葉を口にした。この言葉が血華を蝶から解放する呪文になるのではないかと考えたからだ。しかし、蝶達は周りから立ち去ろうとはしなかった。カンナは苦々しく舌打ちをして、ロザリオを首から掛けた。すると蝶達は一斉に何処かへと飛び去り、カンナの息苦しさも遠のいた。


「単なる言霊信仰とも違うのか……」


カンナは親指の爪を噛み、拳を強く握りしめた。その拳はどこにもぶつけようのない怒りに震えていた。自分が蝶に対して無知で無力であることへの憤りだった。それと同時に、蝶との契りを断つ方法を一から考え直すしかないという焦燥もあった。何か、決定的なものが今のカンナには欠けていた。


 再び布団の中に横になったカンナは考えた。一番確実に自分が蝶と縁が切れる方法は、自分が仏教徒以外になることだ。昔、かんながしたように、その異教の神に心からすがることだ。しかしカンナは、仏教以外の宗教集団を危ない人間の集まりとしか見ることができなかった。その時点で、他の宗教の熱心な信者にはなれそうにない。さらに、もしも仮にカンナがかんなと同じような方法で蝶との関係を断ち切れたとしても、転生した先々で今のカンナのように蝶の存在に怯えながら暮らしたのでは意味がない。もっと確実に、そう、血華が蝶と別の次元に隠れるのではなく、蝶のほうが血華とは別次元に行ってくれたならどんなにいいだろう。いっそのこと、蝶との契約がすべて白紙に戻ってくれたなら。そんな方法はないだろうか。しかしそんな都合の良い方法があったなら、自分の魂がかんなであった頃に実践していたであろう。


「最悪だ」


カンナは苦虫を噛み潰したような顔でそう吐き捨て、寝返りを打った。どんなに辛くても、運の悪いことに血華であるカンナは寿命が尽きるまで死ぬことが出来ない。いくら体力がなくても、例え精神を病んでしまっても、一生蝶と戦い続けなければならない。


 そして、死んだ後にまた生まれ変わっても……。

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