第37話「北へ」

 この時を境に高校を退学したカンナは、外に滅多に出ることもなく、祖母の縫う着物を着ながらインターネットで買った本を大量に読み漁るという、バランスの悪い生活を送っていた。本を読む姿は時代劇のワンシーン。にもかかわらず、思いついたようにパソコンのデスクトップに噛付いている姿は現代の若者。まるでカンナが過去と現代両方に属しているようで健司は時に不思議な感覚を覚えた。健司はカンナがこのままゆっくりとした速さで、どこか現実とは切り離されたような世界で、成長していくのだろうかと悲しく思っていた。


 カンナもまた、どこか心に穴が開いた空しさを感じながら買い集めた本の山に向かっていた。高校を中退してからもう少しで一年が経とうとしていた。咲はもう高校二年だ。自分もあのまま在学していれば間違いなく二年生に進級していたのに、と、そんな今となっては無意味なことを不意に思うこともあった。                                          


 最近ではもうすっかり日が長くなり、今年も蝉の声が聞こえ始めた。そんな時の流れの速さにカンナは落胆せずにはいられなかった。あの日から蝶との契約を破棄できる方法を探しているが、進歩はない。それなのに時間だけはそんなことはお構いなしにどんどんと過ぎて行くのだ。時間ほど恣意的なものはないとカンナは思う。カンナと蝶の関係は、今だあの日で足踏み状態だというのに、時は待ってはくれない。このまま足踏みをした状態で老い、寿命に、即ち時に、最後通牒を渡されるのではないかと、最近では焦りもある。ただし、カンナよりも先に蝶のほうは目的に近づいたことは確かなようだ。ロザリオをしていても、カンナはロザリオを取ったときのような視線を感じるのだ。その視線は夏が近づくにつれて強くなっていた。


「駄目か」


カンナは最後のページを読み終えてそう呟き、溜息と共に本を山の中に戻した。

 まさにその時だった。


―――ケッカ、ド、コ?


カンナは飛び起きて窓の方を見た。肌を刺すような強い日差しの中で、黒い四枚の翅が蠢いていた。


「ひっ、うっ、ああああああああああああああああっ!」


カンナは悲鳴を上げてその部屋から飛び出し、声を聞きつけて駆けつけた健司に正面からぶつかった。健司は咄嗟にその折れそうなほど華奢なカンナの肩を受け止めていた。カンナの体は歯が上手く噛み合わないほどに震えていた。


「あいつが来た! 逃げないと、捕まる! 逃げないと、早く逃げないと、逃げないと!」


自分の頭の中で囁いた女の声を、カンナは知っている。あれは夢でもなんでもなくて、蝶が自分の血華を探している声だということを。千房の女性の淫乱が蝶の呪いだというなら、真に蝶が呪うべき相手である自分が見つかったら、一体どんな仕打ちがあるのか。カンナは言い知れぬ恐怖に晒されていた。とにかくここにいてはいけない。ナガサキアゲハのいないところへ行かなければ、捕まる。カンナは健司に「逃がして」とただ繰り返しては縋った。健司は何所へ逃げればいいのかも分からず、ただ、来るべき時が来てしまったのか、と考えた。問いただしても答えが返らないほどのカンナの狼狽振りに、健司は蝶と血華の結びつきの強さに改めて圧倒されていた。人間に対しては何をされようが飄々として冷笑を浮かべるカンナが、虫一匹にこれほどまでに怯えている。これはもしかしたら、カンナ自身の恐怖というよりはむしろ、転生によって蓄積された歴代のカンナサマや、その始まりのかんなの恐怖なのではないかと健司は思った。


「女だ。背中に黒い翅がある。それに、赤い華が、一面に!」


カンナは自分の脳裏に揺らめくものを叫んで列挙したかと思うと、胃の中のものを大量に吐き出して膝を折った。健司は慌ててカンナの背中をさすった。吐き気に襲われながらもカンナはまだ同じことを健司に言い続けていた。


「しっかりしろ、カンナ。分かったから。連れて行く。絶対蝶から逃がしてやるか ら!」


この健司の強い口調に、カンナはようやく安心したように頷いた。


「北へ……」


そう言ったきりカンナは気を失ってしまった。

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