第34話「呼びたい?」

 ロザリオを外してから、空気が重い。カンナはそう感じていた。自分以外誰もいないはずの学校の廊下、帰り道、自室にいたる全ての場所で誰かの視線を感じる。視線というよりも気配というべきなのかもしれないが、この重圧は誰かに見張られているように感じられた。


 最近では夢まで見る。黒い蝶に囲まれて、全身の血を吸われて死んでゆく自分。それを見つめる蝶と同じ黒い翅を背負った女。女は何か言いかけて口を開くが、それを遮るように遠くで声がする。「ケッカ」と。そこでいつも夢は終わる。女は笑っていた。女の最後の言葉を遮るように終わる悪夢は、まるで、聞いてはいけない呪いの言葉から無意識に自分を守っているようでもあった。千房の言い伝えを聞かされて、その中に育ったものだからこんな夢を見るのだろうとカンナは考えた。しかし、いつも最後に女の声を妨げる声は何なのだろう。たった一言、遠くで小さく聞こえるその声は、カンナの耳から離れなかった。何故か切なく響くその声は、幼女の声だった。あの声以外に「血華」と呼ばれたら、間違いなく激高しているだろう。だがあの夢の後に残るのは、切なさと悔しさ、そして何とも名状し難いわだかまりだった。腹立たしさは確かにあるが、それは相手にではなく、返事を返せない自分に対するものだった。「血華」と呼ばれた後、自分も声の主を呼び返したいのに、それが叶わなかった悔しさが、自分に対する腹立たしさになるのだ。


「呼び、たい……?」


カンナは奇妙なことに気付いて、思わず考えていたことを口にした。相手を呼ぶというのは、相手の名前を呼ぶということだ。これは自分が相手の名前を知っていることが前提となる。自分は声の主を知っているのか? カンナは自分に問いかけたが、その答えは見つからないまま、今日も学校に向かう。



 

 カンナが校門をくぐると、いつもその現象は起こっていた。校門から昇降口までの両脇に、プランターが鮮やかな花を乗せて並んでいる。無論そこには様々な虫が集まってきていた。しかし、カンナがそこを通ると一斉に花から虫たちが飛び立つのだ。まるでジョギングする人の足音に驚いて一斉に飛び立つ公園の鳩の群れのように。しかしカンナの周りにはその虫たちと入れ替わるように、一種類の蝶だけが集まる。黒い大きな四枚の翅を持つ、ナガサキアゲハである。この自分の後方で起こる現象に、カンナが気付くまでには時間が掛かった。カンナは視線の重圧を避けるために校舎内に駆け込んでいくのが常であったからである。しかし、この日は違った。


―――………。


カンナは思わず足を止めた。誰かの声が聞こえた気がしたのだ。それは無機質で冷たく、暗い声だ。カンナの胸の鼓動は早鐘を打ち、警鐘を鳴らした。その声が、夢の中で女が発する声だとカンナの中の何かが教えている。そしてカンナは振り返り、恐ろしいその光景を目の当たりにして小さく叫び、校舎内に逃げ込んだ。日中はまだ暑いといってももう秋が近いという中、カンナの全身からは汗が噴出し、蝉が耳元で鳴くような耳鳴りがした。頭の中では逃げなくては、逃げなくては、とただただ繰り返されるが、体は考えるより先に走り出していた。周囲がその異常行動に目を見張ったがカンナはそれに気付く余裕はなかった。

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