第33話「お前が裏切り者になっても」

「御家庭ではどうなんですか?」


担任が声をひそめるように言った。しかしその声音には、明らかに健司の父親としての資質を問うような響きがあった。


「祖父母や親類からは大分甘やかされています。私と話すときにも完全に人を見下しているようで、会話らしい会話ではないと思います」

「もう少しカンナ君と話し合う時間をとってみていただけませんか」


 健司は、担任の言葉を受け入れた旨を伝えると電話を切った。しかし恥ずかしいことに、健司は自分の子供にどう接したらいいか分からなかった。カンナは健司にカンナサマと呼ぶようにとまで要求しているのだ。ただそこだけはどうしても健司が譲らなかったため、カンナのほうが五月蝿く言わないだけである。しかし、触らぬ神に祟りなしとは、他人が感じるものは何と正鵠を射ているのだろう。だがまさか他人に息子はカンナサマだからあんなに我が儘で、捻くれているのは血華だからですと言えるわけもない。そもそも家庭で解決しようにも、健司以外の千房の者があくまでカンナをカンナサマとして扱う以上、父子でしか解決できないのだ。


 分かりきったことほど難しいのかもしれないと胸の内でぼやきつつ、健司は早速カンナに担任と話したことを包み隠さず全て伝えた。するとカンナは例の笑みを浮かべた。


「先生もクラスの皆も汚いところが良いんだよ、人間らしくて。だって、面白いだろ? 僕のことが気に食わないって奴に限って僕に構いたがるんだから。傷付くのはどうせ僕じゃなくてあいつらなのに、傷つけることで所有物化しようっての? 無様だね」


カンナはそう言って肩を大げさにすくめて見せた。滅多に日のあたる場所に出ないカンナの肌は皮膚の下から血管が青い筋となって浮き出て見えるほど白く、自分で切ったという髪は肩に掛かる。この一見女の子のような風貌では男子生徒が自分より弱そうだと見下すのは無理のないことであろう。


「絡んでくる奴はこの上ないね。じゃれ合う仔犬達って感じで、狭い世界で懸命に自己主張してる」


子犬というのは自分を苛めた少年たちのことであろう。今のように、まるでごみ箱にごみを捨てるようなこの口調でこの少年達にも教師達にも普段ものを言っているのだろう。だが、血管のように浮き出たわずかなカンナの感情は、そのセリフとは正反対だった。今、カンナの言ったことはすべて、カンナ自身のことを指しているのだ。今まさに、「狭い世界で自己主張しているのは誰だ?」と、自分も自嘲気味に思う。「傷つけることで」自分の父親を自分だけのものとして、占有したいのは自分ではないか。カンナは自分が嫌いだった。自分がいる世界が嫌いだった。本当に、なくなってしまえばいいと、本気で思ったほどだ。


「父さんだって、人間の汚い部分は嫌いじゃないさ。でもそれは、きれいな部分の裏返しだからだ」

「健司さんはそうやって、いつも僕を人間のカテゴリーに当てはめたいと思っているようだけど、僕は人間じゃないよ」


だって誰もが、僕を怯えた目で見ているじゃないか。まるで、僕が人間ではないように、触れてはいけないものみたいに。そう、カンナは言いたかった。


「父親に向かって、お前は何て口の利き方をするんだ」


健司は一歩も引かない。それだけの覚悟と約束をして、カンナを自分の息子として育てると決めたからだ。


「じゃ、オトーサン、僕は人間? 皆と一緒にいられる普通の人間?」

「もちろんだ。怪我も病気もしなくても、お前はただの人間でしかないんだぞ」


ふうん、と鼻を鳴らしたカンナは首のチェーンを手繰り寄せた。そして金の十字架に下唇を当てて「これでも?」と挑発的な笑みを浮かべながら、上目遣いに健司を睨んだ。それは艶やかながら危険と邪悪さを孕む笑みであった。


「オトーサンは皆と仲良くして欲しいんだよね? いいよ」


夕陽を背負ってベッドに腰掛けたカンナのこの言葉に、健司が思わず頬を緩めると、カンナは目を細めて小さく喉を鳴らした。


「その代わり、なしだ。ロザリオ付なら二度と学校には行かないよ」

「カンナ、分かっていると思うがそれだけは……」

「どうしたの、オトーサン? 僕が普通の子供だっていうのは嘘だったのかな? ロザリオなしで生活できない高校生、どこ探してもいやしないよ」


押し黙る健司をカンナはベッドの上で船漕ぎをするようにして体を揺らし、笑いながら見ていた。健司はこれまでのカンナの言動を見て、自分の非力さを痛感していた。

このカンナの笑みは不快であると同時に痛々しい。全てを見下すような態度もまたそうだ。どうして今まで気付かなかったのだろう。カンナは人を見下すとき、自分も見下している。そしてその時にいつも口元に浮かぶ嘲笑はカンナ自身に向いている。その繊細なカンナの心に、何故父親の自分が今まで気付かなかったのか。健司は自責の念とともに、カンナは矛盾した父親の論理に反発していたのだと気付いた。我が子を普通の子供として育てたいという健司が強いるロザリオ。それはファッションなど自発的なものでなく強制されてしまえば、カンナの言うとおり首輪でしかないのだろう。健司は知らず知らずのうちに自分自身がカンナにカンナサマであることを強いていたのだと悟った。しかしロザリオをしないまま長い時間を過ごせばどうなるのか。せっかく地獄蝶から解放された千房は、再び忌まわしい蝶の餌場になるのかもしれない。カンナはそれを承知で父親を試しているのだ。この父親は本当にカンナという個人の人権を尊重しているのか、それとも口先だけでカンナを守ると言いながら実際はカンナサマを守り、千房を守ろうとしているのか。健司は何度目かの覚悟を決めた。もう、この言葉をカンナにかけたら、自分も清美と同じ千房の裏切り者になる。それでもカンナには、かわいい自分の子供には、言ってやらなければならないと思った。健司は自分の心の変化に、胸の内で自嘲する。結局清美の方が正しかったのではないか、と。


「カンナ、お前が千房の裏切り者になっても、父さんはお前の味方なんだから、やれるだけ、お前の好きなようにやってみろよ」


けれど無理はするなよ、と健司はカンナの頭を撫でた。それが危険な行為だと分かっていても、カンナは「虫除け」を肌身離さず身に着ける生活に違和感を覚え、自分は本当にこれなしで生きていけないのかと自分を試す機会が欲しかったに違いない。カンナにとっては賭けだった。だから健司もカンナの可能性に賭けてみようと思ったのだ。


 しかし、カンナの普通の学校生活はそう長くは続かなかった。カンナがロザリオを持たなくなったからといって、カンナの自尊心の高さは生来の物だったし、今まで積み上げてきた確執が消えてなくなるわけでもない。ロザリオあるなしに関わらずカンナは相変わらず高校生活には馴染めず、そればかりか次第に蝶に過敏に反応するようになった。健司は何度もロザリオを着けたらどうかとカンナに言いそうになった。しかし、本人が気の済むところまでやらせてみない事には、振り出しに戻るだけだろうと、そこを必死にこらえた。カンナは血華ではあるが体力がないため、カンナ本人が限界を感じれば必然的に「お守り」に頼らなくてはならなくなることを健司は知っていたからである。

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