第14話「お伽噺のような話だ」

「十月 二十三日

今日、咲から赤ちゃん、私の赤ちゃんをもらった。すごく、しあわせ。とてもうれしいかった。私は、お母さん、赤ちゃんのお母さんになれる。いいお母さんになる。咲も早くうんだらいいのに。そーだ、ちゃんと咲にありがとうって言おう。おばさんはダメ、ダメ。あんなのはお母さんじゃない。子どもにイヤな思いをさせるのは、お母さん、しっかく。だから咲はその分いいお母さんになればいい」

 

 由美がおばさんと言っているのはおそらく自分たちの母親だろうと察した良広は、ダメな母親とはどういうことだろうと首を傾げた。何かまた母親とけんかでもして、家族のいないところで友人に愚痴でもこぼしたのだろうと、その愚痴の記録を探して日記帳を傾けると、最後のほうに何か硬い物が挟んであることに気づいた。ページの下のほうにずれ落ちてきたそれを引き抜いた良広は自分の目を疑った。何故この写真を由美が持っているのだ? 写真に写っているのはラブホテルから出てきた中年の男女の姿である。それはまさしく、もう良広が二度と目にすることはないと思っていた例の母親の不倫現場を激写した写真だった。驚きながらも「子どもにイヤな思いをさせる」の意味を理解し、咲がこの写真を知りながら家族には言わずに親友である由美に相談していたことを知った。確かに咲は手紙のやり取りをすることはなかっただろうし、郵便受けには興味がないようだったが、一番早く帰宅する咲がたまたま郵便受けの中身を見て例の封筒を見つけたとしても不思議ではない。そして、差出人不明の封筒を見つければ不審に思い中身を見ようとするのも当然のことのように思う。咲が何も言わずにいつも通りに家族と話していたため、良広は咲が母親の不倫に気づいていないとばかり思っていたが、それは勝手な思い込みだったのである。咲は家族の問題であるからこそ家族には相談することができず、親友の由美に打ち明けて、その結果由美がこの写真を預かっていたのである。良広は再び文字の乱れたページに戻り、さらに日記を読み進めることで、由美の入院に至るまでの生活を知ることができた。それは一人の人間が心身ともに「何か」に食い荒らされていく過程でもあった。


「じゅういち月 さん日

食べたいのに食べたくない。葉っぱは、口もおなかもチクチクしたりする。お肉は おいしい、おいしい。赤ちゃん、私の赤ちゃん、かわいい私の赤ちゃんのために、もっと食べる。でも、赤ちゃんは葉っぱキライだからおいしいくない。せーふく、ギュウギュウするけど、おなかは大きくならない。私はきれいなままのお母さんだから。キタナイお母さんとはチガウ。私はきれいなままのお母さん。からだがきれいなままお母さんになって、子ども産めるのは、しあわせ。だから、もっと、もっとみんなしあわせにしてあげよう。私の中に、もう一つ生きているものがあるというしあわせは、お母さんのしあわせだから、分けてあげる。みんな、みんなしあわせそうに、わらっていた。みんなみんな、お母さん。みんなみんな、赤ちゃんほしい。お母さんになったら、しああせそうな顔してるから分かる、お母さんだつて。あのひとも、このひともみんなお母さんだつて。みんな赤ちゃんだいすき。みんないい子たち」


「おなかは、おつきくならないけど、重たい。私のからだにイツパイイツパイ、きれーなもよう。てんてんの水玉に、お花がいつぱいさいている。なんて明るいところに私はいるんだろう。白いレースのカーテンが世界にはられたよう。ムダな音もみんな消えていく。そうだ、ムダものなんて、みんな消えてしまえばいい。この子いがい、なんにもいらない。赤ちゃん、赤ちゃん、私の赤ちゃんいがい、なにもいらない。あの人みたく。あのウルサイピーポーなる白いクルマにはこばれていた、あのお母さんみたく。どうして、まわりの人はみんな、ハツキョウって言つてへんな顔するんだろう? どうして、おめでとうつて、言つてあげないんだろう? お母さんはうれしくてうれしくて大はしやぎしているだけなのに、どうして、みんな顔を白くして見ているの? みんなのしていることが分からないから、お母さんがかわいそうに思えたから、私がおめでとうつていつてあげたんだ。そうしたらね、お母さんはわたしの目に目をむけてくれた。そう、わかるの。だってわたしたちはきれーなお母さんどうしだもの! だけど、もうお母さんにはきつともうわたしの顔は見えていない。だって、赤ちゃんに目、あげたから。赤ちゃん、赤ちゃん、赤ちゃん赤ちゃん赤ちゃん赤ちゃん。お母さんはあなたのために空をみた。空のうえ。もうすぐ白くていたいものがふつてくる。ああ、でも今は赤ちゃんのおかげでさむくない。なにもいらない。赤ちゃん、赤ちゃん赤ちゃん赤ちゃん、私の赤ちゃん、どうしてあのお母さんが先なの? 早く生まれてきて、私の赤ちゃん。やっぱり、葉っぱとかダメなの? だから私の赤ちゃんは生まれるのがおそいの?そんなのヤダ!ヤダヤダヤダヤダ。ダメなお母さんはヤダ! 私がもつとちゃんと育てて産んでいかなくちゃダメだ。あのお母さんは一人だから赤ちゃんのキライなものはたべなくてもよかつた。だから、はやく産んであげれた。私も、産んであげる。赤ちゃん、大スキ」


「いち に つき ご ひ

空からしろいもの、きた。あしたわ、てんき。ずーとてんきだから、そーゆーひに 赤ちゃん、産みたい。アーーーー、おなか、火がついてるみたい。生まれる、生ま れる生まれる、もうすこしで、赤ちゃん生まれる。ベンキヨーはもうすぐなくな  る。みんな楽しそー。みんなしあーせそーで、たのしそー。わたしも、きもち   いー。赤ちゃんのおかげ。赤ちゃんがいる人にしかわからない。赤ちゃんがいる人 だけのしあーせ。だから、だれも、ジャマするな。わたしたちの赤ちゃんをとらな いで。ビョーキつて、なに? ビョーキ? 赤ちゃんわ、ビヨーキ? ヤダ、ヤ  ダ、ヤダ ヤダヤダ、ヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダ…! だって、チガ ウ。チガウ、チガウ、チガウチガウチガウチガウチガウチガウ。そんなふーに、  ゆーな。みんなキタナイから、わからない。赤ちゃんがビヨーキゆーのはキタナ  イからだ。お母さんと赤ちゃんわ、あたたかくむかえられるべき」


「いち ふ なな

ベンキヨーもーない。赤ちゃん、わたしの赤ちゃんが生まれてくるためだけのジカンがやつときた。わたしのからだわ、赤ちゃんのもの。なんてキレーなんでしよう?アカイはなが、いつぱいいつぱいさいている。ああ、わたしの中に、わたしの赤ちゃんがどんどんふくらんでいく。赤ちゃんが、わたしの赤ちゃんがわたしのからだにひびく。なんて、かわいくて、いとおしいんだろう。だきしめて、ほおずりして、キスしてあげよう。だから、赤ちゃん、生まれておいで。お母さんのところにはやく生まれておいで。赤ちゃん、赤ちゃん、わたしの赤ちゃん。

ああ、そーだ、わたしの赤ちゃん、こたえて。さきはまだなの?さきわ、みんなに赤ちゃんをわけてあげた、みんなのお母さんなのに。どうしてさきの赤ちゃんは生まれないの? さきわ、いちばんさいしよに、みんなをしあーせにしてくれたのに。もうすぐ、わたしのわかてあげた赤ちゃんたちもうまれるころなのに」


「とーと、ふと、とーとひとつ。

みんな、どーして、うるさい? おんなのひと、しんだつて。そればつかり。ビ  ヨーキビョーキうるさい! ビヨーキじやない、ビヨーキじやない、ビヨーキじや ないビヨーキじやない。ビヨーキつていうな! あのお母さん、わたし、まえにあ つたひとだ。スズキアサミ? スズキアサミお母さん、おめでとう。なにもなくて 生まれてきてよかった。シロイもののなかに、とじこめられて、お母さんも赤ちゃ んもかわいそう。赤ちゃんになにかされたら、いきていけない。この子がしんだ  ら、わたしもしぬ。赤ちゃん、わたしのたいせつな赤ちゃん。赤ちゃんにさわるや つわ、みんなキライだ。この子わ、わたしのもので、わたしわ、この子のものだか ら。もうすこし、もうすこしで生まれる。おなか、もえている。なにもわからな  い。きこえない、みえない、さむくない、においもない、くるしくない。わたしが ゼンブ赤ちゃんのものになっていく。さあ、そとにでておいで。ほかのだれでもな い、わたしが生むんだこんどこそ。わたしわ、お母さん。赤ちゃんのお母さん。こ の子わ、わたしの赤ちゃん。赤ちゃん、赤ちゃん赤ちゃん、赤ちゃん赤ちゃん赤  ちゃん赤ちゃん赤ちゃん赤ちゃん赤ちゃん」


 良広は日記帳を静かに閉じ、背もたれに背中を預けた。「赤ちゃん」への執着振りに、背骨が氷と入れ替わったかのような冷たさを感じずにはいられない。翌日のページからは当時の由美の自我のように白紙が続くばかりであった。最後の日記を書いた翌々日に、由美は発病している。書かなかったのではなく、書けなかったのだ。まるで殴り書きしているように、ページをめくるたびに乱れていく文字が良広を憂鬱にさせた。この日記から推測される奇病患者は、生命の危機に関してあまりにも無防備である。しかも自分の命を脅かすものに母性愛を感じ、それに対して自分を捧げることに喜びを感じているようだ。しかも、咲は由美に奇病の根源と思われる「子供」を奇病が流行する以前に与え、由美を「妊娠」させている。そして由美もまた、多くの女性達に「子供」を分け与えている。これはどういうことなのか理解し難いが、鼠算式に一人の奇病患者から多数の奇病患者に「伝染」していったならば、学校や会社などは奇病の温床となっていたことだろう。ここの最後の方にある「幸せそうな顔をしているからお母さんだと分る」という内容から、奇病患者同士では誰が奇病なのか一目瞭然ということが察せられる。もし、この解釈が正しいなら、一人に対して一人の「子供」しか宿ることはないということになる。さらに、由美の言うとおりなら咲は奇病の「イブ」。つまり始まりの母なのである。

 

 良広は自分自身がいつか「当てにならない」と言ったとおり、この異常な現状に正常な普段どおりの思考で挑むこと自体当てにならない気がしてならなくなった。女が女を「妊娠」させ、「出産」させるという性秩序が崩壊した世界が由美の日記の中には生々しく存在しているのだから。例え他の人から白い目で見られようとも、自分の中にある常識の枠を超えて奇病に向かわなければ、咲の抱える問題に向き合うことすらできないのだ。そう良広は自分に言い聞かせ、唇をかみ締めた。

 

 窓を開ければ、桜の花びらのような白いものと共に寒風が吹き込む。そのとたん、暖かくなった部屋の空気が冷え、熱った良広の肌の上の雪はたちまちに溶けて水となる。良広は長い間そうして寒風に身を晒したままたたずんでいた。すると白いものに混じって、雪よりも大きな黒い翅が窓の外を横切った。良広はその黒いものを目で追ったが、もうどこにもその姿はなかった。ただ小雪が舞うだけである。

 

 良広は父親のいるダイニングへと下りていった。

 

 家は、まるで静寂と言うベールにすっぽりと包まれたかのように、静かだった。階段を踏みしめる足の力の入れ方一つで、ギシギシと大きく音を立てた。

 

 いつになく真剣な表情の息子が自分に向かい合って座ったことで、父親は新聞をたたんで居直った。時計の針の音が、やけに近くに感じる。


「何か、用か?」


父親の目線を、良広の目線が捕らえた。時計の音を数えるように間を開けた良広は、つばを飲み込んで、声が震えないように言った。


「父さん、咲は奇病だよ」


父親の表情が一瞬凍りついたようだったが、すぐに平常を取り戻した。その反応はまるで、良広からのこの告白を覚悟していたかのようだった。そんな父親の様子を見て安心した良広は、由美が死んだ日自分が何をしていたのか正直に全て話した。そして、由美の最後の言葉を告げたのだった。父親はしばらくの沈黙の後、「この大馬鹿者!」と一喝した。


「浅はかなことをして、原田さんご夫婦に顔向けできたもんじゃない」


烈火の如くの父親の怒気に肩を落とす良広の前から父親は一度姿を消した。

 

 良広は父親が怒りのために、自分の顔を見たくなくなったのだと思った。しかし、しばらくして父親は、一通の封筒を手に戻ってきた。思わず封筒の差出人に目をやるが、どうやら良広の杞憂に終わったらしく差出人は明記されているようだった。


「本当に原田さんにどうお詫びしたらいいか分からないが、由美ちゃんがそう言い残したならその願いを叶えてやらないとな」


それが一番の罪滅ぼしだと言う父親は、厳しい顔のまま手にしていた封筒を良広の目の前に差し出した。まるで、本当は出したくなかった切り札を、相手に見せるような父親の表情に、良広は一抹の不安を覚えた。この封筒は、パンドラの箱ではないか。そう思わせる雰囲気を、事務的なその封筒は持っていた。しかしもう厄災ならばとっくに飛び出している。残った希望にかけるしか、父親にはなかった。

 

 差出人の名前には千房健司ちよふさけんじとある。

 千房は母方の苗字だと記憶していたが、良広にとって郵便物でこの千房の文字を目にするのは初めてのことだった。千房健司とは確か母親の兄、つまりは自分の伯父に当たる人だった。良広にとってもうずいぶん昔のことになるので名前は思い出せても顔は思い出せなかった。


「いいか良広、今から話すことは御伽噺のような話だ。信じろとは言わないが、とりあえず聞いてくれ」


良広はただ無言のまま頷いた。父親は千房の文字を指差した。


「千房の千はチヨでなくてチ、つまりは血からきている。そして房は芳と昔は書いていて、芳しいという意味だが読みはハナ。つまりは華から由来しているそうだ」


父親は電話帳の横から三色ボールペンを持って来て、赤いインクで封筒の余白に「血華」と書いた。良広には赤い字が、こんなにも生々しく感じられたのは初めてだった。


「ケッカと読む。千房とはあの世の者と血で契約を結ぶことができる血華の一族。そして咲は血華の一族の

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る