チハナとケッカ

第15話「ヤクソク、です」

 血華けっかとは、文字通り血の華のことである。地獄に落ちた人々の魂が流した血から生えた華だから血華。魂が流す血と言うのは、よく地獄絵図の中に描かれているものを想像してもらってかまわない。あの絵の中に描かれている罪人たちの体は、この世ではもう既に消滅しているにも拘らずあの世で生前と同じように体を持ち、罰を受けているではないか。魂と言えども、血は流れるのである。形のない心が傷ついたり砕けたりするように。

 

 そして現世で水辺に花が咲くように、血にも花が咲くのである。

 

 血に咲く花があるから、地獄にいつの間にか現れた蝶は、その花が与える血を求めて集う。不気味に流れる川のゆっくりとした音に、人々の悲鳴があちこちから絶えず聞こえてくる。そこに骨の折れる音、血しぶきの音が混じる。何かが腐ったような臭いと、汚物を混ぜたような臭いが充満し、風はない。それなのに細かい塵芥が宙を舞い、視界は非常に悪い。しかし罪人たちは獄卒の姿、それによって殺されていく人々の姿を明瞭に見ることができた。

 

―――がああぁぁあぁ、がああぁぁぁっ。


 この声は、地獄にいて罪人をつつき殺しながら食べると言われる鳥だろうか。それとも、罪人の断末魔だっただろうか。地獄ではそんなことすら曖昧で、だれも興味を持つことはないただの日常だった。

 

 地獄の蝶は直接罪人の処罰に関わらず、花から生きるために必要な血を貰い放題貰い、花を枯れさせてしまう。一度食欲大盛な蝶に血を吸われた血華はひとたまりもない。血を吸われ尽くしたその血華は、すぐに水分を奪われからからに乾いて、たちどころに枯れて土に倒れると、消滅してしまう。この恩を仇で返すような花の大量消費が許されるのは、そこが絶えず血が流れ続ける地獄だからであろう。

 

 毎日何度も、地獄に落ちた人々は阿鼻叫喚の中で大量の血を流し続けている。もう死んでいるのだから流す血の量に制限があるわけでもなく、八つ裂きにされたかと思えば首をはねられ、血華の種となる血を大量に流し続け、そこからまた次々と血の色をした花が咲き誇っていくのである。

 

 今、一輪の芳しい花の香りに誘われて一匹の蝶が舞い降りた。黒い大きな四枚の翅を持つこの蝶が真っ赤な花に羽を休めると、あたかも花に髪飾りを付けたように見えた。蝶はこの世の蝶がするように手馴れた様子で花弁と花弁の間をこじ開けて、そこに口を突き立てる。すると花弁はすぐに萎びて茎は折れ、まるで切花を時間を縮めて見たような速さで花はみずみずしさを失って荒野に伏したかと思うと、霧のように消えてしまった。いつもなら、蝶はすぐに新たな血華を求めて飛び立つはずであったが、この蝶は今自分が枯れさせてしまった花が咲いていた所から、立ち去ろうとはしなかった。


 ―――何と美味なる血を流す魂か。


 蝶は辺り一面に咲き乱れる血華の群生地に目をやることもなく、この血華を咲かせた血を流した魂魄を探した。地獄に落ちた数多くの罪人たちの魂の中からたった一つの魂を見つけ出すのは容易ではない。何せ、何重にも広がる広大な地獄の中をその魂たちは常にさ迷い歩いているのだから。

 

 しかし、この蝶は血華の香りのおかげですぐにお目当ての魂に巡り合うことができた。蝶は八つ裂きにされた一人の青年に目を留めた。まだ若い男であったが、賽の河原でなくこちらに来ているということは、この青年が幼くして両親と死に別れていることを意味していた。ばらばらになった青年の体は、この蝶が青年の血を啜っている間に見る見るうちにくっ付いてもとの体に戻っていった。しかし体が元に戻ったその瞬間にはもう、どこからともなく現れる獄卒たちに引きずられていくのだった。ここではただひたすらに、苦しみを与えられるためだけに人々は生き返り、生前の罪を悔いながらこの上ない苦痛を与えられながら再び殺される。一日に数え切れないくらい殺されるにもかかわらず、地獄に落ちた罪人たちは死の恐怖に麻痺することもなく、あまりの痛みに気絶することも出来ずに、毎日を過ごす。生前の罪の重さによって受ける苦しみも違えば地獄にいる期間も違う。蝶は裸木に逆さに吊るされ、鳥にそのまま啄ばまれる青年の咲かせる血華を平らげながら青年の様子を不思議そうに見つめていた。痩せこけた汚らしい体に乱れた髪。これほどまでに汚いものの中にこんなにも美味しいものが何故あるのか。蝶がそんなことを考えながら呑気に食事をしている間に、青年は何百回目かの死を迎えた。今度は骨しか残らなかった。それでもその骨は木から落ちたとたんに青年の姿に戻った。青年が目を開くと、一匹の大きな蝶が舞っているのが目に入った。今までここに来てから見てきたものは醜悪さと残忍さを持ったものばかりだったせいか、あたかも自分のことを気遣うように傍らで優雅に舞うその蝶は青年にとって天女の舞いに等しく映った。


「貴女は御仏の使いでしょうか?」


そう呟いた青年は、蝶に向かって何度もお救い下さいと手を合わせていたが青年が生きていると気付いた獄卒に連れられて次の刑場へと赴いた。蝶はそんな青年の後を追ってはこの青年の血華を独り占めにし、これをこの上ない喜びとしていた。蝶がまさか自分の血を飲みに来ているなどと夢にも思わない青年は、自分が目覚めるたびに傍らにいる蝶を可憐しく思った。


 蝶はこの青年の血に魅せられていた。しいては、その血を流す青年の魂に魅せられていた。そしてこの貪欲な蝶は、出来ることなら永遠にこの血を独り占めにして味わいたいと思った。


 男の首は涙をこぼしながら声を絞り出した。


「痛くて苦しい。熱くて寒い。臭くて汚い。寂しくて悲しい。もう嫌だ、助けてく れ! 親が死んだが弔ってやれなかった。それは俺がちいさかったせいだ。しかし生活が苦しくて自分で死んだら人殺しの罪に問われたのは何故だ? やっと楽になれると思ったのに、どうしてこんなに辛いのだ?」


最後に「お国に帰りたい」と懇願した青年の首を大岩のような鬼が拾い上げると、ゴミ袋を引きずるようにして持っていた青年の体に付けた。その様子は巨大な体とは裏腹に、子供が鞠を拾い上げる仕草に似ていた。蝶は、首だけになった青年に囁いた。その声はまさに菩薩が如き美しい女性の声をしていた。


「タスケ、ましようか?」

「本当か?」

「でも、そのカワリに血をちようだい。ヤクソク、です」

「血判、か。良いだろう。もし、本当に現世に戻れたあかつきにはそんなもの、いくらでもくれてやる」


 これが、始まりであった。


 無論、蝶には地獄から人を救う力などありはしなかった。ただこの青年の罪状と徐々に咲かせる血華の数が減ってきたことにより、蝶はこの青年がもうすぐ転生のときを迎えることを知っていたに過ぎない。

 そんなこととは露知らず、約束どおりに青年の魂は蝶を連れたまま新しい命として現世に再び生を受けたのだった。

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