第13話「本当にカンナサマだったんだわ」

 良広は自宅の明かりが消えていることを願ったが、そんなささやかな願いは聞き届けられず、玄関の鍵もまだ開いたままになっていた。両親が帰りの遅い自分を心配して寝ずに待っていることは予想がついていたが、良広はまだ、自分が今日何をし、何を見てきたのかをどう話せばいいか分からないままであった。何より、ついさっきまでどう両親に説明するか考えていたはずが、玄関の温かな光に包まれた瞬間頭の中が真っ白になり、奇病のことなどは夢の中のことのように感じられた。


「ただいま」


残業帰りの父親のように玄関に腰を下ろして靴を脱いでいると、背中に足音が聞こえた。靴を脱ごうにもなぜか上手く靴が足からはがれず、かじかんだ指先も上手く力が入らなかった。


「良広、遅かったようだけど何かあったの?」

「別に何もないよ」


白々しいということは百も承知で、顔をあげないまま答えた。母親と顔を合わせるのが辛く、いつもならもどかしく思っていたであろうかじかんだ手が有難かった。一方母親も自分と目を合わせることを避けるようにしてうつむいたままの良広を、具合が悪いからそうしているのだと解釈したようで、それ以上何も言わなかった。


「今日はもう寝るから」

「無理しないでよ」

「うん」


喉の奥まで出かかった「由美ちゃん死んだんだ」という台詞を、良広は最後の最後まで言うことができなかった。死なせた、という罪悪感があるだけに、死んだ、と一言で終わらせるのが忍びなかったのである。今自分が言わなくとも、明日には由美の死は周知のこととなるだろう。そうなれば、薄墨で書いた熨斗袋を持って由美の両親に会いに行かなければならなくなる。良広は葬儀の日に由美の両親に今日のことを話そうと心に決めて布団の中に潜り込んだ。たとえ人殺しと罵られたとしても最期の由美の言葉を伝えればきっと分かってもらえると信じ、良広は瞳を閉じた。


「良広はどうした?」

「顔色が悪かったから寝せたわ。良かった?」


父親は残念そうに「仕方ない」と呟き、茶封筒をテーブルの上に出した。条件反射的に母親は表情を固くしたが、この封筒には差出人が明記されている。しかし、母親は差出人の名前を見てさらに表情を強張らせた。差出人は母親の実家である。ただ、消印は長崎ではなく北海道になっていた。


「カンナサマの保身のため北へ逃げた、とある」


母親は青ざめ、口を手で覆った。


「じゃあ、やっぱり最近の奇病は――」

「まだ信じられないがな、そんな迷信は」


母親は震える指先で封筒の中から紙を引き出した。開けば母親の兄の毛筆の、妙に角の尖った字が書き連ねてあった。達筆な字だが、まるで字そのものが棘を持ち他人を拒んでいるようだと清美は思う。久しぶりに見るその字を目で追うたびに、過去の怒りを思い出し、母親は体が熱くなるのを感じた。




『今、私達は北海道におります。息子が蝶のいないところへ行きたいと言い出したのは、奇病が流行る少し前からでした。咲ちゃんが心配なのも分かりますが、息子は 昨年事故に遭い、助ける術はありません。』



 

ただそれだけの短い文だった。


「そんな」


たったそれだけの文に、母親は小さな悲鳴のような声を漏らすと、眉間に皺を寄せて目を伏せた。


「少し説明してくれないか。話が飛躍しすぎていて、よく分からないんだが」


母親は頷いた。


「兄さんの息子、本当に迷信通りのカンナサマだったんだわ。だから蝶に血を要求される前に逃げたのよ。蝶が少ない所へ」


我が儘なカンナサマだと母親は吐き捨てるように言った。

 

 カンナサマとは、千房の先祖の一人である「かんな」という女性を半ば神格化した呼び方である。言い伝えでは、「かんな」は千房を蝶の呪縛から開放した英雄であると同時に蝶との契約を犯した蝶にとっての裏切り者だとされている。ここでいう蝶とは、千房にたまに生まれてくるとされる「血華」と契約する地獄にいる蝶のことである。血華はこの蝶と契約することで天寿を全うするまでは怪我とも病気とも無縁の体となるが、その長い一生を蝶に縛られる。この蝶の呪縛から一族を救ったのが「かんな」というわけである。この「かんな」の生まれ変わりをカンナサマと呼ぶのだ。


「それで、咲を助ける方法がないってどういうことだ?」

「きっと……、事故で輸血したのよ」

「他人の血が入ると駄目になるのか? その、契約というのは」

「知らない。知らないわ……、そんなこと……」


千房出身の母親にも、その言い伝えがどこまで真実なのかはわからなかった。細々と口伝されてきたものだというから、おそらく脚色されたり省略されたりした部分もあるだろう。だが、言い伝えと手紙の文脈から推測されることは父親の言う通りで、しかも、裏を返せばもしカンナサマが輸血しなければ、奇病患者を救えたということである。


「でも、妙じゃないか? カンナサマは血華だから怪我とも病気とも無縁なんだろう? 。何かおかしくないか?」

「貴方がカンナサマを刺した時は、きっと兄さんがいかさましたのよ。血華の迷信が事実であろうとなかろうと、兄さん達は奇病に関わりたくないってことのようね。 自分達だけ逃げて、他人が死ぬのを見てるのよ!」


母親はテーブルに手紙を叩きつけて、足早に立ち去った。

 

 この手紙の内容が偽りでないかと怪しんだ父親は、過去に長崎で起きた事故を調べたが、千房という苗字が絡んだ事故のニュースはなかった。念のため、長崎にいる学生時代の友人に問い合わせをしてみもしたが、カンナサマが絡んだとみられる事故も事件も起きてはいないようであった。


◆ ◆ ◆


 由美の葬儀は良広の予想よりはるかに遅れて行われた。由美が死んだあの日一日で、全国で十人近くの女性たちの命が失われた。奇病で死亡した女性たちの中で、最後に自我を取り戻し、人間だったと分かるような死体となった唯一のケースが原田由美だった。そのため、由美の死亡したときの状況について詳しく調べられたらしいが、あの人の良さそうな医師は、良広が現場にいたことを一切外に漏らさなかった。それが病院側の保身のためか、医師の保身のためかは分からなかったが、良広としては有り難いことだった。

 

 良広が葬儀に出かけようしていると、咲が一緒に行きたいと言い出したのだ。大丈夫なのかと聞けば、親友だから、と何とも心強い言葉が返ってくる。奇病患者は同じく奇病患者の死に直面すると一様に喜ぶという。自分の娘の死を悼んでもらえないどころか喜ばれる家族の気持ちは名状し難い。これが良広の感じた人としての死の剥奪に通じるのは言うまでもないが、由美には悲しんでくれる親友の姿があるのだから、他の奇病患者よりは救われるのではないだろうか。そして由美が救われることは良広の救いとなった。

 

 線香の香りが充満する原田家に制服姿で手には数珠を携えてやってきた咲が、大粒の涙を幾度となくこぼしながら由美の遺影を拝む姿は集まった者の涙を誘った。特に由美の両親は咲に何度も礼を言って頭を下げた。奇病で死んだ者はその友人の多くも病に犯されているため、友人には弔ってもらえないというのが一般的な今、親友である咲に弔ってもらうことのできた由美は本当に幸せだったと、由美の母親は泣きっぱなしの咲を抱きしめた。そんな由美の母親も咲と同じように幾度となくハンカチで目尻を押さえていた。咲のこんな姿も手伝って、良広は由美の日記を譲り受けることが出来た。


◆ ◆ ◆

 

 いかにも女の子が好きそうなかわいらしい仔犬のキャラクターの日記帳を捲っていくと、由美の丁寧な文字が急に崩れたページに出くわした。前半部分は習字のお手本のように美しい文字が羅列されているのに対して、後半の、つまりは最近の部分は字が大きく汚くなり小学生が書いた文字のようである。このミミズの這ったような文字の始まりは、十月二十三日の記述からだった。この日を境に、ほぼ毎日つけられていた日記が飛び石となり、日付が分からないものも多かった。罫線を無視したその乱れた文章の始まりは、「咲に子供を貰った」という内容だった。


暖房の効いた部屋で、良広は背筋が凍るのを感じた。

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