第12話「救っ、て」

 翌日、医師の意に反して良広の姿は産婦人科の前にあった。もう日が暮れ、同じ階にある眼科や耳鼻科は明かりが消えている。腰の曲がった清掃員がごみを集めに来て以来、人影はなくなった。淡い色調の長椅子は、暗がりの中そこだけ光に照らされると物悲しい雰囲気があった。猫背気味の男が、一人でずっとそんな長いすの真ん中で微動だにせずに手を組んだまま座っていればなお更である。萎びた白衣を着たまま医師が診察室の鍵をかけるのを目にした良広は立ち上がり、昨日よりも深く頭を下げた。


「大森さん……」


いかにも意外そうに医師は目を見開いて足を止め、壁掛け時計を仰ぎ見ると、原田さんのところだけ回りますが、貴方はあくまで面会ですからね、と念を押した。良広は肯定の代わりに礼を言い、二人はエレベーターに乗った。医師は隣にいる大森良広という男を横目で見やって小さく唸った。あの患者の最期を目にした看護師も医師である自分も、決して涼しい顔をしてはいられなかった。いくら平然を装ったとしても、心中穏やかでいられようはずもない。にもかかわらずこの男は、何事もなかったように平然としているのだ。単なる変わり者か、無神経なのか、少なくとも尋常ではない。この男が放つ不気味さは、どこか奇病に似ていると医師は思った。

 

 エレベーターのドアが開くと、そこには深い闇が広がっていた。医師は鞄と一緒に持っていた懐中電灯を点け、足元を照らしながら歩を進めた。


「まだ消灯の時間じゃないですよね」

「ええ。ここはいつもこうですよ。暗いほうが奇病患者の奇声が落ち着くようです」


これはこの医師の判断だった。奇病患者は他の患者と違って話すことも出来なければ、データもない。ただ、体力的に弱っている患者が大声で奇声を上げ続ければ体に負担がかかることは火を見るより明らかである。


 医師のいうとおり、この辺りの病室からは一切光は漏れていない。暗闇の中に浮かぶのは、緑色の弱々しい光を放っている非常口を示す看板だけだ。テレビやラジオもないというのに、二人の足音以外の音が響いているこの空間はまさしく異常である。小さく、時には大きく、ドアの隙間から漏れているのは女性たちの笑い声だった。


「患者たちは、寝てないんですか」

「寝ていますよ。寝ながら人の気配がすると一斉にこうして笑うんです」


幾重にも重なって闇の中に響く嬉々とした笑い声は、不気味でもあり、馬鹿にされているような腹立たしさもあった。奇病患者の病室は街灯の光が入らないように遮光カーテンが使われているらしく、視力の良い良広も暗さに慣れるまで時間がかかった。その闇のせいか、両脇から聞こえる笑い声が廊下中で渦を巻いているかのようであった。

 

 やがて輪郭のかすんだ黄色の光の円が、床から壁を伝った。ドアの横のプレートには原田由美の他に三人の名前が記されている。医師は白衣のポケットから鍵の束を出し、その中の一本を鍵穴に差し込んでゆっくりと回した。鍵の外れる小さな音がしたかと思うと、先ほどまで響いていた笑い声がぴたりと止んだ。渦巻く笑い声がなくなると、そこにあるのは静寂である。思わず辺りを見回した良広を尻目に、医師は「原田さん面会です」と声をかけるとスライド式のドアを開けた。暗がりの中、静かに眠る患者たちの姿は良広が知っている病室と少しも変わらない。だが電気のスイッチが入り、その瞬間目が眩んだ良広は次の瞬間には自分の目を疑っていた。人の形はしているものの、人の肌の色を失った女性たちが点滴で繋がれ、横たわっている。

 

 彼女達の目は開ききらずに虚ろで、どこを見ているのか分からない。蛍光灯の光を嫌がる割には布団を頭から被るわけでもなく、手で目をかばうわけでもなかった。どの女性の目元にも深い隈が刻まれ、髪の毛には白髪が見える。


「原田さん、大森良広さんが面会に来てくれましたよ」


医師は奥のベッドに寝ている少女の肩をたたきながら声をかける。耳元で大きくゆっくりと語りかけられるその姿は老人そのものである。由美は非常にゆっくりとした動きで頭を回らす。虚ろな由美の目は立ち尽くす良広の姿を捉えたようだったが、視線が合うといった感覚は全く得られなかった。


「お兄、さん」


ひび割れた唇から発するのは、小さくかすれているが紛れもなく由美の声だった。良広は医師を押し退けるようにして由美のベッドの脇に跪いた。


「由美ちゃん、一体何があったんだよ?」


先ほどの医師を真似て耳元で語りかけると、良広の声に反応したように由美の瞼がわずかに痙攣した。しかしそんな瞼の奥に見える瞳は白内障にでも罹っているかのように濁り、ほとんど視力を失っているせいか焦点は定まるところを知らない。由美は何かを言いたいらしく唇がわずかに動き、喉がひゅうひゅうと空気の通る音を立てるが声にはならない。良広は思わず由美の点滴の刺してある手を握ったが、生きている人間の手とは思えないほどに冷たく、あの不気味な赤茶色のシミは爪の中にまで及んでいた。手だけを握ったなら、死人の手を握っていると錯覚しただろうと良広は思う。節張ってかさかさに乾いた由美の手を両手で握り締め、良広は由美の答えを聞き逃すまいとじっと待った。一方の由美の方もまた、消えていく自我の中でこれだけは伝えなければと思うが声が出ない。しかも由美のこのわずかな自我を根絶やしにしようと、子宮の中の「子供」が再び母性と性的快楽に由美を引きずり込もうとしていた。だが、由美も必死だった。もしも良広が目の前に現れてくれなければ、こうして風前の灯となっていた自我が蘇る事もなかっただろう。由美は、最期に良広の顔を見ることができて幸せだった。だからこそ、こうして会いに来てくれた良広に伝えたいと思ったのだ。


「お、兄、さん」


やっと声を発した由美の息は次第に荒くなっていった。しかし、由美の瞳の奥にはわずかに揺れる光が生まれていた。


「部屋の、机の奥に、日記があるから、それで――」


相変わらずの声の小ささに、良広は耳を由美の口元に近付けた。由美の荒くなった息が、良広の耳の中まで入るほどであった。良広が聴覚に神経を集中させた、まさにその時だった。

 

 由美の目が突然大きく見開かれ、口からは呻き声が漏れた。あれほど生気の抜けた体のどこに、これほどの力が残っていたのかと思うほどの力で由美の手は良広の手を払いのけ、胸を掻き毟った。刺していた点滴チューブは縄跳びの縄のように激しく揺れた。医師は反対側からその手を押さえようとするが、その手をも払いのけ、由美の体は大きく仰け反った。医師がとっさにナースコールボタンを押したとき、由美の呻き声は叫び声となってこだました。何かを引き裂いたような悲痛な叫びだった。その叫び声の後は、一声だけだった。


「救っ、て」


良広の耳に届くか届かないかのその言葉が、由美の最期だった。白菜を真っ二つに割ったようなくぐもった小さな音が由美の腹の辺りからしたかと思うと、それっきり、由美の体が動くことはなかった。片手で点滴のスタンドを押さえ、もう片方で由美の肩を抑えていた医師も肩を落として腕時計に目をやった。看護師が駆け付けたのは、それから間もなくの事だった。医師はその看護師達に「遅い!」と怒鳴ったようであり、死亡時刻も告げたのであろうが、良広の耳には届かなかった。


「由美、ちゃん?」


良広は震えながら由美の首筋に触れた。脈はない。医師が傍らで点滴の針を抜いている。由美の体は医師達と良広の見守る中、ゆっくりと腐敗していった。否、「ゆっくり」という言葉は適切ではないだろう。目に見える速さで腐り、十分も経たないうちに部屋を死臭で満たしているのだから。昨日目にした女性や他の奇病患者のように、倒れた瞬間に「死んでいる」を通り越し、「腐っている」という奇病特有の死に方に比べれば腐敗速度が遅いというだけなのだ。

 

 この腐敗臭に満ちた部屋の中で、他の三人の患者は笑っていた。三人はいずれも蛍光灯の光に耐え切れずに布団の中に頭まで潜り込んでいたが、由美の死を喜ぶように、笑い始めたのである。もし彼女たちが由美の死を笑うのだとしたら、どうやって彼女たちは布団の中でそれを知ったのだろう。音だろうか、それとも臭いだろうか。もしくは何者かが彼女達にそれを告げたのだろうか。

 

 由美の死体は腐ってはいるものの、まだ人間の形をしていた。そのためか由美の死体を見つめる医師の表情には、奇病で死んでいった他の奇病患者に対する憐れみが見て取れた。せめて、原田由美のように故人を偲べる形で遺族に連絡できたなら、と。良広も、今死んだとは思えない由美の顔を見つめていた。まだ良広はこの状況をよく理解できていなかったが、その胸の内に込み上げてくるものは罪悪感だった。由美は自分のせいで死んだのではないか。由美に無理にものを言わせてしまったから、由美は死んだのではないか。例えどんなに悲惨な最期が待ち受けていたのだとしても、自分が無理をさせなければ由美はまだ生きていたのかもしれない。そう、良広は思った。

 

 自分の妹を救いたいあまりに、妹の親友であり、自分を兄のように慕っていた少女の命を奪ったという実感が、由美の死の実感よりも大きかった。良広はその場に崩れた。そしてそのまま土下座でもするようにして、由美に心から詫びていた。少女たちの笑い声は、愚かな自分に向けられているのだと心のどこかで感じつつ、良広は緑色のわずかな明かりを頼りにトイレへと向かった。

 

 便器に間に合わず、手洗い場で胃の中の物を吐き戻した良広は、ようやくこの奇病の恐ろしさと由美の死を理解した。そして、今までの自分がいかに異常だったのかを悟った。そこだけ淡い光に照らされて、唯一の安全地帯のように感じられる手洗い場で、良広は一人、歯を食いしばって立ちすくんだ。激しく流れる水の音が安堵感を与えたかと思うと、良広は壁伝いにうずくまった。しばらくすると、かすかに嗚咽が漏れ始めた。勢いよく流れる水の音が、その嗚咽をかき消していった。この手洗い場から一歩でも足を踏み出せば、死臭と狂笑をはらんだ闇があることを良広は心のそこから恐れていた。そんな中を歩いていて、多少なりとも気分が高揚していた自分を良広は憎んだ。この奇病が奇病たる所以は、単に原因不明、前代未聞ということだけではない。全てを壊して、奪っていくから奇病なのである。患者の心身だけでなくその周りの人間も、形のない「死」ですらも、この病気は破壊し、そして奪った。死んだ瞬間、それは人間としての死ではなくなる。即ち、この奇病で命を落とす者は全て、永遠に人間としての死を迎えられないままこの世からいなくなるのである。その恐ろしさを、良広はその身に感じて震えた。そして、昨日の女性の異常な死が脳裏に思い出されると、耐え難い腐敗臭や倒れたときの音、カラスの群れや人とは思えない遺体の情景が五感に甦り、頭の中を甦った映像と音が駆け巡り吐き気に襲われ続けるのだった。もう胃の中にはなにも残っていないらしく、良広の舌に残るのは酸味を通り過ぎた苦味である。

 

 それでも良広は前に進まなければならなかった。悪寒と絶え間ない吐き気に苦しみながらも、良広は自分のすべきことを考えていた。由美の両親に由美の日記のことを打診しなくてはならない。何と言えば譲ってもらえるのか。自分の家族にも話さなければならないことがある。しかし、正直に言えば皆良広を非難し敬遠するだろう。自分の家族にどう非難されてもかまわないが、由美の両親に娘を殺したと言われるのだけは耐えられない。日記のこともある。

 

由美という大きな犠牲を払ったとはいえ、良広は一つの手掛かりを見つけたのだ。

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