第11話「連絡、急いで」

 会計を済ませてすぐ駐車場へと向かう良広は、頭に重たいものを感じて空を見上げた。鉛色の淀んだ空に走る電線が、いつもより太いのはどうしてだろうと目を凝らした良広は思わず足を止めた。電線が太く見えたのは、そこにカラスの群れが隙間なくとまっていたからであった。それだけではない。良広に見られているのが不快だといわんばかりに、しわがれたカラス特有の鳴き声が背後からいくつもした。少し歩を進めて白い壁伝いに上を見上げれば、屋上もまたカラスに占拠されている。

 

 良広がそうしているうちに、背後で騒がしい声がしたかと思うと、一人のパジャマ姿の女性が入り口から走り出てくるのが目に入った。ピンク色の生地からのぞく肌の色は茶色に変色し、腹が餓鬼のように膨らんでいる。女性が悲鳴を上げながら何かから逃げているのかと思ったのは間違いで、耳を澄ませば奇声にも似た笑い声であると分かる。しかしその笑い声は、悲痛な叫び声のように空に響いていた。

 

 この女性の後を先ほどの医師と二人の看護師が追いかけてきたが、女性の足の速さに追いつくことができない。無論、看護師は二人とも男性である。良広は自分の車を通り過ぎ、その滑稽な追い駆けっこを傍観していた。医師の手がもう少しで女性に届く、そう思ったとき、忽然と女性の姿が消えた。良広は車と車の間を縫って、必死に女性の姿を探した。間接的にではなく、直接何かを観ようという条件反射のようなものがあった。良広が車と車の間から抜け出し、花壇の芝生を踏み越えたとき、後ずさりに合わせて白衣の裾が翻っているのが見えた。そのまま視線を下に下ろすと、良広が反射的に得ようとした「情報」があった。アスファルトをナメクジのように這うそれを避けるように、白衣の三人は逃げ腰になっている。良広は医師たちに駆け寄り、「情報」の全体像を目撃した。


 初め良広は、地面を這うものは血だと思った。そして、目の前に横たわるものは死体だと思った。しかし、良広があると思っていたものはどこにもなかった。ナメクジのように地面を這っていたのは、骨からずり落ちていく茶色の肉であった。一般に死体という人間の形をしたものは、どこにもなかった。かろうじて残る崩れた人体模型のような人骨が、これが人間であったことを物語っている。ピンク色のパジャマは、泥水に浸したかのように汚れてしまっている。にわかに風向きが変わって、ひどい腐敗臭が鼻をつき、良広は吐き気を覚えたが、開いて歯を剥き出しにしたしゃれこうべが、こんな姿になってまで笑っているかのように感じられてその吐き気すら萎えさせる。針金の束のようなものは、髪の毛であろうか。飛び出した二つのピンポン球くらいの丸いものは、目玉であろうか。その二つは、自らの重みでもう半ば潰れていた。良広が耳にしていた通り、腹部は内側から弾けたように茶色の腐った肉片が辺りに飛び散っている。「死と言い難き死」というものを、良広は納得していた。ただ唯一冷えきったアスファルトの上を這うものから湯気が上がり、それが例え急激な腐敗のせいで起こる熱のせいだとしても、体温を持った生身の人間であったことを語っていた。


 電線の上からこの様子を見物していたカラスのうちの一羽が、愛想を尽かしたように飛び立った。これを合図に、次々と他のカラスたちが続く。そのうちの何羽かが、立ち尽くす男たちの様子を伺うように近くの車の上に乗った。良広に一番近い車の上にも黒い影が乗っていたが、カラスだと良広は分かっていたのでさしてみる気にもならなかった。この影はしばらくすると空へと飛んでいった。何でもあさるカラスですらこれを見捨てていくのだと、良広は目の前の物体に同情の念を持った。だが良広がカラスだと思ったその黒い影は、鳥の羽とは違う翅を持っていた。それには誰も気づきはしなかったが。


「連絡、急いで!」


医師は冷静さを装いつつ、早口で看護師に告げた。


「先生、この患者さんは、どの……?」


すっかり顔色を失った看護士が、震えた声を必死で隠す。怖いものやグロテスクな物を見たがるのは人間の性質であろうか。それとも見た者の視線を凍らせるのか。この震えた看護士もまた良広同様に、この物体から目が逸らせないようであった。


「五〇三の山口やまぐちさんだったんじゃないかと思うが、自信がない。御家族にはベッド確認してから連絡入れてくれ」


過細い声で「分かりました」と言う看護師に、医師はすかさず「間違えるなよ」と強く念を押した。二人の看護師が逃げるようにしてその場から走り去ると、医師は眉間に皺を寄せてしゃがみ込んだ。


「先生は、私と同じように何もできないんですね。もしこれが医学の範疇じゃなかったら、私も貴方も同じじゃないですか」

「大森さん、大丈夫ですか?」


医師が言いたいことは即ち、良広はこれを見たショックで正気を失っているのではないかということである。しかし良広は、自分でも不思議なほど平然としていた。幸か不幸か、意識は明瞭だった。良広は大きく頷いて、医師と同じようにして遺体に見入った。医師は目を丸くして良広を見ているが、良広はそれを無視した。


「止めてください、大森さん。貴方はおかしい! こんなものを見て平気でいられる わけないじゃないですか!」


人の良さそうな医師の激しい形相に、良広は一瞬にして肝を冷やした。医師の顔を見上げ、もう一度恐る恐る視線を下ろし、良広は自分のしていたことの異常さに気づいた。担当している医師ですら「こんなもの」と呼ぶものを、良広は食い入るように観察していたのである。だが、由美や咲がいずれこんなものになるという鬼気迫る想いが、この世のものとは思えない現実に対する恐怖を凌駕していた。


「先生、やっぱり私は原田さんに会います」


良広はこんなものとなった遺体を見つめ続けた。あまりの腐敗臭に眩暈を感じながらも、これが最近までは平凡な生活をしていた女性だったのだと忘れないために。この女性と、由美と咲にどんな違いがあるだろう。文字通りの紙一重で、今この女性はこのような死を迎え、由美と咲は生きている。もしかしたら、今ここにあるものは由美だったかもしれないのだ。あるいは咲だったのかもしれないのだ。


「今日は無理ですよ。頭を冷やして考えが変わらなかったら、明日の診察時間終了後にまた来て下さい」


呆れ顔の医師は、まさか正気に戻った良広が本当に来るとは思わずにそうため息混じりに言った。良広は一礼してその場を去った。その頃にはもうカラスの姿はどこにも見当たらなかった。良広が思ったとおり、カラスですらこの遺体を見捨てていったのである。

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