第10話「他の奇病患者とは様子が違う」

 翌日、良広は県立病院の産婦人科に赴いた。診察開始時刻より大分余裕を持って家を出たつもりだったが、産婦人科の待合所の椅子にはもう座る場所がなかった。長い廊下の先から先まで整然と一列に並べられた長椅子の、一番端にだけ人が隙間なく腰を下ろし、隣の皮膚科のスペースにまで人があふれている。その光景は骨だけになった頭付きの魚を彷彿とさせた。時間短縮のために奇病の相談者は診察前にアンケートをあらかじめ書くことになっており、アンケートの提出順に診察が受けられるということもあって競い合うように皆クリップボードに向かっていた。氏名や年齢などの必要事項に続くのは、食生活や家族に関する問いである。

 

 最近一番の研究成果といえば、この奇病が性経験のない子宮の病気であり、食生活の管理が有効であるとほぼ判明したことである。ほぼ、というのが頼りなさを感じさせるものの流行り病であるだけに事例とその記録だけは多い。これまでの犠牲が大きいため、今になっても決定的な解決策がないことに腹立たしさを募らせる人も多いようだが、奇病患者を抱える家族にとってこのほんの少しの進歩が希望となっているようだった。

 

 良広は、妹の体の相談ということで診察を受けることができた。産婦人科といえば女の人が圧倒的に多い。しかし今は男性の姿がほとんどだった。この男性たちは、おそらく良広と似たような目的でここにいるであろう。ちらほらと妊婦らしき人が膨らんだお腹を擦りながら椅子に座っているのを見かけるが、まるでここのいることがお腹の子供に悪影響があるかのように不安げな表情を浮かべ、落ち着かない様子であった。 


「大森咲さん、十七歳ですか」


で、良広さんは咲さんのお兄さんですね、と小柄で人の良さそうな医師はアンケート用紙をめくりながら横目で確認をとった。


「先生は、原田由美さんをご存知ですか?」


医師への返事の後良広が控えめにそう言うと、医師は怪訝そうに顔を上げた。


「由美さんと咲はとても仲が良くて、私達と由美さんは兄弟のようにして育ったんです」


由美が病院へ運ばれてきたときのことを話すと、医師はようやくファイルの山の中から由美のカルテの入ったファイルを探し始めた。同じようなファイルは机の脇だけではなく、机の横のボックスにも隙間なく詰まっている。


「それ全部奇病患者のですか?」

「そうですよ。私が大口たたいてしまったもので、院長派の嫌がらせでしょうかね」


そう冗談を言って笑った後に、でも確実に相談は増えていてこのままの状況だとこの先辛いと本音を漏らす。そんな医師に「嫌がらせ?」と、良広が鸚鵡返しに問えば、やっと見つけためぼしいファイルを手に取りながら頷いた。


「妊娠経験のある女性や男性はどんな人も絶対に感染しない。だから家族の面会もそんなに神経質になる必要はないと院長に話したら、どんなことにも例外があると怒ら れてしまいまして」

「断言できるんですか?」

「と、私は思いますよ」


医師は飄々とした口調とは裏腹に、手にしたカルテに顔を曇らせ、そのままそのカルテをファイルに戻してしまった。患者のプライバシーを理由に家族以外には入院患者の様子は伝えられないとのことだったが、それはそのまま由美の様態が良くないという無言の通知となった。


「お腹を開いてみたことはないんですか?」

「家族の強い要望もあって、切開したことが一度だけありますが、正常そのものでし た」


 第一の奇病の犠牲者となった鈴木麻美の遺体はくまなく調べられたが、腐乱があまりに激しく、臓器の原形すらとどめていなかったため詳しいことは解明されなかった。子宮を何とか探し出して調べては見たものの、ただ腐っているだけで原因になりそうな菌やウイルスは検出されなかったという。


「じゃあ、妹にはどうしたらいいんですか?」

「最近ではいろんな方面で言われていることですが、野菜中心の食生活。それから肉は控えるようにしてください」

「それだけですか?」


肩を落とす良広に、医師は残念そうに頷く。「正常」なまま病気が進行し、死に至る病気だからいくら医師でも薬が出せない。良広はそう理解しながらも絶望的な気分を味わっていた。


「先生は、奇病患者の回診なさるんですか? 私が由美さんに面会することはできないでしょうか?」


医師は由美のカルテを手に取って眺め、黙り込んでいたがしばらくして「やめたほうがいい」と答えた。


「もし万が一私が病気になっても、先生のせいにしないと約束します!」

「原田さんは、他の奇病患者とは少し様子が違うんです」

「それは、どういうことですか?」

「他の患者さんよりも病気の進行が速い。あなたはそんな原田さんを見ていられますか?」


医師の真剣な眼差しに、良広は射すくめられるような思いだった。ふと良広の脳裏に救急車に運ばれていく由美の姿が浮かんだ。大人しいはずの由美の上げた大声や、そのときの騒然とした様子も鮮明に甦った。由美のあの様子ですら衝撃的であったというのに、発狂し、腹が裂けて腐る由美の姿を見ていられる自信が良広にあるはずはなかった。

 

 答えあぐねる良広の背後で、ノックする音が聞こえた。それだけで事情を察した医師は、次の患者を呼ぶように看護師に指示を出した。

 

 うなだれて産婦人科を後にする良広は、もっと時間があれば由美の様態を詳しく知ることぐらいはできたかもしれないと悔やんだ。

 

 そんな良広の脇を車椅子の老人が通り過ぎた。その老人の方に威勢の良い足音がしたかと思うと、孫らしき子供が車椅子の傍らに走り寄ってきて楽しげにおしゃべりをする。良広はそんな場面に幾度となく出会い、会計へと足を進めた。病院で出会う老人たちは皆、点滴を引いていたり、松葉杖をついていたりはするものの穏やかな雰囲気が漂っている。しかし、産婦人科の前だけにはこの穏やかな空気が感じられない。同じ病院内にいて、産婦人科とその周辺だけが切り離された空間だった。

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