第9話「さすがにあなたも迷信を信じた?」

 原田夫婦がこの状況で自分の存在を歓迎していないと察した良広は、気の利いた言葉も見つけられないまま自宅へ帰った。そして、そのまま咲の部屋に駆けつけた。ノックをするが返事がない。声にも反応がないので静かにドアノブを回した。ドアの隙間から中を遠慮がちにのぞくと、布団の中に顔まで埋めた咲の姿があった。良広が口を開きかけると、「知ってる。だからほっといて。ご飯もいらないから」と早口に咲の声は冷たく良広を拒絶した。廊下には出たものの、由美の父親の言葉が良広の足を止めた。


――――――何故同じ家にいて、気付いてやれなかったのか。


「お前は、大丈夫なのか?」

「ほっといてってば! どうせお兄ちゃんなんかお母さんの味方なんでしょ!」


咲は突然布団を跳ね上げて起きたかと思うと、ドアから泣きはらした顔を覗かせ、上半身を乗り出すようにして「うるさい!」と叫ぶとドアを力任せに閉めた。良広はこの時、いつかの食事の際のことを思い出した。まさか咲が例の写真のことを知っているとは思いもしない良広は、まだ母親に対する態度をたしなめたときのことを根に持っているのかと、ただ呆れただけであった。

 

 喉元を過ぎたから熱さを忘れたわけではなかったが、良広にとって写真の件は咲に知られないまま終わったものとして片付いていたのである。

 

 良広の足音が疲れた様子で階段を下りていったのを耳をそばだてて確認した咲は、窓際に立って外を見下ろした。雪のせいだろうか。世の中がどことなく静かで淋しげに感じられた。

 

 雪はまるで牡丹の花弁が降るように、舞っていた。いつか今降る雪のように、黒い蝶が世に沢山舞う日がくるのだろうか? 咲はそんな一つの疑問を持った。もうその疑問について、咲が考えることはできなくなっていたのだが。

 

 両親にやはり由美の病気は奇病だったと良広が告げると、両親は顔を見合わせた。両親がやけに神妙な面持ちで詳しいことを聞きたいと言うので、良広は出来るだけ詳細に自分が覚えていることを話した。


「それで、由美ちゃんの具合はどうなの?」


どうって、と良広は言葉を詰まらせた。そして良広は今になってようやく自分が、あの時の光景を振り返ることができるほどの心の余裕を取り戻したのだと知った。


「もう、何て言えばいいか分からないよ。原田さんは痛々しいし」


良広はテーブルの上に組んだまま置かれた自分の手を見つめ、ゆっくりと今日の記憶を辿った。

 

 担架の上にベルトで縛り付けられるようにして寝ていたのは、良広には判らないほど変貌した由美だった。振り乱された髪の隙間から見えた由美の頬は、凍傷にでもかかったかのように本来の肌の色は失われていた。「空」と叫んで笑う声は、幼女のようなあどけなさがあった。奇妙に膨らんだ腹部にも、腕や足にも、見えている部分全てにあった赤茶色の大きなシミは、元々絹のように白い由美の肌には余計目立っていた。


「それにしても、どうして咲に言ったんだよ」


良広は今日の朝、自分が車を取りにきたときには咲は由美のことを知らなかったことを思い出し、両親をにらんだ。


「それが、話してもいないのに急に由美ちゃんが大変な時になんで隠してたのか、って。それきり部屋から出てこなくなっちゃって」

「本当に? どうせ顔に出したんじゃないの?」

「そんなつもりはないんだが、もしかしたら咲は察したのかもしれないな」


状況が分からず、見通しのきかない状態では全てのことが不安要因でしかなく、一人目の犠牲者であった鈴木麻美の死亡時の状況は良広をさらに不安にさせた。彼女が死んだ日の夜には、いつもは暗くなると寝てしまう奇病患者たちが眠らずにいたという。もし、奇病患者同士の状態が離れた場所にいても判るのだとしたら、今朝の咲の行動も説明がつく。自分のこの憶測が、ただの杞憂に終わること良広は願った。


「明日、病院行ってみようと思って」

「奇病患者は面会できないんだろ?」

「行ってみるだけ」

 

 良広が逃げるように自室に行ったのを見届けた父親は、表情を固くして自分の妻に視線を投げかけた。その視線に、母親が口を開いた。


「兄さんに、手紙を出したんでしょ。どうだった?」

「まだ、義兄さんからの返事が来ていない」


母親は初めから期待などしていなかったというように、小さなため息と自嘲をもらした。


「今回のことで、さすがにあなたも迷信を信じた?」

「まだ、信じたわけじゃない。信じるわけがないだろう」

「本当は私と結婚したこと後悔してるんじゃない?」

「馬鹿なこと言うな」


父親は声を押し殺して叫んだ。そして、「これしか方法がないから千房家に連絡を取ろうとしているだけだ」と続けた。


時に、もう二人で迷信に拘らないと決めて千房家を出てきたんだろ。弱気になるな」


母親は涙を堪えながら頷いた。

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