第8話「ああ、空!」
翌日の早朝、まだ夜が明けきらず冷え込んだ空の下に救急車のサイレンの音がけたたましく鳴り響き、良広とその両親はその音で目覚めた。この辺りでは最近奇病患者が多く出ているので、また誰かが近くで発狂したのかと音の軌跡を頭の中の地図で辿った。
だんだん近づいてくる。しかし赤い光を一瞬窓から投げ込んでそのまま真っ直ぐ、家の前は通り過ぎた。少し行って、左に曲がって、また少ししてサイレンの音は止まった。良広の家からはそれほど遠くはないようである。良広は音の方向に自分のよく知った少女の家があることを思い出し、ジャージ姿のまま部屋を出た。両親も同じように寝室から出て声を潜めている。
「由美ちゃんかしら?」
母親が自分の子供を心配するような声を発した。
「見てくるよ」
寝巻き姿の両親を見るなり、良広はそう言って上着一枚を羽織って外に出た。まだ街灯の明かりがついたままの外は思った以上に寒く、時折白い物が空から降ってきていた。このときの良広を何も知らない人が見たら、早朝ランニングをしていると思っただろう。吐く息は白く、吸い込む息はのどの奥に刺さるようであった。それでも良広の足は踏み出すたびに速くなって、視線はとめどなく動いて赤い光を探していた。
案の定、赤色灯をつけたまま、先ほどの救急車が由美の家の前に停まっていた。周りの家々からは野次馬の気配が確かにするというのに、誰も家から出てこようとはしない。皆、この得体の知れない病を恐れているのだ。そして、原因が何も分かっていないにもかかわらず自分の家が安全地帯であると信じて疑わない。重たい空気のせいか、良広にとってその人々の行為はひどく陰湿に感じられた。
良広の足元ではシャーベット状になった地面が嫌な音を立て、すぐ後ろでは赤い光に照らされながら黒い蝶が舞っていた。まるでその虫は、良広を嘲笑うがごとくに良広の視界に入るか入らないかの所で雪と戯れていたが、騒がしい由美の家の中の様子に耳をそばだてるのに必死な良広がそれに気づくことはなかった。
にわかに声が近くなり、玄関ドアのすりガラスに白い人影が映った。いつもは穏やかな原田夫妻の緊迫した声が、由美の名を呼んでいるが返事はない。その代わりときどき女のものらしき笑い声がするが、到底良広が知っている由美の声とは思えなかった。落ち着いた男性の声がしたかと思うとドアが大きく開かれ、救急隊員が担架で患者を運び出した。すぐ後ろから原田夫婦が続いた。その、玄関から救急車までのほんの短い時間、良広は担架の上に横たわる人物から目が放せなかった。
「ああ、空! ソラ!」
担架の上から突然大声が発せられたかと思うと、次には耳障りな笑い声が上がった。大口を開けて笑っているのが本当に由美なのか良広には分からなかった。白い肌も黒い髪も失われている。つやを失い、白髪混じりになった髪の毛は丸めて伸ばした糸くずのようであった。絹のように白かった肌には不気味な赤茶色のしみが、シーツの上にこぼれたコーヒーのように広がっている。腹には奇妙な膨らみがある。これが奇病なのかと衝撃を受け、良広は半ば腰が抜けていた。全身に力が入らず、赤色灯を見つけるまであれ程力強く大地を蹴っていたはずの両足が、今では頼りなく、ひどく不安定だった。自分がこうして立っていられるのが不思議なほどである。
「良広君」
突っ立ったままの良広に気づいたのは、何とか気丈に振舞う由美の父親であった。この声にやっと良広は我に返った。
「すまないが、家内を県立まで送り届けてもらえないか」
「はい、もちろんです」
白衣を着た男性が、今にも泣きそうになりながらすがる由美の母親を必死に説得している姿が目に入った。母親は乗せられないような事情があるのかもしれなかったが、それが余計に母親の不安を誘ったのかもしれない。
「おばさん、うちの車で行きましょう」
良広は由美の母親の肩を抱えるようにして男性から引き離し、「行ってください」と小声で促した。その男性が乗り込むや否や救急車は再びサイレンを鳴らしながら走り去った。
「由美ちゃんは、きっと大丈夫ですよ」
すっかり気が動転している様子の由美の母親を支えてとりあえず玄関の中に入るが、由美の母親はそこで座り込んでしまった。
「ごめんなさいね、良広君。あなたにまで迷惑かけて。本当に何の予兆もなかったのよ。昨日までは普通だったのに、どうして……? どうして由美が……?」
「今車を回してきますから、待っていてください」
良広は出来る限り由美の母親に優しく接したが、それは裏を返せば良広自身の動揺を隠すためであった。良広が家に戻ると、父親が出迎えてどうだったか尋ねる。奥からは母親と咲の話し声が聞こえていた。咲に由美のあのような姿を見せないために、両親が「いつもの朝」を演じていることがすぐに分かった。
「まだ詳しいことは分からないけど、奇病だと思う。原田のおばさんを病院まで送っ てくるから、車貸して」
階段を上りながら父親が二つ返事で承諾してくれるのを確認して、良広は自室に入った。仕上がったばかりの洗濯物に袖を通して、必要最低限の物だけを持って車に乗り込んだ。バックミラーに映る自分の顔が何かに怯えているように血の気が引いていることに気付き、不安になりながらもギアを入れたが、思ったよりも落ち着いてアクセルを踏み込む足に力を入れることができた。由美の母親もまた落ち着きを取り戻し、保険証だの由美や旦那の着替えだのをしっかり準備して家の外で待っていてくれたことが心強かった。
由美の母親は、終始咲のことに触れなかった。奇病と分かっていれば、由美がどんな状態になるのかは容易に予想が付く。そして、もしも自分が感染したらどうなってしまうのかも。まるで一つの家族のように接してきたとはいえ、由美の危機に良広以外が駆けつけなかったことを責めることはできないのだ。咲が奇病だったら、由美は、その母親は、駆けつけただろうか。自分に出来ないことを他人にやれということが理不尽であることぐらいは、誰もが分かっているのだ。また、咲の様子を尋ねることもここでは禁句だった。その問いはすなわち、「咲も奇病ではないか?」というわずかな疑問を提起するからである。
病院のロビーで由美の父親は待っていた。
「良広君、助かったよ。ありがとう」
「いいえ」
「由美も、良広君のことを本当のお兄さんのように慕っていたから、きっと喜ぶと思うよ」
憔悴しきった由美の父親に、良広はやっと「はい」とだけ答えることが出来た。
「今まで、由美と仲良くしてくれてありがとう」
「そんな、これからだって……」
良広の言葉を塞ぐかのように、由美の父親は首を横に振った。
「例の奇病だそうだ。何故同じ家にいて気付いてやれなかったのか悔しいよ」
ふと、良広の脳裏に咲の姿が浮かんだ。そして良広は今の由美の父親の言葉を反芻しながら思う。もしかしたらこの娘のことを想い涙をこらえる父親の姿は、未来の自分を暗示しているのではないか、と。
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