第6話「早く大きくなってね」

 母方の姓は、千房ちよふさという変わった姓だった。

 

 長崎にある旧家で、妙に外者を嫌って近いところで結婚する内縁的な家柄だった。もっとも良広は六歳までしか長崎の記憶はない。幼かった良広に母は、千房は同じ苗字同士で結婚するのが普通だと言った。しかし自分の父親は千房ではなかった。それに同じ家族なのに自分の母親だけが家族の中では大森ではなかった。今考えれば結婚する前に子供が出来て、母親が嫁入りしたいというのを反対されていたため長い間良広の両親は入籍できない状態だったのだろう。

 

 それでもこちらに移り住んで籍も入れられたのは、咲が一歳にならないときのことであった。咲が生まれてから、何か尋常でない空気が千房家に漂っているのを、当時良広は幼いながら感じていた。だが子供が立ち入れない独特の雰囲気に気おされて、何があったのかは分からなかった。




 咲に何か問題でもあったのだろうか。そんなことを考えながら、良広は例の箱を元通りに戻した。

 台所でふとゴミ箱に目を落とすと、今日の弁当のおかずにと母親が今朝詰めていたポテトサラダが捨てられていた。弁当を持っていくのは父親と妹、母親の三人であるが、「咲か」と良広の脳裏にいち早く妹の名が浮かんだ。


「ああ、それ咲よ。今朝も残したのよ」


母親もゴミ箱を覗き込んだ。


「ダイエットはやめたらしいけどな」

「でもしょっちゅうダイエットって言ってる子が、急にお肉ばかり食べ始めるなんて……」


良広は昨日も牛丼と肉まんを咲に取られたことを思い出しながらも、「まあ運動部だし、食べ盛りだし」とありがちなことを口にした。


「そうよね、きっと」


母親は笑って答えた。しかしその精一杯さを感じさせる笑みに急に不安になった良広は、思わず母親の背中に声をかけていた。


「何で、長崎から引っ越してきたんだっけ?」


母親の顔がこわばった。明らかに何か隠している、という顔だった。


「どうしたの、急に」


切羽詰まったような母親の固い声音と、血の気が引いた顔が、良広を狼狽させた。


「いや、別に。ちょっと気になっただけ。ほら、引っ越したのって咲が生まれてすぐだったから」


不意に黙り込んだ母親と対峙しているのが気まずくなった良広は、「まあ、いいんだけど」と言ってコップに水を注ぐ。つい先ほど収まったばかりの波風を立ててしまってはかなわない。そう思ってあせる自分がいることに良広は内心苦笑していた。


「咲には関係ないわ。どうしても親戚と馬が合わなかっただけだって、前も言ったでしょ」


母親もまた、気まずかったのだろう。いつもの明るい声のトーンが落ちて、早口だった。それが母親が必死に自分に言い聞かせているようであり、咲が関係しているのだと暗に示すようでもあり、良広はますます母親の言動への信頼をなくしていた。どうせならもう一歩踏み込んだ内容の質問をしてみようかとも思ったが、母親がまたあの笑みを浮かべるので、良広はこの笑みに負けて次の質問を飲み込んだ。

 こんな家族の心配をよそに、咲の偏食ぶりは日を追うごとにひどくなっていった。ついに主食のご飯まで手をつけずに残そうとしたとき、母親が声を荒げた。


「いい加減にしなさい! 体が持たないでしょ!」

「もうお腹いっぱいなの!」


全く母親の言葉に耳を貸さず、咲は椅子から立ち上がってほとんど手をつけていない自分の食器を片付けようとしていた。食器が重なるたびに咲の手元で鳴る音は、ガチャガチャと荒々しい。


「単品ダイエットなんて嘘なんだからね」

「ダイエットなんかずっと前にやめたんですぅ」

「じゃあ、どうして……」


母親の語気の荒さが抜け、不安の色が滲んだことを良広は聞き逃さなかった。


「もお、うるさいなあ。たまに一緒に食べるとすぐにがみがみ言って!」

「咲、母さんはお前のことを心配して言ってるんだから、そういう言い方よせよ」


珍しく良広にたしなめられた咲は、重ねた食器をテーブルの上に残したまま自室へと逃げ込んだ。


(何よ、ムカツク。お兄ちゃんなんて、どうせお母さんの味方なんだから)


咲が、そうでしょう? と語りかけるのは、自分の腹の中に宿る新しい「命」だった。何度母親の秘密を父親に告げ口してやろうかと思ったか分からない。自分の汚さを棚に上げて母親ぶるところが嫌いだった。いっそのこと、全て父親の知るところとなって母親を罵ってくれれば気が晴れるのにと咲は思った。しかし、もしそうして両親が離婚することになれば困るのは咲自身だ。だからいつも、後もう一歩のところで咲は思いとどまるのだ。一人では抱えるに大きすぎることも、お腹の子供と「二人」ならどんな苦難も乗り越えていける気がしていた。


「早く、大きくなってね」


咲は腹を撫でた。普通の妊娠とは違って、お腹が見て分かるほど大きくなることはなかった。膨らむというよりは下腹部が張っている状態に近い。ただ、咲が呼吸すれば腹の中の子供も呼吸し、咲が眠れば子供も共に眠るというような、息づいている、育っているというような確かな感覚があった。

 

 電気もつけない暗い自室で、今日も咲は一人喘いでいた。何もかもを忘れさせてくれる官能の快楽の中で、ただ誰が裏切ったとしても腹の中の子供だけは自分を裏切らないのだと信じていた。

 



 それから数日たって、咲の顔にはそばかすのようなものが出てきた。それは注視しなければ分からない程度のものだった。次の日には足や腕にもそのそばかすは現れた。耳は遠く、目はかすみがちになった。肌は荒れ、髪の毛はよく抜けるようになった。咲も年頃だけあって毎日長い時間鏡を見るのだが、当の本人がそれらの症状を気にする様子はまったく見られなかった。むしろ自分の中に存在する者が成長している証と喜んでいたのだ。




 母親が警察に相談し、相手からの嫌がらせを警告してもらったところ例の封筒を見ることもなくなり、家族は一見幸せなときを過ごしていた。

 だから咲きの事を以前よりも気に留めなくなった良広も、咲の変調には無頓着だった。まして最近世間で流行している奇病の初期症状と、咲の変調が一致しているなどとは思いもしなかったのである。

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