第3話「仕方のないことだったのかしら」

 咲が寝静まった後、良広は仏間のたんすの一番奥の引き出しを開け、奥にしまってあるお菓子のスチール缶に手をかけた。箱は母親宛の封筒に満たされている。ただし、差出人は不明である。どれも同じ茶封筒であるが、中身も全く同じだから気味が悪い。中身は一枚の写真と脅迫文。おそらく精神的に追い詰めるために同色同形の封筒を使っているのだろう。差出人はかなりこの手口にかなり慣れていると良広は思った。写真には母親の「女」としての顔が写っていて、脅迫文には高額な現金の請求が添えられている。

 

 この封筒の差出人が母親の元不倫相手からのものであることは、当事者の母親と封筒を不審がって開封してしまった良広のみが知ることである。今のところ咲と父親は、奇跡的にもこの封筒の存在に気づいてはいないようである。

 

 後ろめたさを感じつつ、良広は今日も郵便受けに入っていた差出人不明の茶封筒を箱の中にしまった。母親に肩入れするつもりは微塵もなかったが、短期出張中に妻に裏切られたとも知らない父親はまだ母を良妻としてみており、咲にとっても自慢の母親なのだろう。それらを考えると離婚という事態も起こり得るこの秘密は、良広にとって守るべきもののように感じられた。出来ることなら表面だけでも家族円満でいたい。そう願いながら良広はたんすの引き出しを閉めるのだった。


「ただいま」


だるそうな声では母親が帰宅したのは二十二時を少し回ったころだった。もう一時間もすれば父親も帰ってくるだろう。


「また来てたけど、本当に相手とはもう何もないんだろうな?」


この話題に、主語をつける必要はなくなっていた。母親は良広から顔を背けて「何もないわよ」と早口に言った。だが母親の靴はいくら足をすり合わせてもなかなか脱げない。結局手を使って剥ぎ取るように脱い靴をそろえることもせず、母親は良広の脇を強引に通り抜けた。良広としても自分の母親を信じたいという気持ちがないわけではなかったが、事が事なだけに一度抱いた不信はそう簡単に払拭されるわけではなかった。第一今も家族をこうして息子とともに欺き続けているというのに、妙に苛立って自分の汚点を隠すことに終始するだけで自ら進んで行動を起こさない。警察にも、父親に知られるのを怖がって被害届けを出していない。相手からの郵便物を見たときの狼狽振りを見て、良心の呵責に耐えられないなら父親に謝ろうと良広が提案したこともあったが、ついに母親は首を縦には振らなかった。ちゃんとご飯は食べたのかなどと言いながら、話をそらそうとする母親に苛立ちを感じつつも良広は冷静を装って話題を元に戻した。


「本当に一回きりだったんだろうな」

「本当よ」


 間髪入れずに叫ぶように言った母親は、はっとして俯き、口元に手を当てた。男と会ったのは一夜限りで、それ以来男との連絡はつかなくなってしまった。携帯電話の番号は既に変更されており、メールもアドレスを変えたらしく送ることが出来ない。手紙を送ろうにも住所は偽りであった。そうこうしているうちに例の封筒が届くようになり、そこで初めて騙されたのだと分かった。「まさか自分がこんなことになるなんて思ってなかった」と蒼白な顔をして言う母親を良広は冷たい目で見て、自業自得だと心の中で毒づいた。


「若い振りして、出会い系サイトなんかやってるから悪いんだろ。あっちは母さんみたいなのを金ヅル程度にしか思ってないんだよ」


出会い系サイトももうやってないだろうなと念を押すと、母親は強く手を握り締めた上に目を充血させ、二度とやらないと答えた。反省の態度とは違った反応だったが、本当かどうかは相手からご丁寧に通知が来るのだからと良広は無理やり自分を納得させ、何とか決まりの悪さをやり過ごす。同じ男として、父親が不憫でならなかった。


「どうしてこんなことになったのかしら。仕方ないことだったのかしら」


わずかな沈黙の後、母親は呟いた。思わず声を荒げそうになった良広は、深いため息をついた。それはもう母親に対する憤慨というよりは、自分の徒労に対して出たものだった。

 

 良広は眠りに就こうとしていた布団の中で、父親の声を聞いた。帰ってきたな、と思ったころには夢か現かはっきりしない中で両親の会話を聞いていた。優しく明るい声で夫を迎え入れる母親の声はまさしく「良妻賢母」であった。しかし、母親が「良き母」「良き妻」振りを見せるほど良広は母親に対して嫌悪感を抱いた。


「何だ、二人とももう寝たのか」

「ええ。咲は明日学校に早く行くんですって。良広も疲れたからってついさっき」


母親の苦笑と、夜更かししないのはいいことだと答えた父親の笑い声が重なった。


「良広が咲と夕食済ませてくれるんで助かるわ」

「職がないからといっても、良広がいてくれると助かるな」


良広は最後の父親の台詞と、その後母親が口にした「本当にね」というやりとりを皮肉と感じつつ、眠りに落ちた。

 

 だから、良広はこの後の両親のやり取りを知らなかったのである。



 

「ちょっとお前に話があるんだが、これは何だ?」

そう言いながら、父親が会社の鞄から取り出したのは一通の茶封筒だった。差出人の名前やあて先はなく、ただ「大森清美おおもりきよみ様」と印刷されていた。ダイニングテーブルの上に置かれた茶封筒が何であるかを察した大森清美こと良広たちの母親は、先ほどまでの笑顔を引きつらせて凍りついた。

「わざわざ会社に電話をくれた相手は、こちらの出方次第ではこれを近所にばら撒くそうだ」

 顔をこわばらせたまま封筒を凝視して夫の言葉を聞いた清美だったが、やがて観念したようにうなだれて「すみません」と謝罪の言葉を口にする。そして仏間のたんすから例の手紙の詰まった缶箱を持ち出して夫の前で開いた。箱の中の有様を見て絶句する夫の顔を見ていられず、清美は目を伏せた。

「ごめんなさい。あなたに黙っているつもりはなかったの。ただ、良広に先に見つ かってしまって、咲がかわいそうだから言うなって」

 初めて郵便受けに例の封筒が投函されたのは、父親が出張先から帰ってくる前日のことだった。最初にその封筒を見つけたのは家にいることが多かった良広で、封がなされていなかった封筒からふとした拍子に中身が出てしまい、良広は母親の醜態を知ることとなった。その日の夜に散々息子になじられ、責められた母親は息子立会いの下、相手に脅迫をやめてもらえるように連絡を取ろうと様々な手を尽くしたが、ついに連絡は取れなかった。一夜を共にしてから連絡が取れず、それでも愛人を信じていた母親が騙されたと気付いたのはこの時であった。そんな母親を息子はますます責め、結局二人で話し合った結果、相手がいずれあきらめてくれるまで無視し続け、咲や父親には咲の進路が決まり、落ち着くまで黙っていることにしようという結論に達した。

「良広を責めないでやってください。あなたに知られるのが怖くて、自分がしたことが信じられなくて、どうしていいか分からなくなってしまっていた。ごめんなさ い、ごめんなさい。あんなに私のこと家族に説得してくれたのに」

涙を浮かべる妻に、父親はただ「そうか」と短く答えるのがやっとだった。父親にとって今まで信じきっていた伴侶の裏切りに、腸が煮えくり返る想いだった。それと同時に同じ家に住んでいながら易々と騙されていた自分がひどく情けなかった。誰もいなくなったダイニングで父親は一人、普段はあまり飲まない酒を飲んで夜を過ごした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る