良広

第2話「捕まえた」

 さきは携帯電話の着信履歴をチェックしながら、夕日に照らされた廊下を歩いた。職員室から昇降口に向かう廊下を歩いていくと、咲の前には暗く影が落ち、ちょうど画面が見やすかった。

 

 しんと静まり返った教室に、咲にメール受信を告げる着信音が響いたのは、今日の午前最後の授業時間だった。この授業担当の教師は、日頃から地毛が薄い茶色をした咲をよく思っていなかった。茶髪だから普段の生活もだらしないという、よく分らない論理のもと、咲は有無を言わさず携帯電話を取り上げられてしまった。放課後取りに来るように言われ、職員室で神妙な面持ちを装って注意を聞いた後、次はないようにすると平謝りして咲はやっと解放された。

 

 咲は自分に恥を掻かせた犯人を捜した。咲にはいわゆる「メル友」が多かった。昼休みや下校の頃合を見計らって数多くのメールが届く。

 

授業に遅れそうになって携帯を確認し忘れた自分に非があるものの、授業中にメールを送ってきた相手に一言文句を言わなければ腹の虫が治まらなかった。しかし、まもなく犯人を特定した咲の腹の虫は、その気力を萎えさせた。


「お兄ちゃん」


思わず咲はため息交じりに犯人を呼んだ。


「またお兄さんから?」


咲を下駄箱の前で待っていた幼馴染の原田由美はらだゆみがそう言って笑顔を向けると、咲は脱力して頷いた。咲と由美が出会ってすぐに仲良くなったことで、二人の家族も身近な存在となり、今や家族ぐるみの付き合いがあった。由美は一人っ子で、幼いときから兄妹に強い羨望を寄せていた。それは由美の両親ももちろん知っていたが、由美の母親は元々子供ができにくい体だったらしく、由美に兄妹ができることはなかった。そのため、妹思いの優しい咲の兄・良広よしひろと咲をことのほか由美の両親は歓迎したのである。


「昔から仲いいよね」

「お兄ちゃんたら心配性なんだもん。高二の妹に何兄馬鹿やってんだか」


再び咲がため息をこぼすと、由美は声を立てて笑った。垂れ気味の目じりが笑うとさらに下がる由美は、その独特の柔らかい表情で昔から咲の心を和ませてくれた。笑うとき手を口元に添える由美の姿は同性の咲から見ても愛らしかった。癖のない黒髪をお下げにしたその様は、女子高生と言うより一昔前の女子学生といった雰囲気をかもし出していた。


「咲のことがかわいくってしょうがないんだよ」


苦笑交じりに頬を染めて言う由美に、咲は「シスコンぽくない?」と肩にかかる茶髪を払った。良広の話題になると、由美は頬をほころばせ、赤く染める。


「いいお兄さんだと思うな。塾でも人気あるんでしょ?」


良広は塾講師のアルバイトをしている。教職を希望していたようだが、最近では塾の講師も満更ではない様だ。


「鼻の下伸ばしてるだけでしょ、ロリコンだから。あんなので良かったらいつでもレンタルするよ」


良広の受け持つ授業の受講生は、女子生徒が多かった。良広が働く塾ではアンケートで自分の教わりたい講師を指名でき、その希望がクラスに反映される。つまり、良広は間違いなく女子生徒に人気の先生なのだ。若くて、それなりに英語や数学を教えるのが上手いことは、妹の咲が認めるのだからこれも間違いない。ただ、その要素はアルバイトの学生が兼ね備える長所だと咲は良広に反感を覚える。おそらく、しっかりしていそうな外見と間抜けな中身のギャップに、母性本能を擽られる女の子が多いのだ。咲はそう思うことにしている。

「由美は騙されないでね」という咲のお決まりのセリフに由美もお決まりの「はいはい」という返事をし、二人は外に出た。二人の吐く息は白かった。どちらともなく「寒いね」というこれもやはりお決まりのセリフを口にすると、二人の視線は自然に色づいた木々を捉えていた。コートはまだ要らずとも、そろそろマフラーが恋しい季節である。


「咲は長崎生まれなんでしょ?」


咲は小さく「うん」と答えたが、生まれてすぐにこちらに引っ越してきた咲にとって、長崎での記憶は皆無であった。しかし自分の生まれた場所というだけで、咲は長崎という地名を聞くとどこか懐かしさを感じずにいられなかった。

 

 何か大切なものを置いてきてしまったような寂しさと、大事な思い出があったような温かさを感じてしまうのだ。


「きっとあっちはまだ暖かいんだろうね」

「たぶん。でも最近異常気象で騒いでるから、どうなんだろうね。その内、気候が逆転しちゃったりして」

「ああ、温暖化は話題になってるね。雪も降らなくなっちゃうかもね」


でも、今年は間違いなく降りそうだ。そんなことを話しているときだった。

風が吹き抜けるたびに肩をすくめながら歩く二人の横を、何か黒いものがひらりと舞った。二人が思わずそれを注視して足止めてしまったのも無理はなかった。

 

 その黒いものの正体は季節外れの蝶だったのである。


「珍しいね」


そう言って足を止めた由美が枯れかけた野花に翅を休めた蝶に近づくと、蝶は咲の方に飛んで逃げた。自分の顔面めがけて突進してきた蝶を、咲は小さく悲鳴をあげて持っていた鞄で払った。その攻撃を優雅に掻い潜った蝶は、咲を見下ろした後街路樹の中に身を隠した。紅葉した葉には黒く薄い羽が保護色となって、もう二人がいくら目を凝らしてもその蝶を探すことは出来なかった。


もっとも、蝶のほうからは二人が丸見えだったのだが。


「大きな蝶だったね」


名残惜しそうに、由美は蝶の消えた街路樹を振り返った。

「最悪。昔からチョウチョ大嫌いなんだよねー。あんな気色悪い虫が好きな由美の趣味は分かんないなぁ」

「虫が好きなわけじゃないよ。蝶って何か希望がもてるでしょ。だから綺麗でかわいいなって」


生まれたときは空が飛べないどころか醜くて人に嫌われてばかりいる蝶の幼虫でも、蛹の時期さえじっと耐えしのげば、美しい翅を持って空を自由に飛び回ることが出来る。蝶は希望の象徴なのだと由美は語った。その話を聞いていた咲は、由美が中学校の頃いじめに遭って「害虫」と机に落書きされたときの事を思い出した。本人がそのときのことを意識したかは分からなかったが、もし、かつてから由美がそう自分に言い聞かせていたならば、由美にとって蝶は間違いなく希望の象徴なのであろう。


「そう言われてみれば、けっこうけなげなのかもね」


虫への嫌悪感は払拭できなかったが、咲は笑顔でそう答えた。


 そういえば、由美がいじめに遭い始めたのも、蝶が舞う季節だった。咲にとっては御節介でしかない情に厚い兄と共に、由美の相談に乗ったこともあった。この時の由美は良広の優しさに救われていたように見えた。由美に笑顔が戻ってうれしい反面、良広に由美を取られたような悔しさがあったのを今でも覚えている。確かこの頃からだった。良広を見る由美の目が変わったのは。

 

 咲は一抹の寂しさを隠して、由美とのいつもの会話に興じた。

そんな二人の少女の様子を、木の葉の陰にじっと息を潜めて見る者が在った。大きな一対の瞳にはいくつもの少女達の姿が映っていた。


―――――けっか……。


季節外れの黒い蝶は、静かに二人の後を追った。

 

 誰かに羽交い絞めにされたような感覚を覚えた咲は、不意に立ち止まって振り返った。しかしそこには誰もいない。ただ炎を灯した松明のような街路樹が、続いているだけである。


――――つかまえた。


「どうしたの?」


突然立ち止まって動かなくなってしまった咲に、不思議そうな顔をして由美は問いかけるが返答はない。咲が見つめている先ほど通ってきた道を由美は咲と同じように見つめてみたが、いつもと変わらない風景が広がっているだけだった。


「さっき、誰か私の肩をつかんだように感じたんだけど……」

「気のせいじゃない?」


表情を硬くしたまま、「たぶん」と小さく自分を納得させるようにつぶやいて再び歩を進める咲の背中には、黒い蝶が張り付いていた。

 

 自宅の前で由美と別れた咲は、股にもぞもぞとした妙な感覚を得て自宅トイレに駆け込んだ。生理は先週に終わっていたため、今まで感じたことのないこの気持ちの悪さに咲は思い当たる節がなかった。たまらずスカートの裾を持ち上げると、中から黒い影が飛び出てきた。一体いつの間にスカートの中に忍び込んだのか、その正体は帰り道で見かけた季節外れの蝶であった。

 

 咲は驚きの声を上げる間もなく、自分の股間を押さえて壁にもたれるとそのままずるずると壁伝えに膝を折った。その下腹部と股間に熱を帯び、軽い尿漏れを起こしたかと思う湿気がショーツにあった。何かが、自分の中に入ってくる。そんな感覚が、咲背筋を冷たくしたが、股間の熱が全身に回って、意識が快楽に支配されるまでにそう長くはかからなかった。咲は体を痙攣させたかと思うと艶かしく喘いだ。

 

 不意を突かれて無防備だった咲は突然訪れた快楽に抵抗する術もなく、何かがおかしいと思ったときにはもう快楽に身を任せてしまっていた。

 

 股を開いていないとその間から染み出てくる粘り気のある液体のせいで気持ち悪かった。息が乱れ、荒い呼吸のせいで咲の口の中が乾ききろうとしたとき、黒い蝶は美しい裸体の女性へと姿を変えた。潤んだ瞳に熱の帯びた光を宿らせて、乱れた制服や髪に気を留めずに快楽に溺れる咲を見下ろして、女性は満足そうに微笑んだ。その背に生えている四枚の翅が、女性の正体をあからさまに示している。それでも咲はこの女性を異様な存在と感じなかった。むしろ自分を全ての苦しみから救い出してくれる女神のようだと咲は頭のどこかで感じていた。

 

 咲は至上の快楽と強烈な母性に包まれながら、この世のものとは思えないほどの美女と戯れているつもりだったが、傍から見ればこれほど気味の悪い絵はなかった。強姦された後のように乱れた少女が笑いながら座り込み、その顔の上を大きな黒い蝶が這い回っているのだから。


――――血華けっか、ドコ?


 黒い蝶はガラスを通り抜けて外に飛び去った。

 

 しばらくしてようやく快楽の興奮から抜け出した咲は、自分が思ったよりも疲れていることに気づいた。気力も体力も衰弱している。胸や足を大きく露出して汗ばみ、長い間冷たい床の上に座っていたものだから体がすっかり冷め切ってしまった。尿漏れしたように濡れたショーツだけは、陰部の熱で生暖かい。片方の手をショーツの中に突っ込み、もう一方の手をお腹に当てて咲は笑みを浮かべた。

 

 咲の子宮には、新しい命が宿っていた。

 

 制服と髪を整え、トイレットペーパーで陰部を拭いて水に流した咲は、階段を上って自室へと向かった。いつもより階段を上りにくく感じるのは、まだ下半身が快楽の余韻を引きずっているからだ。普段よりも時間をかけて二階へ上った咲は、自室にあるドレッサーの前に座って自分が今までしていたことを反芻してみた。しかし結局最後には、今まで自分が不潔に思ってきた性的快楽とはなんと心地よいものなのだろう、と陶酔するに至った。薄暗い部屋の鏡に映る咲の顔には、まるで貼り付いたかのように笑みが残っていた。

 

 制服から私服に着替えようとすると、最近買ったばかりのスカートのファスナーが上がらない。いつもはこんなことがある度に太っただのダイエットだのと散々喚き散らしていたのだが、今回ばかりは無言である。喚くどころか唇の両端を吊り上げて笑っている。目で見ても分からないくらいわずかに膨らんだ自分のお腹をいとおしげに見つめ、優しく撫でる姿はまさに母の姿であった。

 

「咲、いないのか? 入るぞ」


長身痩躯をスーツに包んだ青年が、咲の部屋のドアノブに手をかけた。ほんの少し押し開けられたドアの隙間から延びた光の筋に気が付いた咲は、あわててドアを閉めた。大きな音を立てて閉まったドアに、危うく青年はつま先を挟まれそうになった。


「お兄ちゃんの変態。ノックぐらいしてよ、バカ!」

「何回もしただろ。夕食、バイトの帰りに買ってきたから一緒に食べようと思って。 メール見たんだろ」


良広が授業中に送ってきたメールの内容は、両親が残業で帰りが遅くなるため夕食は良広が買ってきてくれるということだった。咲は「メール」という言葉に、忘れかけていた怒りを思い出す。はけなくなったスカートをクローゼットにしまいながら、咲は腹立たしさをドア越しの良広にぶつけた。授業中に一斉に向けられた迷惑そうな、または面白がっていそうな視線の痛さ。初犯ですぐに謝ったにもかかわらず、教師の得意げな説教に一時間近く付き合わされたこと。思い出すだけでも胃が痛くなる。


「お兄ちゃんのせいだからね」


咲は歳の離れた兄に散々当り散らした後、良広の前に出て睨み付けると、良広はそんな咲を見下ろしてあきれたように「それは電源を入れてたお前が悪い」と返す。その言葉にまた言葉を捜す羽目になり、さらに腹が立った咲きは口先をとげて「授業中だったのに」、と言い返した。


「授業中でもいいって言ったのはお前だろ。いつも授業中だったし」


この言葉に、ついに返す言葉がなくなった咲は目の前の良広を押しのけて階段を下りた。向かった先はトイレである。

 

 コンビニの弁当を電子レンジにかけている兄をちらりと横目で見ると、咲はダイニングテーブルに腰を下ろした。トマトソースの香りから、良広が自分のためにミートソーススパゲティを買ってきたと予想を立てて待っていると、その予想を裏切ることなく咲の目の前に円形のプラスチック容器が、頭に思い描いたとおりのメニューを乗せて目の前に差し出された。黒くなったバーコードシールと湯気で内側に水滴が張り付いたスパゲティを見た咲は、味をみる前に何か物足りなさを味わった。咲は、オレンジ色の光に照らされながら電子レンジの中で回る容器に目を移した。黒いプラスチック製の丼である。


「お兄ちゃん、何買って来たの?」

「牛丼」

「交換して」


牛丼という言葉に妙に食いつく咲をいぶかしんだ良広が新聞から顔をのぞかせると、もう咲はスパゲティを差し出している。


「いいけど、ダイエットはどうしたんだよ?」

「やめた、やめた」

「三日坊主だな、相変わらず」


半ば強引に押し付けられた円形容器を良広が受け取ると、交渉成立を告げるかのような絶妙のタイミングでレンジが鳴った。良広は半額シールの付いた牛丼を咲に渡し、食べ慣れない麺を啜った。咲は口の周りを人でも食ったように赤く染めながらスパゲティを食べる良広を見ているうちに、メールの一件を忘れて由美の言うようにいい兄なのかもしれないと思った。

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