『蝶と華の契り』

夷也荊

プロローグ

第1話「南国の使者、ご近所に」

 短期大学を卒業し、教員採用の内定をもらえなかった俺は、塾のアルバイト講師をしていた。このまま塾の講師になっても悪くないと思い始めた七月、懐かしいものを新聞で見つけた。


「南国の使者ご近所に

 温暖化で北上してきたチョウをさがそう

・ナガサキアゲハ 気温上昇目印に適役

 アゲハチョウに特有な尾っぽがないことから区別はわりに簡単だ。

名前からも分かるように、ナガサキアゲハは日本では九州や四国などの暖かい地域だけに見られるチョウだった。七十年代の終わりごろから北上が報告され始め、八〇年代には近畿地方に到達、東海地方を経て、九九~〇〇年には関東にも姿を現した。

大阪府立大学の実験で、北上したチョウたちには、寒さへの抵抗力が増す、といった性質の変化は起きていないことが証明された。

北進は今後も続くと見られている。

    イラスト・川上洋一 朝日新聞 二〇〇五年(平成一七年)七月一七日 日曜日 Do科学 身近でできるこの夏のフィールドワーク①」


紙面右上に雌雄のナガサキアゲハの成虫と、若い幼虫。文を挟んでその下には、ナガサキアゲハと他のアゲハ類の幼虫のイラストがあった。

 

 俺は妹が生まれる前まで、長崎に住んでいた。外で遊ぶのが好きで、虫捕りもやった。ナガサキアゲハも捕まえたのかもしれないが、採った虫の詳細を思い出すことはもうかなわなかった。覚えていたとしても、当時まだ幼かった俺には、単なる黒い蝶として記憶され、今思い出したところでそれがナガサキアゲハだったかは分からないに違いない。

 

 それでも俺が懐かしくなって目をとめたのは、雌雄の黒い蝶の下に描かれた若い幼虫だった。ナガサキアゲハの幼虫は、若いときには褐色の体に白い斑がある。しかし成長した幼虫は他のアゲハ類と同じく、緑の芋虫になるらしい。

 

 俺の記憶にあったのは、まさしくナガサキアゲハの若い幼虫のグロテスクな姿だった。家の近所の琵琶の木の葉にそれを見つけたかつての虫取り少年は、あまりの気持ち悪さに泣きそうになりながら家に逃げ帰ったのだ。まさかあの幼虫が、突付いて角を出させて面白がった芋虫になるとは。


「子どもって、馬鹿だな」と俺は心の中でごちて、新聞をいつものようにテーブルの上に戻した。誰でもいつでも読めるように、当日の新聞はチラシを挟んだ状態で一日中テーブルの右端にたたんで置いておくのが我が家の習慣だった。


 だが、この日の新聞は夕方にはなくなっていた。正確には、付属のDo科学だけがなくなっていた。


 母が捨てたのだ。


 かつて、ナガサキアゲハを「地獄蝶」と呼んだことを、この時俺はまだ知る由もなかった。

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