コフギールーイェ・ブーイェル=アフマド州

 朝目覚めたら毒虫になっていたグレゴールには心の底から同情するが、今日になってグレゴールの妹の気持ちをよく理解することができたような気がした。実際にこんな気持であったかは定かではないが、家族の一人が得体の知れない状態に変貌していたら、恐れ憐れむと同時に嫌悪を覚えるだろう。

 その日、私は夜遅くまでゲーム仲間とチャットをしていて寝不足気味であった。午前三時に寝て目覚めたのが午前七時なので、単純に計算しても四時間の睡眠である。世間一般の二十代前半女子の睡眠時間としては珍しいものではないと思われるが、私は六時間は眠らなければ疲れがまったく癒えず、翌朝は体中が不調を訴えるような虚弱体質なのである。そんな私の不快極まりない日曜の朝の一番最初に響いたのが隣室で眠っていたはずの妹の悲鳴であった。まるで部屋に隠れていた変質者に組み敷かれようかというような、近所の事を一切考えない清々しいまでの悲鳴であり、私は足元にあったツボ刺激用の竹(半分)を手にして妹の部屋に踏み込んだ。その瞬間にフランツ・カフカの『変身』の冒頭を思い出し、ややあって『トータル・リコール』が頭をよぎり、そういえばレンタルで借りていた『ラスト・アクション・ヒーロー』をまだ観ていなかったなと思い出して、

「ねぇ、今度『エクスペンダブルズ』借りてきて」

「まってお姉ちゃん。それどころじゃないの見れば判るでしょ?」

 我に返った私に、背中からほどよく太った中年男を生やした妹がそう言った。

「何生やしてんの、あんた」

 そう訊くと、妹は背中から覗き込むようにしている中年の方をちらと向いてから答えにくそうに口を開いた。

「実は昨日、夢の中で悪魔と会って」

「ああ、それな。私も一昨日会った」

「悪魔に死後の魂を譲る契約で一つ願いを叶えてもらったの」

「私は値切ったらふたつにしてくれた」

「『男が欲しい』って願ったんだけどね、そうしたら背中からってお姉ちゃんも会ったの!?」

 妹と背中の男が驚いた顔をこちらに向けた。案外相性が良いのかも知れない。試しに顔を真似してみると、背中の男は難しそうな顔をした。

「そうやってからかってはいけないよ」

「うわ、喋るんだそのおっさん」

「それより、お姉ちゃんはどんな願いを叶えてもらったの?」

 背中の男の顔を押しやりながら訊ねる妹に、私は本当に願いの事を話してよいものかと考えた。しかし、どうやっても二つ目の願いによって台無しになることは解っていたことだ。

「私の願いはふたつ。ひとつは、女になること」

「え、お姉ちゃんって一昨日までお兄ちゃんだったんだ」

「最後のひとつは、世界の崩壊」

 世界が崩壊した。

 部屋の壁が外側に倒れ、天井はどこか遠くへと吹き飛んだ。部屋の外はどこまでも漆黒が広がっていて、果てがあるかどうかさえ判らない。どこに光源があるのか不思議と妹と背中の男はよく見えたが、もうそんな事はどうでもいい。

「これでいい。これでもうビデオを返したりしなくていい」

 妹のベッドの下に隠しておいた無数の青い袋には、借りたままにしていたビデオが眠っていた。

「さぁ、映画を見よう。『ターミネーター』にする? それとも『コラテラル・ダメージ』がいい?」

「おじさんはシュワルツェネッガーよりスタローンの方が好きだな」

「お前の好みは訊いてない!」

 シュワルツェネッガー作品しか入っていないレンタルビデオ店の袋を掴んでいた背中の男の額に、私は手にしていた竹を振り下ろした。背中の男の額は割れ、そこから血液と一緒に無数の肉片が飛び散り、肉片同士は互いに結合して増殖し、その体積を爆発的に増やしていった。

 虚無の空間をシュワルツェネッガーたちを飲み込みながら埋め尽くしていく肉塊は、やがて地球の面積を超え、銀河の面積を超え、宇宙の面積を超え、外宇宙からもあふれ出てしまった。

「お姉ちゃん。私の恥ずかしいところが全宇宙に広がってるんだけど」

 妹は背中から増殖する肉塊がもたらす苦痛と快感に体を震わせていた。これが世界の崩壊。崩壊の後に新しい秩序が生まれ、秩序は世界となる。

「今楽にしてあげるからね」

 そう言って、私は喘ぐ妹の額に竹を振り下ろした。妹の脳漿が飛び散り肉塊の上に落ちると、そこから目が生え、瞳から芽が出た。その芽はぐんぐんと成長していき、やがて木になり、背中の男と妹が半分ずつの割合で大量に実った。全部で九十億はくだらないだろう。

 そんな状態がしばらく続くと、私は空腹に耐えきれずに妹の右の乳房を引きちぎって口にした。半分ほどで腹が膨れたので残りを捨てると、それは芋や瓜となった。

 暇だったので左の乳房を引きちぎって遊んでいると、それはやがて獣となり、鳥となった。喉が渇いたので子宮を引き抜いて、妹が二歳年上の恋人とこっそり作っていた子供を齧りながら羊水を啜っていると、こぼれ落ちたそれがみるみる広がって湖となった。

「あなたいつからハイヌウェレになったの?」

 そう訊くと、額が割れた背中の男の眼がこちらを向いて答えた。

「さっき、夢の中で悪魔と会ったよ」

「あなたが願ったのね」

 腹が立った私は妹と背中の男を切り離した。妹の体からずるずると背中の男の下半身を引き出すと、妹の体内に白い液体が満ちていた。それが足元にこぼれると、それは乳となり獣が成長した。

「世界が……せっかく壊したのに……」

 次第に蘇っていく世界に私は絶望した。何もいい事のない世界だ。こんなくだらない世界で生きるのは嫌だけど、死ぬのはもっと嫌だった。だから世界を壊したのに、妹の背中から生えた男のせいで、また世界が蘇ってしまう。

 妹の顔から目玉が落ちて、それは稗と麦となった。陰核は豆に、爪は米になり、骨は糖に。毛は海藻に。

 木に実っていた男と妹が地に落ち始める。地に落ちた男と妹は飢えた獣のように食物を食らい、交尾をして増えて行った。集団が生まれ、村が生まれ、国が生まれる。争い殺し合って平和を唱えてまた殺して、殺すより早く増えて飢えて植えて殺して増えて殺して殺して増えて増えて飢えて植えて植えて殺して飢えて飢えて殺して飢えて増えて増えて増えて増えて増えて殺して植えて植えて増えて殺して増えた。

 建物がたくさん作られ、高熱と爆風で吹き飛び、また作られ、また焼かれ、また作られる。高層ビルが立ち並び、自動車が走り、労働者が電車に押し込まれ、学生が気だるそうに学校へ。

「悪夢だ……まただ……」

 私は自分の家を見つけ、自分の部屋を見つけ、自分のベッドの中で丸くなった。死と滅びを唱えながら、生きるために眠りについた。



"اسبان کهگیلویه و بویراحمد" Closed...

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