ノーサンバーランド州

 かちかちと金属が立てる軽い音が響いていた。他に音のない静かな部屋だ。顎を伝い滴る音が聴こえてきそうなほどに、清潔で、空虚で、怠惰で、傲慢で、新品のレゴ・ブロックの詰まった遮光のビニール袋を開けた時の香りがしてきそうな真っ白な部屋だった。

「駄目です……俺には、とても……」

 俺は弱音を吐いて、額の汗を拭おうとしてヘルメットに袖を擦らせた。音速に近い速度で金属片が飛んできてもなんとか受け止める事ができるヘルメットを、音速に近い速度で金属片が飛んできてもある程度は受け止める事ができる耐爆スーツの袖で拭ったのだ。当然汗は拭えず、右目に入ってとてもしみた。

「このチョコレート爆弾、解除できません。あちこちにリレーが走っているし、水銀レバーはシビアだ。何より、カカオが七十パーセント以上も含まれてる。こんなビターなチョコレート、俺には無理です」

 無理無理と言いながらも、赤いコードにニッパの刃を掛ける。手は震え、汗は噴き出し、背中が痒い。

「そんな甘ったれた泣き言は聞きたくないな」

 真後ろで、タンクトップとジャージのボトムスを履き、爪先に便所サンダルを引っかけた上司が険しい表情でそう言った。俺はスーツだけで十五キログラムも重量のある耐爆スーツを、安全性を高めるためにさらに追加した十キログラムのセラミックプレートと一緒に身悶えさせて、視界の悪いヘルメットを小さく横に振った。

「無理です。ちょっとでもチョコが溶けたら爆発します。そうしたらカカオが七十五パーセント以上も含まれたチョコレートが二千メートル毎秒の速度で飛翔して、対爆スーツのユゴニオ弾性限界を突破して侵徹し、俺たちの体をずたずたに引き裂きます」

「大丈夫だって、チョコっとくらい融けたって」

 青いコードを切断する。シグナルが途絶した事によって別の回路が作動するが、先にその回路は別の導線へと迂回させていたので爆発はしなかった。常に爆弾制作者の一歩先を読む。そして、読み違えれば人生がゲームオーバーとなる死のゲーム。

「バレンタインと言えば」

 俺がもう一本の青いコードを切ると、小気味良い音に被せるように上司がそう切り出した。

「その昔、クリスマスに仔犬を買ってもらった事があった」

「バレンタインの話するんじゃなかったんですか」

 上司は尻ポケットからくしゃくしゃに潰れたマイセンの紙箱を引きずり出して、汗で湿気た紙巻きを口に咥えた。

「火、あるか」

「ないです」

「そうか。で、その仔犬がな」

 ぱちん、とオレンジのコードが途切れる。チョコレートは依然としてハート型を保っていたが、表面にうっすらと水滴がかかり始めていた。

「こーんなちっちぇぇマメ柴だったんだよ。それがな、よくなついてきて可愛いのなんのって」

 次はどれを切ればよいのか。爆弾のタイムリミットがわからないので悠長にはしていられない。過去の同系統の爆弾の回路図を睨みつけ、しかしトラップも警戒しつつ紫と白のツイストケーブルを探す。

「あんまりにも可愛いから、あちこち連れ回してたなぁー。女子トイレに走らせて、すいませーん! 犬が入っちゃって! ってナチュラルに入ってったりなぁ」

 見つけたケーブルにニッパの刃を掛け――――俺はそこで妙な違和感に手を止めた。何かがおかしい、と理性でも本能でもない何かが語りかけていた。これはトラップだと、頭の中で声がした。手を引いて回路図を見つめ、そして今までの解体手順を頭の中で必死になぞった。

「でな、その犬なんだけどな、ある日突然いなくなっちまったんだ。方々手を尽くして探したんだが、見つからなかった。俺はこう思った。ウチはかなーり貧乏だったから、きっと親父が売り飛ばしちまったんだ、と。でも親父に詰め寄ったら親父はこう言った。いいや、売っちゃいねぇ、ってな。親父は嘘はつかない男だった。俺は悲しくってわんわん泣いてさ……そしたら親父のやつ、俺の背中を優しく叩いてこう言ったんだよ。今日はほんのちょっとだけど、肉が手に入ったんだ。今日は焼肉だ。俺は泣きながら何ヵ月かぶりの肉を食った。いやぁ、実に美味かった。やや臭みがあったし食べた事ねぇ味だったけど、美味かったなぁ。ありゃなんの肉だったんだろうな」

 しまった。これはやはり罠だ。そう気付いて、俺はチョコレート爆弾の収められたケースを、慎重にゆっくりと持ち上げた。水銀レバーが倒れないようにゆっくりと持ち上げ、その下にコンクリートブロックを二つ挟んで爆弾を浮かせた。鏡を使って爆弾の底面を覗くと、そこには六つのM5サイズのミリネジで円形の蓋が閉ざされていた。

「で、バレンタインの話に戻るんだがな、ある日俺は近所の新築で、あの仔犬そっくりの犬を見つけたんだ。もしかしたらあの日逃げ出したあいつかもしれないって思った。そいつは可愛い女の子に飼われていて、すっかり懐いているようだった。俺はそこではっとなった。このままの方があいつにとっても幸せかもしれない、と。変な肉を食わせるような家より、毎日ドッグフードをくれる家の方がいいんじゃないか、と」

 ネジ自体は左回りに、しかしネジを外す順番は右回りに。先が曲がった特殊なドライバーでゆっくりとネジを外すと、蓋が床に落ちて甲高い音が響いた。俺は思わず息を飲み、しばらく呼吸を忘れた。

「だから俺は、バレンタインの日にこっそりとその犬に別れのプレゼントをした。なけなしの小遣いで買った大量のチョコレートだ。きっと甘いもん食えて嬉しいだろうなって思って全部食わせてやったんだ。俺はすぐに逃げ帰った。そのまま嬉しそうにチョコ食ってる姿見たら、連れ帰っちまいそうになったからな。でも、俺はその後何度かその女の子を見たんだけどよ、どうしてか犬を連れてなかったんだよな。なんか悲しそうな顔してたし、また逃げちまったのかな」

「あ……ああっ!? これは!」

 俺は思わず声を上げた。鏡に映る箱の底面には、緑のギザギザが二枚納まっていた。

「チョコレート爆弾とバラン爆弾の複合……九年前にNTR(北徳島解放戦線)の天才的爆弾魔、黒井千代子と緑野棘子が最初に作ったとされる、解体不能と謳われた幻の爆弾……!」

「今日であの日から三十年か……あいつ、さすがにもう生きてねぇかな……」

 小さな隙間に納まった二枚のバランをじっくりと観察する。これは二枚のバランが互いに違った規則で円運動と左右運動を繰り返しており、通常はそれらが絶妙なタイミングで凹凸が噛み合って触れないようになっているのだが、設定した時間になると凹凸が噛み合わずに触れ合い、回路に電流が流れて爆弾が爆発するというものだ。そして、その回路はすべてこのバランの裏にあり、バランに触れればそれは爆発を意味する。

「あの……これ、どうすれば」

 どうにもならない状況で助けを求めようと振り返るが、そこにはタンクトップも、ジャージのボトムスも、便所サンダルも、湿気たマイセンもなかった。先ほどまでそこにいた上司はどこかへと消えてしまったのだ。

「そんな……こんなの、どうすれば」

 逃げるかどうか迷っていると、ケースの中からきこえる金属音が、突然に異質なものへと変化した。砂を噛ませたような不快な音。豪奢で、優雅で、卑劣で、猥褻で、乱雑で、交雑で、サイズの合わない靴を履いていたら土ふまずの辺りまで靴下がずり下がってきたような不快感に、俺は故郷に残してきた恋人の写真にヘルメット越しにキスをして、祈った。

 途端、炸裂。黒いチョコレートが融点に達さぬままその速度だけで液体に似た挙動をし、ヘルメットや耐爆スーツに対してもその相対速度によって同じ挙動を強要する。硬度を無視した侵徹作用によって、意識よりも速くチョコレートが皮膚を貫き骨を砕いて肉を撒き散らす。それに刹那遅れてバランが弾けた。

 緑色の鋭利な切っ先が、破片となって降り注ぐ。指を断ち腹を裂き臓物を細切れにして体を貫通する。真っ白な部屋の真っ白な壁に緑の破片が突き刺さって、やがてそれら破片たちは急激なエネルギーの増大によって炸裂した。




 今日増加する反リア充組織による爆弾テロは、日に日にその凶悪さを増している。しかし、彼らの真のターゲットがクリスマスやバレンタインに浮かれる若者ではなく、男気溢れるかっこいい職業で彼女を落とした爆弾解体班である事は、未だ誰も知らない。




"Northumberland county" Closed...

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