プリンスエドワードアイランド州

 炬燵に潜っていた妹は、服と下着を残して消えていた。祖父の趣味で作った掘り炬燵の中は膝を抱えれば大人でも入り込める広さがあるが、人間が一人消滅するほどの広さはない。

 俺は暑さに耐えかねて炬燵を出て、卓を外して布団を剥ぎ取り、底にある電熱器が放つ赤い光に目を細めた。その電熱器の隙間にこちらを見つめる瞳を見たような気がして、俺は炬燵のスイッチをオフにした。

 底の網に顔を近づけるが、もう瞳は見えない。俺は首を傾いで気のせいという事にし、布団を戻して卓を被せた。

 妹の下着と服を畳んで、茶を沸かし煎餅を器に開け、テレビのスイッチをオンにする。ブラウン管から投げかけられる日曜午後の国営放送ならではの静かな光と音に時折笑いを返し、手慰みにと畳んだ妹のブラジャーを手に取った。形を整えるほど胸がないくせに、なかなかに刺激的なブラジャーである。最近の中学生は、もうこんな物を異性に披露する機会があるというのだろうか。妹はもう何人の男にこの下着で勝負を挑んだのだろう。

 考えれば考えるほどむしゃくしゃしてきたので、ブラジャーの内側にからしを塗り込んだ。祖母が擦り下ろした特製和からしだ。間違っても仔猫の肛門に塗り込んではいけないというほど辛く、この下着と同じくらい刺激的だ。


 色々と考えを巡らせた結果、パンツの方にもからしを塗り込んだ。そうしたところで俺はやっと妹がこの炬燵の中で消失してしまったという事実を思い出し、とりあえず探そうと思って再び炬燵に潜ってみた。

 ふと足元から視線を感じたので底の網へと目をやると、電熱器の隙間から伸びた指が網の目を突き抜けていた。その指はゆっくりと折曲がって網を強く掴み、

「――――」

 掠れた声で何か一言か二言漏らし、底の網は電熱器ごとそのさらに奥へと引きずり込まれた。俺は瞬時に炬燵から這い出ようとするが、既に体は炬燵の中深くへ落下していた。

 どこまでも落下する。巨大な円形のチューブの中を永遠に落下し続けるような錯覚。落下が現象の終着で、永遠に墜落しないという確信があった。

「お兄ちゃん」

 探していた声に、俺は頭上を見上げた。そこには全裸に兎耳のカチューシャを添えた妹が膝を抱えて落下していた。

「お前……服くらい着ろよ」

 最初に出てきたその感想に、妹はわずかに頬を膨らませた。

「この可憐な美少女の全裸とうさみみカチューシャに感想は?」

「俺は猫耳派だ。それよりこの炬燵は?」

 妹は全裸であるにも関わらずに手足を大きく広げて、気持ちよさそうに息を大きく吸い込んだ。

「ここは楽園よ」

「楽園に続く道ではなく?」

「ここが楽園よ。永遠に過程の中を推進し、その過程の中の快楽を貪る楽園。一度引き籠ったら二度と出る事のできない、誰も引っ張り出す事のできない炬燵の炬燵による炬燵のための楽園」

 そういや妹は中学二年生だったなぁと思い出しつつ、俺はポケットからライターを探し出して、一緒に落下してきた煙草を掴んで咥えた。しかし、火を点ける前に妹は煙草を奪い取って、それを自分の頭上へと放り投げた。

「こんなところで吸ったら煙たいでしょ」

「わーったよ。でもな、そんな堂々と全裸でいるようなやつには言われたくないな」

「いいじゃん別に。誰に見られるわけじゃないし。それに暑いし」

 真冬に暖房をつけてアイスを食べる人間と同じ理論である。

「ところで、一体いつまで落ち続けるんだ。俺はもう出たい。暑い」

「暑かったら脱げばいいよ。ここではそれが許されるんだから」

「じいちゃんとばあちゃんが帰ってくるだろ」

 そう言うと、妹は表情を僅かに曇らせた。俺はその表情を見てやっと暑さで頭がやられている事に気付いた。

「……もう誰も帰ってこないじゃん」

「……そうだったな」

 全裸の妹は俺の腕に絡み付く。膨らみ未満の胸の先端部が擦れると妙な気分になってくるが、それもきっと暑さのせいだろう。

「あ、ほらお兄ちゃん。あれ見て」

 密着した妹が指差す先には、落下するブラウン管テレビ。今や通常のブラウン管よりも希少となったフラットワイドブラウン管テレビだ。

「あんなのうちにあったっけ」

「それより、映ってるもの。懐かしいなぁ」

 見慣れぬブラウン管に映る、見覚えのある光景。妹はまだ小学生になったばかりで、俺は中学二年の頃だ。

「お父さんとお母さんが死んじゃった三日後だよね」

「じいちゃんとばあちゃんが俺達を引き取った日だな。あれからもう……七年くらいか?」

「まだそんなもんだったんだねぇ」

 妹が感慨深そうに深く頷いて、ブラウン管は大気圏に再突入したロケットのように空気との摩擦熱で燃え尽きた。

「あの頃はまだ、お兄ちゃんは『お兄ちゃん』だったなぁ」

「なんだそりゃ」

「あ、ほらあれ!」

 今度は脚を絡めながら、妹は再び遠くを指差した。どこか遠く、この穴の水平方向には限りがあるのか、壁面に投影されるように憶えのある映像が映されていた。雨の降りしきる中、妹の学校に忍びこんで捨てられた妹の鞄を探している俺が映っていた。

「いつもお兄ちゃんだけは味方だったなぁ」

「まぁ……妹だからな」

 近いような遠いような、そんな具合の思い出が映っては燃え尽きる。何度かそれを繰り返す度、どんどん穴の中の温度は上がっていく。


 やがて、服に火がつくような暑さ、もとい熱さになった頃、妹が何も言わずに一点を指差した。妹はもう肉が燃え尽き骨だけになっていて、それは俺も同じであった。

「――――お兄ちゃん、あれ」

 一枚の写真。今までのどの思い出よりも鮮明に、そして鮮烈に焼き付いている記憶。妹が『妹』になった、最初の日の記憶。最初の記録。

 何もかも憶えている。産まれたばかりの妹を抱き上げた時のあの重さを。柔らかくて熱いその体を、落とさないようにベッドによじ登ってしっかりと抱きあげたその日の事を。

「まさかこんな事になるなんてね」

 何か思うところがあるのか、言葉を詰まらせながら妹はそう言った。俺はその写真に手を伸ばそうとするが、伸ばした骨だけの指は灰になり、触れる事さえできなかった。腕も、肩も、頭の半分も灰になる。それでも、どうしても触れたくて全身で飛び込むが、俺の体は骨のひと欠片も残さず、等しく灰へと還った。




■  ■




 ぼんやりとした意識が覚醒し、股間部の快感に気付いた時には快感がじんわりと脳に広がっていた。ほのかに暖かい炬燵の中から妹が顔を出し、頬に溜め込んだ何かを飲み込むと、口元を拭って不機嫌そうに朝の挨拶をした。

「あのさぁ、こういう事してる最中に寝る? フツー」

 炬燵から這い出た妹は全裸であり、自分の状態を確認すると、自分もまた生まれたままの姿であった。

「寝てたっていうか……意識トんでた」

「気持ちよすぎて?」

「わからん。なんか熱かった」

「炬燵ついてないのに」

 まぁいいか、と妹は体の上にのしかかってきた。肌が触れ合う感触も、もう特別なものではない。いつからこんな事を始めたのかはもう記憶もおぼろであるが、今ではもう日常と化していた。

 たった二人残された肉親同士という以上の関係。たった二人だけの世界がこの家に存在し、その世界が一番居心地が良い内はこの関係は続くだろう。

「なんか酷い夢を見てた気がするよ」

「どんな夢?」

 妹がそう訊いて、俺はその頭を撫でながら答える。

「炬燵の中を落ちていく夢」

「ふぅん。それって……」

 妹はもそもそと炬燵に潜った。しばらくしても出てこないので不審に思って炬燵の中を覗くと、そこには妹の服と下着だけが残されていた。



"Prince Edward Island" Closed...

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