ニーダーザクセン州
日曜日が終わり、月曜日が始まった。正確には六時間二十七分前に日曜日は終わりを迎えていたのだが、健康的な一市民にとっては一日の始まりは目覚めたその時である。
二月の冷え切った空気に瞼は凍り付き、暖かな布団は体に吸い付いている。伸ばした足が布団からはみ出てフローリングに爪先が触れると、氷の板のような冷たさにますます布団から出る気が失せるのだった。
なんとか意を決して布団から起き上がると、衣服の隙間に冷たい空気が流れ込んで一気に目が覚めてしまう。ただでさえ憂鬱な月曜の朝に、こうして大気に無理矢理起こされたように目覚めるというのは不快極まりなく、トーストに塗るバターの伸びの悪ささえ悪意めいたものを感じずにはいられなかった。
よく冷えたリモコンでブラウン管の電源を入れると、冷え切って結露した画面の向こうで朝のニュースが垂れ流されていた。今日も今日とて日本全国津々浦々の不幸エピソードを凝縮して放流しており、これもまた月曜日の憂鬱を促進させる要因の一つとなっている。母親が娘を殺し、娘が母親を殺し、若者は中央分離帯に乗り上げワゴンは潰れ、崖が崩れて民家が埋まる。これらのニュースを見て最初に感じるのは憐みで、次は安堵だ。自分じゃなくてよかった、という安堵。画面の向こうのノンフィクションドキュメンタリーを鑑賞しながら憂鬱な気分で冷めたトーストに齧りつく。喉に引っ掛かるようなぱさぱさとした食感に、さらに憂鬱は深さを増す。
朝食を終えたら歯を磨き、冷たい水道水で顔を洗う。眠気は取れても憂鬱さは墨汁を煮詰めるかの如く色を濃くしていき、シャツを着てズボンを穿いて、ネクタイを首に締めた所で憂鬱さは限界に達した。
これではまるで死刑囚だ。首を括って殺される死刑囚のようではないか、と勝手な想いが憂鬱の溜まりから溢れ出てきて、ガスから逃げるネズミのようにあちらこちらへと走り去る。そうなるとどうにもいらいらが止まず、しかし至って落ち着いているという矛盾な状態になり、静かにネクタイに手を掛けたまま、かれこれ五分も硬直していた。
やがて、意を決してジャケットを羽織ると、いつも使っている鞄の中にあれこれと仕事に不要で必要なものを詰め始めた。何をするでもない。これから、このどす黒い憂鬱にまかせて職場を完全に破壊するのだ。
■ ■
足を高らかと上げて部屋を出る。皺だらけだったスーツもアイロンをかけ、シャツにも糊を効かせ、襟はいつもより鋭く切れ味がよく、袖も腕を通す感触が心地よい。
だがそれだけだ。心の中はどす黒い憂鬱に満ちている。どこまでも深い不快。今すぐ喉が裂けるまで叫んでその喉を口から引きずり出して地面に叩きつけて踏みつけてしまいたいような、筆舌しがたい苦痛だ。
そんな苦痛も飲みこんで、可能な限りの微笑みを顔面に貼り付ける。おはようございます。こんにちは。さようなら、ごきげんよう。今なら全日本挨拶グランプリでさえ優勝できる自信がある。
だがそれだけだ。胸の奥底には木の洞(うろ)に溜まった虫の死骸が腐ったような憂鬱が干からびている。表現しがたいほどの不快。すれ違った主婦の顔面を殴り飛ばして倒れた所を頭蓋骨が砕け脳漿撒き散らし靴の裏の溝が骨粉血肉で埋まるまで何度も何度も何度も何度も踏みつけ踏みしめ踏みにじりたくなるような苛立ちだ。
そんな苛立ちを我慢して、爽やかな笑みで隣人に挨拶をする。おはようございます。ゴミ袋を片手に提げた若き隣人は、目を丸くして小さく挨拶を返した。
アパートの階段を一段ずつ足を四十五度角まで蹴りあげて降り、最後の一段はジャンプする。着地の瞬間に感じる衝撃も、無駄に筋肉を動かして感じる疲労も、全て月曜日の憂鬱と二月の朝の寒さが掻き消してくれた。
書き割の街をゆっくりと歩いていると、一匹の黒ネコに出くわした。両目が腐って落ちて眼窩から蛆が湧いている黒猫だ。
「やぁ、黒猫さん。ごきげんいかが?」
そう訊ねると、黒猫は小さな口をゆっくりと開いた。
「这是非常健康的」
「私は納豆が嫌いです」
「请杀了我」
「どうです、一緒に楽しい事をしませんか? つまらない事、くだらない事を全部ぶち壊しに行くんです」
「它不是一个厕所」
よくわからないけれど意思疎通に成功したようで、歩き始めればその後ろをおぼつかない足取りで追い始めた。
一人と一匹での通勤は新鮮だ。黒猫は伽藍堂の瞳で書き割の街を眺め、マネキンの通行人の足を器用に潜りながらついてくる。半ばでちぎれた尻尾を振って、意気揚々と抜き足差し足。虚ろなその顔は、人間と同じく月曜日に絶望しているかのようだ。
「こんにちは、おじさん」
黒猫が幼女の足にぶつかって、幼女は笑顔で挨拶した。すかさず挨拶を返すと、幼女はもう一度挨拶を返した。
「私も連れてってくださる?」
「お安いご用さ」
「きびだんごくださる?」
「お安いご用さ」
鞄の中に手を入れてきび団子を探すが、見つからない。おかしい。いつも持ち歩いているはずのきび団子が見つからない。
「どこだ!」
鞄をひっくり返して中身を地面にぶちまける。シャーペン、ボールペン、Gペン、森ペン、ペンギン、ペンペン草、ペンタグラム、ペンタゴン、ペンドラゴン、ペッサリー、コンドーム、リトルロック・セントラル高校。どこにもきび団子は見当たらない。
「いつも持ち歩いてるはずなんだ!」
「いいよ、いいよ。コロンバイン高校でいいよ」
「とりあえずこれを」
荷物の中からペッサリーを摘んで幼女に手渡すと、幼女はそれを大切そうにパンツの中にしまった。
かくして通勤の旅は一人と一匹と一幼女となった。黒猫は幼女に抱き抱えられて肛門から腐った内臓を垂れ流し、幼女はその十八本の脚が絡まないように器用に歩いている。書き割の街はそのリアルさを失い、すでに輪郭だけになっていた。
「こんにちは」
道路の真ん中で跳ねていた金魚を幼女が拾い上げる。金魚は再び挨拶をして、一緒についていくのだと宣言した。
「月曜日を潰しましょう。月曜日は害悪です」
幼女も黒猫も口を揃えて「その通り!」と言った。金魚は苦しそうにくちをぱくぱくと動かしていた。その金魚の腹がぱっくりと割れると、中から小粒の金魚が二匹零れ出て、みるみる内に大きく膨らんだ。
「さぁ急ぎましょう。月曜日が待ってます。あなたの会社で」
「やっぱり、会社に月曜日がいるんだ」
金魚は頷いて十六匹になった。
「月曜日はあなたの会社にいます。月曜日はそうやって息を潜めて待ちかまえているのです」
「なら、会社に行こう。最初からそのつもりだったけど、こうしてはいられない」
一人と一匹と一幼女と一金魚で会社に向かう。おもちゃの電車に乗って、背骨のレールを走って。
通い慣れた会社のロビーはいつも通りの騒がしさだった。外のような偽物って感じはない。スーツが肉に被さって歩いている。疲れた表情に化粧をして誤魔化し、おべっか使っていた相手の悪口を相手がいなくなった途端に始める。スイッチのオン・オフのように、正確に表情が移り変わる。そのオン・オフの集合体が生み出すこのコンプレックスは、さながら巨大なコンピュータのようだと思った。
「月曜日を殺そう」
百四万八千五百七十六金魚まで増えた金魚が少女の手や口や股座から飛び出して、月曜への恨みを口々にロビーを埋め尽くした。社員の口や鼻や肛門に入り込んで内側から肉を喰らい、一回り大きくなった金魚は再び別の獲物を探す。少女と黒猫は増えすぎた金魚を踏み殺しながらエレベーターに乗り込んで、遅れて飛び乗ると最上階のスイッチを押した。
「会社が月曜を生みだすなら、きっと社長が原因に違いない」
「青蛙尸体被困腐烂倒下的树木的树根」
黒猫は腐り落ちた顔を険しくしてそう言った。
エレベーターは最上階で電子レンジのような音を立てて停止し、一人と一匹と一幼女と十万五千六百七十七金魚が降りると同時に箱は階下へ落下した。
「おはよう○○くん。今日も仕事を頑張ろう」
顔に女性器が生えた同僚がそう言って肩を叩く。すかさず靴下を脱いで小銭と画鋲と古銭を詰めて、口を縛って思い切り同僚を殴り付けた。
同僚の頭はひしゃげて潰れて、顔面の女性器からは白い液体が迸った。顔面の膣に金魚が入り込み、内側から同僚を捕食する。
「ひ、ひあぁぁぁぁぁぁ!」
顔面に男性器の生えたオフィス・レディが金切り声を上げて全身を按摩器のように震わせ、駆け這いずり転げ回った後に窓を突き破って落下した。他のスーツ達もその後を追うように乱れ狂った後に各々窓を突き破って飛び降りるが、そうしなかった者達は金魚に食い破られ、幼女によって八つ裂きにされた。幼女は十八本の脚と三十六本の腕によってスーツ達の関節という関節をへし折り、内臓を抉り出して腸を引き延ばし散々遊んだ後で肉を喰らった。
オフィスは阿鼻叫喚。血肉乱れ飛ぶ地獄絵図。憂鬱な月曜日が生み出したソドムの市。怒号罵声命乞い。幼女も金魚もそれを気にせず、黒猫ですらスーツを殺戮していく。オートメーション化された工場のように、スーツを捕まえて処理をして終わり。そこにはおおよそ悲しみも怒りも喜びも何もない。ただ義務と衝動があるだけで、それ以外には何もない。何もないのだ。この狂った月曜日の冷たい二月の空気に晒された五分刈り頭の内側には何もない。何もないのだ。ただ何もなく、何もないがあるだけ。この何もないという虚無の代行者が一匹と一人と二千七十七億九千四百万一千二百二十八金魚なのだ。
そこからは途方もなく膨大な時間が流れた。一つのオフィスで生体系の頂点が生まれ、金魚はスーツを食い、黒猫は金魚を食って、幼女が黒猫を食う。その幼女を喰らったら、今度は何かに喰われてしまうのだろうか。
「なんて寂しい光景だろう」
オフィスに何万回目かの夕日が差し込む。まだこのオフィスに人類というものが存在した頃を思い返して物想いに耽るが、オフィスの隅で増え続ける社会人という名の脊椎動物の放つ騒音が気になって仕方がない。金魚や黒猫や幼女が食っても増え続ける彼らは、間違いなくこのオフィス生体系の柱だった。
「喰われながら交尾して、喰われながら出産する。社会人とはなんて不気味で奇怪で恐ろしいのでしょう」
幼女は長い手足を舐めて手入れし、それが済むと再び社会人を追い始めた。社会人は素早く走るために進化した長い手足と薄い体でかさかさと天井を這いまわり。体液を飛ばして応戦した。
オフィスの金魚は減少の一途を辿っていた。社会人が絶滅しかけた時、金魚の九十九パーセントは餓死してしまったのだ。残った金魚は生存競争を生まぬように増殖を控えるようになった個体であり、それ以来金魚は一日に五万匹しか増えず、その内の四万九千九百九十七匹は黒猫が食った。その黒猫を幼女が食い、幼女の排泄物や胎盤などを社会人が食う。パワーバランスが変化してもなお生体系は続き、都会の真ん中のこのビオトープの中で一つの世界が完成していた。
「なんて長い月曜日なんだ」
頭がくらくらとしてくる。眩暈に襲われ吐き気がし、腹を割って無数の幼女が生まれる。吐き戻した吐瀉物を小さな幼女たちが貪って、鋭い手足を震わせながら散り散りになった。
「そうだ、月曜日を終わらせなきゃ。月曜日を終わらせるためにここにきたんだ」
幼女と黒猫と金魚を置いてエレベーターに乗り込み、スイッチのボードを破壊する。すると、エレベーターは最上階のさらに上――――屋上に到達し、ぽつんと置かれた事務机に座る女性を睨みつけた。
「あんたが月曜日を生みだしているのか」
そう訊ねても返事はない。事務机の女性は優雅にティーカップで紅茶を嗜んでいる。アールグレイか、何かだ。紅茶はアールグレイしか知らない。アールグレイ以外の紅茶が存在している必要はない。アールグレイ以外の紅茶を飲んでも月曜日は憂鬱で、二月の朝は寒いのだ。
「所得税」
女性は悲しそうに呟いた。事務机の引き出しから猫の生首を四つ取り出して机に並べると、それらはかっと目を見開いてゼンマイ駆動で走り出す。
「住民税」
椅子を倒して立ち上がり、女性はこちらへと近づいてくる。着ている服を全て脱いで、下着も脱ぎ棄て、最後に腹に指先を突き入れて開いた。肉色の臓物が蠢くそこに、誘い込まれるように手を入れる。熱いほど暖かい大腸を掴んで引き抜くと、それはゆっくりと天まで昇っていった。
「恋人税。二日目の靴下税」
大腸から小腸。十二指腸、胃、食道。ぐんぐん天に昇る。その端を掴むと体もぐんぐん天に昇った。
どれくらい昇っただろうか。東京の二月の気温から北海道の二月の気温くらいになった頃、上昇は突然終わりを迎えた。空のてっぺんには足場があって、その天井には蓋があった。
その蓋を開くと、見慣れた部屋があった。何の変哲もない、月曜日の朝の部屋が。
そこには幼女と黒猫と金魚と女性がいた。互いに互いの肉を喰らい、血糞尿愛液に塗れて虚ろな目をしている。
「……こんなのって、ない」
時計の針が、二週目を迎えようとしている。二十三時五十九分五十八秒。二十三時五十九分五十九秒。しかし、零時零分零秒は訪れなかった。秒針も長針も短針も、全て揃う直前に全て反対方向に回り始め、再び憂鬱な月曜日が始まった。デスレースだ。
"Monday" Closed...
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