4:スタート地点(2回目)
確信が裏切られたのは、ボーリングの待機要請からおよそ二百時間が経過した後のことだった。
その間に惑星ホッフェントリッヒの空を一つの太陽と四つの月がそれぞれ五度ずつ横切り、ドロッパーは自走コンテナに格納してあったアタッチメント腕の回収を試み、諦めるに至っていた。
砂漠を掘って、鏡の下じきになったコンテナを掘り出そうとトンネルを作ったまではよかったのだが……。鏡の上にボーリングが乗ったままなのが良くなかったのだろう。途中で砂のトンネルが重さに負けて崩落するという事故が起こり、あわやドロッパーは、コンテナと同じくぺちゃんこになるところだった。
土竜のように掘り進み、どうにか砂の中から脱出したドロッパーは、ほっとして上を見上げた。
見上げたところで、ふとドロッパーは、未だに考えている様子のボーリングに不安を覚えた。
ボーリングは、もしかしたら、ずっとこのまま考え続けているつもりなのかもしれない。たとえ意図的ではなくても、内部的に
一番簡単な確認方法は、こちらから話しかけてみることだ。
だからドロッパーはそうした。
「ボーリング、何してるの?」
「うん?」
ボーリングは、会話に応じた。それで、少なくとも彼自身の意図しない問題が発生している可能性がないことが判った。
「考えている。ちょっと待ってくれと言っただろう」
「そのつもりだったけど、だいぶ時間が経ったからさ。その後、考えてみた結果、どうかな?」
「まだ途中だ」
「途中経過でもいいよ。何か分かったかい?」
「ううむ、まあ、経過を報告する程度なら構わないが……」
食い下がるドロッパーに、ボーリングは根負けしたように唸る。
「……確かにわたしの論理と、この鏡に写った姿の間には矛盾があることが分かった」
「へえ!」
ドロッパーは喜びを隠しきれずに叫んだ。
「それから?」
「わたしが見ているものの正体について考えていた」
「へえ」
またしても理解できない話に、ドロッパーの喜びは、早くも半分近く消滅した。
「それから?」
「つまり」
とボーリングは四足のうち一本を持ち上げ、軽く鏡を小突いた。彼としては器用にコツコツと鏡を示したつもりだったのかもしれないが、およそ器用さとは無縁のスペックしか持たないボーリングの足はメキメキゴリゴリ地響きを立てて、レアメタルを砂にめり込ませた。
「この見えているわたしが問題なのだ」
「鏡に写っている君の、どこに問題があるのさ」
「わたしは何を見ているのだろうか」
「……どう見ても、鏡だけど」
「いや、鏡を通して反射される光学的パタンというべきであろう」
ドロッパーは、会話の裏の意味を読み取ろうとしたが、うまくいかなかった。
何とかペースをつかもうと、話を進める。
「とにかくさ、そういう訳だから、君は機械だし、少なくとも普通言われている意味では、機械は生命ではないんだよ。鏡を見て、それがわかったろ? だから闘争なんてやめて、作業しようよ」
ボーリングはこちらの発言をきっぱり無視した。
「わたしは何を感じているのだろうか?」
「はい?」
「いまこの瞬間光学的パタンを通じて、わたしの脳に発生したものは、果たしてわたしが見ている通りのものなのか。いや、そもそも『見た』と思考している『わたしという感覚』は一体何者なのだろうか」
「君はボーリングだ」
「違う。わたしはクオリアだよ」
「クオリア」
それは確か、近代アメリカで哲学者が持ちだした類推的概念で、ほとんど証明可能な意味は持たなかったはずだ。少なくとも、ドロッパーのデータベースによればそうだった。詩的な響きのある単語だから、ロボットのネーミングには比較的頻繁に用いられたが。しかし自立型作業機械の名前としては少々不適当と思われた。
「識別名の改ざんでもしたの?」
「形而上的な意味でだよ」ボーリングはムッとした口調で訂正する。
「けいじじょうてきないみで」
ドロッパーはオウム返しにするしかない。
「作業しようよ」
「それは出来ない。わたしはこれから、どうして鏡が間違ってしまうのか、詳細な検討作業から始めねばならないのだから」
ドロッパーには、ボーリングが言わんとすることが認識できなかった。
「ええと、ちょっと待って、考えるから」
そう言って、ドロッパーは眉間に右手の人差し指を当て、左手で右腕の肘を支えた。
しかし、それでもやはりわからない。
「鏡が、なんだって?」
「間違っている」
「か、鏡が間違う?」
ドロッパーはいよいよ訳が分からなくなって、
「なんで?」
「なんでも何もないだろう。わたしは機械ではない。しかし鏡には機械が映る。これはもう、鏡が間違っている可能性を考慮しないわけにはいかないじゃないか」
「えええ」
ボーリングは、興が乗ってきたらしく、流暢に続けた。
「これは難問だぞ。何しろ有史以来、鏡が現実と違うものを映し出すという現象など、ついぞ正式な形での報告があったことはないのだからな。だが、考えてみれば古くから多くの文献が示唆されていたとは思わないか。ルイス・キャロルは言うまでもなく、多くの神話的物語が鏡と現実の姿を切り離したテキストを作り出している」
「ええええ」
「それは空想故ではなく、事実そういったことがあったということを示唆しているのかもしれない。理論的にはクオリア概念に手がかりを求めるべきだろうな。先程も少し話したが、クオリアとは、心象生活のち、内観によって知られうる現象的側面のことだ。リンゴを見て赤いと思う、その赤い感じのことをクオリアと言う。わたしの場合、現実と鏡を通して得たクオリアが一致していないことが問題となる訳だ」
「えええええ」
「これも難問だ。まさしくハードプロブレムの中核を為している命題だ。なにしろ、視覚や疑似神経系の回路自体には何の問題もないのだからな。その事は今も十二時間周期の自己完全スキャンで確認している。にも関わらず得られるクオリアが異なる。通常考えられることではない。論理的な転回が必要なのだ。どうだろうか? 考えている途中だとは最初に言ったが、今のところ良い線をいっているとは思わないか」
「ええええ、ええ、ええと……ええと……」
ドロッパーは、どうにかボーリングの言わんとするところを理解しようとした。眉間の人差し指が負荷のあまり熱暴走し、左手と右肘の動作不良を起こすほど必至に考えた。
散々考えた末に、やっとのことで自分が思考の
とりあえず、どうにか理解できた部分についてのみ、訊きなおしてみることにした。
「……十二時間周期の完全スキャンは、ちょっと頻度が高いね」
「作業をしていないので、暇なのだ」
そりゃそうだろうな、と諦め気味に結論することで、ドロッパーは再帰処理的命題の罠から無事に脱出した。
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