5年後〜エピローグ

九一は5年前に亡くなった。

検査でマインド・ボム(MB)陽性が発覚してから2か月後のことだった。


同じく陽性だったソヨンは女の子を出産し、一年後に息を引き取った。


産まれた子は幸いMBには感染していなかった。

胎児へのMB感染率は1%未満と言われていた。


子供はソヨンが使っていた日本名を取って絵美と名付けられた。


ソヨンが元気な内は彼女自身が絵美の世話をした。

石垣島から本土に戻り、新たにアパートを借りて娘と暮らした。

しかし、親子の時間はあまりにも早く終わりを告げた。

絵美が生まれて半年後に、ソヨンはマインド・ボムを発症し、入院を余儀なくされた。


絵美は敷島の手配で施設に預けられた。

アパートに二人が戻ってくることは二度とないだろう。

にもかかわらず、敷島の名義で借りたアパートを敷島は引き払わずにおいた。

もし引き払ったしまったら、ほんのわずかに過ぎないとしても希望が消え去ってしまうような気がしてならなかった。

2DKのさほど広くないアパートだったが母娘の希望の場所だったのだ。


こんなふうに敷島はソヨンを物心両面で支援した。


「あなたはいい人だ」


敷島がお見舞いに行く度、ソヨンは言った。

そして、私が死んだら絵美を頼む、と敷島の手を握るのだった。


「いい人」と言うソヨンの意見には賛成しかねたが、彼女が亡くなると遺言通り絵美を引き取った。


敷島は警察を退職をし、子育てに専念した。

とは言え、警官一筋でここまで来た彼に育児が務まるはずもなかった。


敷島は整体師のひろ子と結婚した。

長年彼女の元に通い、男女の関係にあった。

彼女は55歳の敷島より一回り若く、既婚の娘が1人いた。

かつての旦那とは娘を産んですぐに死別した。以来、再婚はせず、女手一つで娘を育て上げた。


ひろ子は再婚を考えてはいなかった。

結婚、子育てを経験し、娘も独立した今、残りの人生を散歩するように過ごしていくつもりだった。

走ることなく、ふいに立ち止まりながら、ゆっくりと歩みを進める。

それでもまだ若さが残るひろ子は敷島との関係を受け入れたもの夫婦になるとは思いもよらなかった。


絵美の存在が敷島を後押しした。言い換えれば、絵美がいなければ結婚もなかったということになるが、それを知りながらひろ子は敷島と一緒になることを選んだ。


敷島のプロポーズを断らなかったひろ子は結局、敷島が好きなのだということに気づいた。もちろんその気持ちはすでに分かっていたが、結婚してもいいとほどに愛していることに気づき、驚きさえした。


ふたりはは中古の一軒家を買い、孫のような年齢の子どもと3人で暮らし始めた。

敷島の生活は激変した。

長年、狭いアパートで一人暮らし、ろくに休みも取らず、家はほとんど寝るだけの場所だった。


それが今は、食事と会話をともにする妻がいて、子どもの泣き声が聞こえた。

テレビ以外の音が家にあふれているのが驚きだった。


まさか自分がこのような生活を送ることになろうとは思いもよらなかった。

初めのうちは家族ごっこをしているようで落ち着かなかった。

慣れるのに3年かかった。


今でも時々、平穏な日常に不安を覚えることがある。

かつての敷島にとって日常とは悲劇と同意だった。

毎日、誰かが死に、そのために悲しむ人がいる。笑う人より泣く人に彼は広く深く関わってきた。

そして、ときに悲劇を生み出すのは実の弟だった。

それを知る度に彼の胸から見えない血が流れた。


しかし、弟は死んだ。

敷島の元に平穏な生活が訪れた。

つまるところ、彼の人生の悲劇は弟によってもたらせれたのかも知れない。


敷島は今、仕事をしていない。

長年働き詰めで独り身だったため、金を使う暇がなかった。貯金はあったし、妻はクリーニング屋でパートを始めた。

彼には小さい孫のような娘がいるのだ。

妻が仕事に出ている間、誰かが見ていなければならない。


広道は敷島が退いたあと警部の地位を引き継いだ。

事件が起きると、敷島に習い、自ら現場に出向いて陣頭指揮を取った。

時が経てば経つほど敷島の凄さを身にしみて感じた。

どんなにがんばっても彼の検挙率を超えることはできなかった。


広道はときどき敷島の家で夕飯をごちそうになった。

敷島がいつも穏やかな表情で迎えてくれるのが広道にはうれしくもあり、さびしくもあった。

広道はいまだ警官であり、敷島はすでに警官ではなかった。

犯人逮捕のためなら違法捜査も厭わない乱暴な敷島が広道には懐かしかった。


敷島は毎年、お盆が来ると九一とソヨンの墓参りをした。

敷島が二人のために購入した墓だった。

敷島はそこに九一とソヨンの骨を納めた。

彼らは愛し合っていた。

それは間違いない。

マインド・ボムが愛を翻弄し、命をも奪った。


マインド・ボムさえなければ…


敷島は墓参りには必ず絵美を連れて行った。

敷島絵美、4歳。

お墓が何なのかまだ分からない。

そこに眠る父と母のことも。


でも、いつか話そうと思っている。

絵美の実の父親のこと、母親のこと。

二人が愛し合って君が生まれたんだということを。


敷島はお墓の前で手を合わせた。

目を閉じる。セミが鳴き始める。

そういえば木口が事件を起こしたのも暑い夏の最中だった。

彼は命を奪い、奪われた。

そして新たな命を与えた。

俺はその命を育もう。

そう敷島は決意した。

その命がまた新たな命を生み出すまでは。


(おわり)




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マインド・ボム 平野武蔵 @Tairano-Takezo

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