来々流さん、寝ましょう。

水池亘

来々流さん、寝ましょう。

九月二十四日(木)


 スワンボートの運転席から彼女の姿を見つける。

 赤いスーツを着て、百二十度角の眉を少しひそめながら、彼女は水面に浮かんで目を閉じている。

 沈みかけている。

 僕はあわてて彼女を引き上げる。水を吸ったスーツがずっしりと手にかかる。

「ありがとうございます」

 彼女は丁寧に頭を下げ、滴る服の水を絞る。

「しかし、助けていただかなくても問題はなかったのですよ。残り時間も十五分ほどですから」

「それはそうですが、でも目の前で水中に消えていく人間がいたら、やっぱり助けますよ」

「論理に反していようとも?」

「はい」

 僕の肯定を聞き、彼女は首を傾げる。固まる。

 あっ。

 おそらく三分は帰ってこないだろう。僕は放っておくことにする。彼女の思考を邪魔することは、あまり行いたくないことのひとつだ。

「……結論が出ました」

 やがて唐突に彼女は言葉を放つ。ふっと穏やかな笑顔を見せる。

「川谷さん、あなたはただ助けたかっただけではなくて、話がしたかったのでしょう。私と。この世界で」

 もちろん、正解だ。

「最近、外さないですね」

「他人の思考をトレースする能力は、ここ一ヶ月で飛躍的に向上しましたから。ただ、今のところ川谷さん限定の能力ですから、一般に拡張するのはかなり骨が折れそうです」

「それはつまり僕が少し変わった人間だということですか?」

 冗談、のつもり。

 彼女はまずそれを真剣な台詞として受け止め、一瞬して僕の意図を読む。そして口角を上げる。

「少し、ではありませんよ、川谷さん。あなたはとても奇妙な人間です」

「ただのニートですよ」

「根拠は明快です。私のような人間と話がしたいと、本心から考えていることです」

 その言葉に、僕は小さく笑ってしまう。

「何言ってるんですか。楽しいですよ、あなたと会話するのは」

 それだけが唯一の楽しみです。

 という台詞は飲み込む。

「楽しい、ですか。私があなたを楽しませる要因はいったい何なのでしょう。教えていただけませんか」

「わかりませんよ、そんなこと」

「解析すれば必ずいくつかの原因を抽出できるはずです」

「無理ですって。僕は論理的な人間じゃないんです、来々流くくるさんと違って」

「そ……う、ですか」

 勢いがふっとなくなり、彼女は首を傾げる。

 あっ。

 もう遅い。彼女は固まってしまっている。


   *   *   *


 だらだらと目覚めの遅い生活を続けて早三ヶ月、ぼんやりした目つきで布団にくるまった僕に母が投げてよこしたのは一枚のチラシだった。

「もう六月だよ。働く気がないのかしらんが、金は毎月入れてもらうからね」

 僕はハイと気弱に返事するしかない。ひとりで部屋を借りるよりは大分安い金額で、三回食事と洗濯付きだ。文句を言えば殺される。

 高校卒業から流れるように大手企業の事務職に就き、六年間、それなりに上手く回せていたと思う。このまま精密な歯車としてずっと生きていくのだと、そう信じて疑っていなかった。課長に肩を叩かれるまでは。

 この機会に大学に行ったらどうか、そう提案したのは父だ。金は全て受け持つ上に今後払い戻す必要もないという、我が家の家計事情からすれば破格の条件まで付いていた。僕は即座にノーを告げて腹を強めに殴られた。

 勉強なんて大嫌いだ。

 もう少し正確に言おう。

 勉強をする理由がさっぱり見あたらない。

 そんなことしなくても、現に僕はこうして生きていけている。

 生きていけていた。

 貯金がそろそろ底をつく頃合いだった。

 はあ。

 僕はゆっくりと体を起こし、居間へ消えた母の忘れ形見を指でつまみ上げた。

『睡眠従事者募集のお知らせ』

 お堅い文字でそう書かれている。右下には厚生労働省のロゴが印刷されていた。

 睡眠従事者?


   *


睡眠従事者募集のお知らせ


 この度新規に行われる事業のため、短期従事者を若干名募集いたします。


【応募資格】

・三十歳未満。性別不問。

・十分に健康体であること。(採用選考時に健康診断を受けていただきます)

・すみやかに睡眠につくことができること。(必須ではありません)

・長時間の睡眠が苦痛でないこと。(必須ではありません)


【勤務内容】

・一日につき約二十一時間の睡眠を行います。

・睡眠時には専用の機械を頭部・右胸部・下腹部へと取り付けます。

・覚醒時には所定の食事を取り、一時間前後の運動を行います。


【勤務場所】

・国立睡眠科学研究センター(港区に新設)


【勤務形態】

・住み込み(約十五平方メートルほどの個室。持ち込み自由。休日の外出可)


【勤務期間】

・本年七月~十二月


【給与】

・月給五十万円


【注意事項】

・本業務の遂行にあたって健康には万全を期しておりますが、不測の事態等により体調が悪化する可能性がありますのでご了承ください。


   *


 運が良すぎますね、とその女性は無表情で言った。

「倍率知ってますか? 千、越えてるんですよ」

 大規模に募集をかけたわけでもなかったのに、一万人以上の応募者がいたらしい。口コミの影響力が甚大な時代に僕たちは生きている。

「川谷さん」

「はい」

「胸をじろじろと見るのは止めてください。クビにしますよ」

「は?」

 もちろん胸など凝視してはいない。たしかに幼い顔のわりに大きいとは思うけれど。

「だから見るなと言っている」

 ギラリと瞳が光る。僕は黙って堅い空気を飲み込む。

「……すみません」

「川谷さん、今『なんだこのクソブス』って思っているでしょう」

「思ってませんよそんなこと!」

 僕は反射的に叫んだ。実際彼女はかなりかわいい部類に入る。

 彼女は少し驚いたように僕を見つめた。そしてニヤリと笑って僕の肩を叩いた。

「ふふふ、これでもね、私、二十後半なんですよ。どうだ、若く見えるだろう」

「知らねえよ!」

 思わず声を荒げる。

「はいはい。まあこんな冗談につき合えるのなら、リラックスしている証拠です。ではこれを」

 彼女が差し出したのは三錠の白い薬だ。

「なんですか、これ」

「睡眠導入剤です。とっとと飲んでください」

 コップに水を注いで僕へと手渡す。言葉に似合わず丁寧な仕草だ。

 言われるまま、僕は目をつむって飲み干す。

「アメリカじゃ市販されてる薬ですよ。完璧に安全です。たぶん」

「たぶんとか言わないでくださいよ……」

 返事をせず彼女はベッドを指し示した。

「横になってください。端子を取り付けます」

「端子?」

「これで睡眠を吸い取るんですよ」

 見せられた端子は心電図を計る際に付けるものとそっくりだった。

「睡眠を、吸い取る?」

「吸い取ります。十五時間分」

 全く意味がわからない。

「何を言っているのかさっぱり理解できないんですが」

「そうですか。知りません」

 有無を言わせぬ空気に気圧され、僕は押し黙って上着を脱いだ。的確な手さばきで端子が次々取り付けられていく。

「次はパジャマを着て、紙おむつをつけてください」

「は?」

 おむつ?

「今から二十一時間眠るんですよ。まず確実に漏らします」

「その前に目が覚めそうですが」

「そうならないようにこれを被せます」

 彼女は黒いヘッドギアを僕に手渡す。コードがいくつも紐付いている。

「それもまた睡眠抽出用の装置ですが、同時にあなたを夢の世界に引き留めるものでもあります」

「ちょっと、あの」

 右手を掲げて発言を遮る。

「さすがに怖すぎます。もう少しきちんと説明してください」

「詳しいことは目覚めてからそこの冊子を読んでください。まあ、体験した方が早いですよ」

 ふふっと笑う。少し、面白そうに。

 やっぱり怖いって。

「ではそのまま眠ってください。そろそろ薬も効いてくる頃合いですよ」

 パチンと部屋の明かりを消した。

「おやすみなさい」


   *


 そして僕は低い機械音の唸る部屋で夢を見る。

 二十一時間の夢を見る。


   *


 目覚めてすぐに思ったことは「喉が渇いた」だった。

 小型冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して一気に飲む。直後に尿意が我慢できなくなった。トイレに駆け込みズボンを脱ぐ。紙おむつが目に入って僕は大きくため息をついた。それは水分を含んで重くなっていた。

 全身を倦怠感が貫いていた。長く眠っていたはずなのに、脳のすっきりする感覚がない。

 しばらくぼうっとしていると、部屋をノックする音がした。現れたのは昨日とは別の看護師だった。

「変わってたでしょう、安達さん」

「安達?」

「昨日の人ですよ。行政方面の担当官で、週に一回、派遣で来てるんです」

 なるほど。とりあえず研究者=変人、と思っておくことにする。

 看護師は冊子を片手に、業務の説明をしてくれた。

 あなたは二十一時間眠ったが、その内十五時間分は機械により吸収されているため実際に睡眠効果があるのは六時間程度である。今後睡眠不足になることも考えられるので、休日には九時間以上の睡眠が推奨される。

 また長時間横になる生活が続くので、体力と筋力が急激に低下していく。よって毎日、施設内の簡易ジムにて一時間の運動が義務づけられる。また休日には積極的に外へ出歩くと良い。

 さらに、睡眠中は水分を取ることができないので、起床直後は軽い脱水症状になる。また栄養失調に陥る危険性もある。そのため運動後はこちらで提供する飲食物を必ず全て摂取しなければならない。特に水分は多めに飲んでおくこと。就寝中に排尿してしまうことは生理的に自然であり特に問題はない。

 睡眠時の体調は機械により綿密に環視されており、不測の事態があれば即座に看護師が駆けつける体制が整っている。これは重度の入院患者と同等の待遇である。

「質問はありますか?」

「あの」

 僕はおずおずと口を開く。

「もしかして、これ、かなり大変ですか」

 その言葉に、(ああ、この人もか)といった表情を看護師は見せた。

「当然、大変ですよ。これは仕事なんですから」

 それも、高額のね。

 見下すように看護師は笑った。


   *


 想像通り、大変だった。

 想像以上に、大変だった。

 ヒマなのだ。

 とても。とても。とても。

 そんなわけないだろう、ほとんど寝ているのだからあっという間だろう、と思う人は一度、『起きている時間より眠っている時間の方が圧倒的に長い生活』というものを体験してみればいいのだ。

 まず、全ての夢が明晰夢となる。

 明晰夢とは、今自分が夢の中にいるとはっきり認識することのできる夢のことだ。一般にはほとんど見たことがない人の方が多いだろう。僕も今までは知識でしか知らなかった。

 あまりに長い時間夢の中に居続けると、どうしたってそこが夢だと気づいてしまう瞬間が来る。普通はそれがイコール起床のタイミングとなるのだが、僕の場合、二十一時間経つまで目覚めることができない。明晰夢となったまま、夢が続いていく。

 そんな夢を一週間ほど見続けた結果、眠った瞬間に明晰夢とわかるようになった。

 明晰夢では現実の法則を超えた行動がいくらでも可能だ。空も飛べるし、ビームも打てる。別人に変身することだってできる。そしてそもそも夢なのだから、世界そのものにも奇妙なことがわんさか起こる。理屈の通らない世界で、理屈の通らない言動を再現なく体験できるのだ。楽しそうだろう。僕も当初は楽しかった。

 だがその世界は目覚めれば全て消滅する。

 なかったことになる。

 僕の記憶の中だけに残り、現実世界には何の影響も及ぼさないまま闇に消える。

 僕がそこで生きた痕跡と共に。


 虚しいじゃないか。

 そんなの。


   *


「気分が優れないようですね」

 一週間ぶりに来訪した安達さんはやっぱり童顔のままだった。それと巨乳。

「管理データを見る限り、健康には問題ないみたいですが」

「そうですね」

「まあ精神的なものですか。想定内です。ここまで詳細に夢を覚えていることは、ちょっと驚きましたけれど」

「え?」

 普通のことだと思っていた。

「ほとんど忘れる人の方が大半ですよ。あなたはかなり特殊な人物のようです。よかったですね。癪です」

「癪ってどういうことですか」

「そのままの意味です」

 無表情でぺろりと舌を出す。彼女の方がよほど特殊だと思う。

「川谷さん、あなたにはもう一つ仕事を頼みましょう」

「嫌です」

「月収五十万ですよ。仕事です」

 僕は露骨にため息をつく。

「何ですか、内容は」

「毎朝起きたら、夢の内容を日記に書いてください。できるかぎり、克明に」

「それをやったら目覚めてる間には終わらないですよ」

 言うと、彼女は少し目を見開いた。

「へえ、本当に細かく覚えているんですね。じゃあ印象的な部分だけでかまいません。ひとつの出来事を、深く書き込んでください」

「できなくはないですけど、嫌ですよ。他人に見せるものじゃないです」

「見せなくてかまいません」

 彼女は当然のように言う。

「日記はあなただけが見るためのものです。提出の必要もありません。ただ、サボるのだけは、なしですよ」

「そんなの、」

 何の意味もないじゃないですか。

 と言おうとして、直前で留まった。

「……わかりました」

「おや、素直ですね」

「だって、仕事ですからね」

 僕は素直でない台詞を吐く。


   *


七月二十四日(金)


 街の喫茶店に入りアメリカンコーヒーとベイクドチーズケーキを頼む。運ばれたコーヒーは巨大な杯に入れられている。横綱がよく酒を飲んでいるあれだ。あれに、黒い液体が並々と。僕はそれをゆっくりと飲み干す。なるべく時間を消費するように。

 対角線上の席で赤いスーツ姿の女性が文庫本を読んでいる。またか、と僕は思う。僕は彼女を知っている。夢の中で、二度見かけたことがある。

 毎日見る夢はどれも異なった世界だ。設定も話も共通しない。もちろん知人は度々登場するが、しかしこの女性とは現実世界で出会ったことがない。全く接点のない、赤の他人なのだ。それが複数の夢に同一存在として登場する。まるで何かの印のように、赤く。

 だんだんと僕は彼女の存在が気になりだしている。

 彼女が本から顔を上げる。

 ちらりとこっちを見た、ような気がする。

 気のせいかもしれない。

 気のせいだ、きっと。

 彼女は立ち上がる。会計もせずに店を出る。僕の視界から消える。

 そして僕は文庫本のタイトルを見逃していたことに気づく。


(メモ:初めての夢日記。こんな感じでいいのだろうか。苦痛ではない。とりあえず続ける)


   *


八月十二日(水)


 商店街でたこ焼きを買う。中に入っている蛸は明らかに蛸ではない別の生物の感触なのだが味は良かった。もうひとパック買おうか。ひとしきり悩み、結局止めて立ち去る。もう二度と味わえないだろう謎の触感よ、さらば。

 次の瞬間、赤いスーツ姿とすれ違う。

 僕は振り返る。

 弾かれたように。

 早歩きの彼女の背中はもう人混みに紛れそうになっている。僕はあわてて追いかける。考える余裕もなく走っている。

 路地の角を曲がる。狭い通路を抜ける。ガードレールを乗り越える。

 少しずつ距離が離されていく。彼女の姿が小さくなる。僕は思わず声を上げる。届くように叫ぶ。振り絞る。

 話がしたいと、強く思っている。

 そして不意に、彼女がその場に立ち止まる。くるりとこちらに体を向ける。

 息を大きく吸い込む。

「申し訳ありません! 次の機会にご挨拶しますので!」

 そしてぴょんと車道に跳ぶ。走るトラックの背中に両手で捕まる。あっという間に彼女は視界から消える。

 追いかけることは、まだまだ可能だろう。

 けれど、彼女は『次』と言っている。

 僕の存在を連続的に覚えてくれている。

 だったら。

 僕はその場に座り込んで太陽を見上げる。次のまだ見ぬ夢の世界の彼女を空想する。

 

(メモ:最近は夢日記を唯一の楽しみに生きている感覚すらある。こんなポエムは他人には見せられないが……)


   *


 お盆休みの日曜日、僕はベッドの上でごろごろと寝ころんでいた。

 看護師は「休日くらい外に出たら?」と勧めてくるのだが、休日くらいこちらの自由にさせてほしい。仕事として寝ることと休みとして寝ることは全く別の行為なのだ。

 とはいえ惰眠にもそろそろ飽きた。僕はテレビの電源を入れる。公共放送で、地味な番組が流されていた。新時代を担う科学者たちの特集だという。

 そこに赤いスーツ姿の女性がいた。

 僕は跳び起きてテレビを凝視する。まぎれもなく、夢の中の彼女だった。

 彼女はヴァーチャルリアリティに関する研究者の中でも特に革新的な発表を次々行っており、今もっとも期待されている若手であるとのことだった。

「毎日が本当に忙しく、そして充実しています」

 スピーカーを通して聞く彼女の声は、あのとき僕に叫んだ声と、やっぱり同じ響きをしていた。

「やるべきこと、やらなければいけないことはもちろん山積みです。しかし、それ以上に、やってみたいと思うことが抱えきれないほど存在しています。睡眠する時間さえ惜しいのです。眠らなくても良い人類に進化すればいいのに、と考えることさえあります」

 そう言って彼女はふふっと笑う。どうやらそれは彼女なりの冗談であるらしかった。

 彼女の名前は、芦之谷来々流あしのやくくる

 その名前を僕は頭に刻みつける。

 芦之谷来々流。

 あしのや・くくる。


   *


八月二十七日(木)


「芦之谷さん」

「下の名で呼んでくださいませんか、前にお願いしましたように」

「ああ、すみません。では来々流さん、貸出処理をお願いします」

 僕が差し出した一冊の本を、彼女は笑顔で受け取る。

 端が見渡せないくらいに広大な図書館で、彼女は司書になっている。赤いスーツ姿はそのまま。場の雰囲気からは、少し浮いている。

「先日、私がおすすめした本ですね」

「はい。せっかく見つけたんで」

「しかし現実で読んだことはないのでしょう」

「そうですね」

「ではその本を信用してはいけません。似て非なる別物、夢の世界でしか通用しない紛い物です」

「わかってますよ。でもヒマつぶしくらいにはなります」

「ヒマ? ヒマとはいったい、何なのでしょうか」

 彼女は首をかしげる。そのままの姿勢で、動かなくなる。

 何か考えこんでいるらしい。僕は黙って彼女の次の言動を待つ。

 待つ。

 待つ。

 待つ……、あれ?

「来々流さん?」

 呼びかけても反応がない。

「来々流さん、来々流さん!」

 僕は語気を強め、彼女の肩を叩く。揺する。

「はっ!」

 飛び跳ねるように彼女は覚醒し、あたりをきょろきょろ見回して、「ここはどこです?」と子供のような口調で僕に尋ねた。

 こんな態度の彼女は初めて見た。会話するようになって、今日でもう三回目なのに。

「大丈夫ですか、来々流さん。ここは図書館で、夢の中で、そしてあなたは司書です」

 口にしてみて、改めてわけがわからないなと思う。

「あ、ああ……そうでした、ね」

 深く息を吐く。吸う。右手で顔を一回撫で、ようやくしっかりしたいつもの瞳で僕を見つめる。ぺこりと小さく頭を下げる。

「深く考え込んだ際に、外部から見るとフリーズしたような状態になることがあるそうです。自覚症状はありませんが」

「ちょっと怖かったですよ、何か体に不味いことが起こったんじゃないかって」

「申し訳ありません」

「いえ、謝るようなことでは……」

「私の謝罪によって、あなたの満足度が少しでも高まればと思いましたので」

「ちょっと。何ですか、それ」

 僕はむっとして彼女をにらみつける。

「馬鹿にしてるんですか。謝られたことで、むしろ少し不快になりましたよ、僕は」

「そのようなことがあるのですか」

「あるんです」

 僕はきっぱりと断言する。彼女は首をかしげる。動かなくなる。

 えっ。

 動かなくなっている。

 再起動は、五分ほど経ってから。


   *


 淡々と繰り返される仕事生活の中でアクセントとなるのは、たびたび夢に現れる来々流さんの存在と、そして週に一度だけ現実で顔を見せる童顔の担当官だ。それと巨乳。

「どうですか、気分は」

「そんなに悪くはないですね」

「自覚がないだけかもしれません。川谷さん、そういうとこあるから」

「どういうとこだよ!」

 安達さんはふふっと口角を上げて笑う。そんな仕草だけ、来々流さんに似ているように思ってしまって少し罪悪感を覚える。誰に対するどういう理由の罪悪感なのか、それはよくわからない。

「まあでも真剣な話、開始して二ヶ月も経つと、多くの人が精神的に参ってしまうんです。もう耐えられない、今すぐ辞めたいって人もいます」

「そういうときって、どうするんですか」

「希望通り辞めてもらいますよ。健康第一ですから」

「はあ」

 それはホワイトなことですね。

「だからね、川谷さん。あなたが見えないストレスを抱えている可能性はかなり高いんです。根拠のない話じゃありません」

「でも、本当に平気ですよ。そりゃあ退屈だったり苦痛だったりはしますけど、耐えられないほどでは」

「ふうん」彼女はペンを報告書から離してふらふら回した。「もしかしたら、川谷さんが夢の内容を覚えていられることと関係あるのかもしれません」

「え?」

「ないかもしれません」

「どっちですか」

「わからないです。でも他人と違うのはその点くらいでしょう。夢日記はきちんとつけていますか?」

「一応」

「見せてください」

「嫌ですよ! 話が違う!」

「冗談です。どうせ読むに耐えないポエムみたいな文章でしょうし」

「そ、そんなこと……ないですよ?」

 僕は曖昧に笑って目をそらす。

「ふふ、まあいいでしょう。精神の不調を感じたらすぐに伝えてくださいね」

 そして彼女は無表情のまま言った。

「特に、夢を見るのが嫌になった場合には」


   *


九月二日(水)


 僕が三日月に腰掛けていると向こうの漆黒からゆらゆらと漂う存在がある。想像通り、赤いスーツを着ている。太陽光のダイレクトな反射により、それはまぶしいくらいの紅色に光っている。

「あら、川谷さん。またお会いしましたね」

「こんなところでも会えるものなんですね」

「空気すら吸えない場所ですのにね」

 言って彼女は深呼吸する。この宇宙空間に空気が存在しないのだとすると、今彼女が吸っているものはいったい何なのだろう。

「それはおそらくエーテルです」

「エーテル?」

「冗談ですよ」

 彼女はふふっと笑顔を見せる。

「意外と冗談が好きですよね、来々流さん。テレビの番組でも言ってましたし」

「テレビ? ああ、川谷さんからお話いただいた」

「初回でしたね、たしか」

 目覚めたら夢日記を読み返そうと思う。八月十七日。記念すべき日。

「テレビジョンの取材は、あまり好ましいものではありませんでしたが、それは私個人の性質に起因するものであって、スタッフの方々に非はありません。場を和ませようと冗談を言ってみたりもしたのですが、彼らには理解されなかったようですね」

「わかりづらいんですよ、あなたの冗談は」

「経験から判断するに、そのとおりでしょう。他人の反応を予測することが私には少々難しいのです」

 彼女は少し顔を歪める。

「でも、あれは冗談とも言えないですよね、来々流さん」

 あの番組で、彼女は『眠らなくても良い人類に進化すればいいのに』と言った。

「来々流さん、あなたは、既にそういう進化が近い時代になっていることを、知っていたんじゃないですか。というか、もうあなたはそうなっているんじゃないですか。たぶん、薬の力で」

 僕の言葉を聞いて彼女は少し驚いたように瞳を見開く。僕の表情をよく見ようと、顔をこちらに近づける。

「……睡眠提供者には詳細は語られないと伺っていましたが、川谷さん、あなたには大体の予想がついているのですね」

「はい」僕は改めて彼女に向き直る。「答え合わせしてもいいですか」

「聞かせてください」

「といっても一部だけですけどね。現実の図書館で、ちょっと調べてみたんです。そして、ある報告書を発見しました」

 それは睡眠時間を薬品に変える技術に関するものだった。

 要約は以下の通り。


 人間の生きる時間において、その約1/3を睡眠に当てていることは非常に大きな損失である。仮に睡眠時間をゼロにすることが可能になれば、一日あたり24÷16=1.5倍の時間を生産的活動に当てることができる。すなわち体感時間において1.5倍長生きすることができる。

 しかし多数の実験を行った結果、電気刺激や人口薬物等で強制的に睡眠時間を減らすことは人体に大きな負担をかけてしまい、結果的に寿命を縮めてしまう、あるいは正常な生産的活動が行えない状態に追い込んでしまうということが明らかになった。睡眠に代えられるものは、睡眠しかないのである。

 そこで我々は発想を転換し、睡眠時間を抽出・貯蓄する技術を開発した。たとえばあなたが十時間眠りにつき、そのうち四時間を貯蓄したとする。するとあなたの体と脳は六時間分の休息を得る。貯蓄した四時間は特殊な機器とノウハウにより錠剤の形に変形される(以下これを睡眠剤と呼ぶ)。それを飲めば、あなたの体と脳はたちまちのうちに四時間分の休息を得る。全く時間を消費せずに、四時間寝ることが可能になる。

 特筆すべきは、睡眠剤は貯蓄者と別の者が飲んだ場合にも同等の効果が得られるという事実だ。つまり、他人の睡眠を摂取することで、全く眠らずに生きることのできる人間が誕生するのである。

 今後は睡眠剤を最先端の研究者や各国のリーダーなどに提供することで、人類の発展速度を飛躍的に高められると予想している。


「この報告書から考えるに、おそらく厚労省は、僕や他の睡眠従事者から抽出した睡眠を元に薬を作り、科学者たちに提供しているということでしょう」

「その推測で大半は間違っていません」

「薬、本当に効くんですか?」

「ええ。一錠で五時間分の睡眠効果が得られます。彼らの成果は間違いなく有意であり、現在もっとも注目されるべき研究の一つです」

 まさに夢のような話だ。

「とはいうものの、実用されるまでにはもう少々時間がかかるでしょう。今は希望者を募り投薬効果の検証を行っている段階です」

「じゃあ来々流さんはそれに手を挙げたわけですね、実験台となっても良いと」

「はい」

「怖くはないんですか。どんな副作用があるかもわからないのに」

「動物実験は長い時間をかけて十分に行われてきていましたし、それらが適切なデータであることも複数の再現実験から確かめられています。私の方でも簡易検証を行いました」

 抜かりはないのか。さすがの来々流さんだと思う。

「しかし何より睡眠時間をゼロにするという効用は、危険性を越えて余りあるメリットです」

「そう、そこがわからないんですよ」

 僕はつい口を挟む。

「来々流さんが本当に眠っていないのなら、夢も見ないわけでしょう。しかしあなたはここにいる。この夢の世界で僕と話をしている」

「その理由は単純です。少しは眠っているのですよ。やはりまだ薬品が完全ではないので、本当に全く眠らないということはできないのです」

「ああ、それは本当に単純ですね」

「平均して一日に一時間前後は眠っています。もう時間がないと、あなたと別れることが多いでしょう。あれは目覚めの時間が近づいているからなのです」

「なるほど」

 僕は納得して頷く。だが、疑問はこれで終わりではない。

「もうひとつ、訊きたいことがあります」

「かまいません、十五分以内であれば」

「それは良かった」

 そして僕は問う。いくら考えても、答えの出なかった謎を。

「来々流さん、あなたはどうして僕の夢に登場できるんですか。普通、夢というのはその人にしか見られない固有の世界のはずです。他人の夢に参加するなんて、おかしいでしょう。いったいどうやってこんなことをしているのですか」

 彼女は即答する。

「不明です」

「えっ」

「私の意思ではないのです。眠りにつくと、時たま、自然とあなたの夢とリンクしている。ただそれだけのことなのです」

「そうなんですか……」

 予想外の答えに、僕は少し肩を落とす。

「ですが、推論を述べることはできます。聞きたいですか? 少々長くなりますけれど」

「ぜひ!」

 彼女の推論であれば、きっと真実とほぼ同じものだろう。

「わかりました」

 彼女は言葉を一旦切って、僕の隣に腰掛ける。バランスを崩した三日月がぐらりと傾いて黄色く光る。

「川谷さん。夢というものの正体について、考えたことはありますか?」

「へ?」いきなり問い返されて僕は吃る。「あ、いや、ありませんけど、脳が作り出した単なる妄想じゃないんですか?」

「一般的にはその説が主流だと思われます。しかし近年、新たな説が有力視されはじめているのです。それが『上層無数世界チャンネリング仮説』です」

「じょう、そ、……はい?」

「簡単に言えば、この世界から一つ上のレイヤーに天文学的な数の世界が同時並行的に存在していて、私たちは夢を見ることでその中の一つにアクセスしているのではないかという仮説です」

「はあ」

 なんだか壮大な話になっている。

「テレビジョン番組の構造を想像すればわかりやすいでしょう。特に最近は数え切れないくらいの放送局が存在していますよね。私たちは新聞の番組欄やネット上の事前情報や自らの趣味思考などを元に、そのうちの一つを選択してチャンネルを合わせます。夢も、あるいはそれと同じことをしているのではないか、無意識的に世界のチャンネルを合わせているだけなのではないか、ということなのです。ただし世界の数があまりに多いため、二度と同じ世界に行くことはできないわけです。このような仮説が、今真剣に研究されています。どう思われますか、川谷さん」

「いや……ちょっと、それこそ夢物語というか……」

「しかしこの仮説が正しいとすると、私と川谷さんの夢がリンクすることにも、説明が付くように思うのです」

 彼女はちらりと時計を見る。デッドラインまで、あと五分強くらいだろうか。

「おそらく、私の飲んでいる睡眠剤は全て川谷さん由来のものなのでしょう。あなたの睡眠を摂取することで、私は疑似的にあなたと同一の眠りについています。もちろん実感はありませんが、体にはその経験が少しずつ積み重なっていて、結果、夢を選択するチャンネルが、あなたのチャンネルと同期しているのではないでしょうか」

「それは……」

「信じ難い話でしょうか」

「いえ、ということは」

 反射的に僕は口にしていた。

「あなたがこれからも睡眠剤を飲み続ける限り、僕はまたあなたと会うことができるんですね。仕事が終わる十二月までは、あなたと会話できるんですね」

「仮定が正しければ、そう帰結されます」

 それは、

 逆に言えば、

 この出会いもあと三ヶ月ということだ。


 彼女は一分後に宇宙を泳いで去る。


   *


「あなたの業務は九月で終了することになりました」

 そう告げる安達さんの顔はかつて見たことがないほどに落ち込んでいた。

「申し訳ありません」

 深く頭を下げる。

「いや、ちょっと、とりあえず顔上げてください」

 僕は椅子に座るよう勧める。彼女は少し逡巡し、そしてゆっくりと腰掛けた。

「理由を教えてください」

「六ヶ月という期間は健康面を考慮すると長すぎると、上の方で判断されました。従事希望者が後を絶たないという事情もあるみたいです。決して、あなたのせいではありません」

「それにしても、急すぎる。今日は九月の二十五日ですよ」

「本当にすみません。私も反対しようとしたんですが……」

 彼女は本当にしょげ込んでいて、見ているこちらが申し訳なくなってしまうくらいだった。

 僕は怒ってもいいはずだった。けれど、そんな気分にはとてもなれなかった。

「元気出してください。しかたのないことなんでしょう。あなたが罪悪感を感じる必要なんてありませんよ」

「そうでしょうか」

「そうです」

 僕は断言した。

「そう言ってもらえると、少しは気分がまぎれます」

 彼女はぎこちない笑顔を見せる。

「こちらの都合で辞めてもらうので、十月分までは給料をお支払いします。また、十月の後半に一度だけ予後経過の診察を行います。すみませんが、都合の良い日にこちらまでお越しください」


 そうして僕は、あっさりとまた無職に舞い戻ったのだった。

 心の準備のひとつすら、させてもらえずに。


   *


九月三十日


 今日も来々流さんには会えなかった。

 それ以外に書くことはひとつもない。


   *


 十月になって、もちろん僕は様々なアプローチを試した。

 まず来々流さんの在籍する大学研究室に電話をかけた。僕の名を告げると、「確認を取って折り返し連絡する」と切れた。連絡は来なかった。大学の事務室にも電話したが全く同じ対応を取られた。

 次に、公開されている来々流さんのアドレスにメールを送った。一週間待ったが返信は届かなかった。

 来々流さんは夢の内容を全て忘れてしまっているのかとしれない。

 そうも考えてみたけれど、彼女との会話を読み返すかぎり、その可能性はありえないように思えた。僕の存在を、欠片も覚えていないとは考えにくかった。考えたくもなかった。

 埒が開かないので直接会いに行くことにした。大学のキャンパスは北海道にあり、飛行機で行くしかなかったが時間も金も僕には有り余っていた。『芦之谷来々流』と書かれた教授室のドアを、一分ほども呼吸を整えてから叩いた。出てきたのは初老の女性だった。自己紹介すると露骨に不快な顔をした。

「あなた、わけのわからないメール送ってきた人でしょう。先生は全く何も知らないとおっしゃっています。お引き取りください」

「そんなことはないはずです」

「お引取りください」

 取り付く島もない態度だった。

「一度だけ、一度だけでも会わせていただけませんか。会えばきっとわかるはずなんです」

「あまりしつこいと係の者を呼びますよ」

 実際に係の事務員がきっちりと呼び出され、ゴネる僕を引きずって警察に受け渡した。僕は始末書のようなものを書かされ、そして日の落ちた路地に放り出された。雨が激しく降っていた。僕は濡れた体であてなく札幌の街をさまよった。傘を差すことなんて思いもつかなかった。


 策の尽きた僕は抜け殻のようにひと月を過ごし、そして月末になってようやく、診察に行かなければならないことを思いだした。


   *


「うーむ」

 診断レポートを見ながら安達さんが唸る。

「悪いですね。業務が終わってから体調悪化するなんて、普通はないんですが」

「はあ」

 返事に気が抜けていることが自分でもわかる。

「アンケートも見ましたが、生活リズムがめちゃくちゃじゃないですか。食事もろくに取ってないですし、具合悪いのも大半そのせいです」

「興味ありませんから、自分の健康なんて」

 僕は自嘲気味に笑う。

「安達さん、睡眠従事者に、また雇ってくれませんか」

「一度採用した人はお断りしているんですよ、すみません。そんなにお金に困ってるんですか?」

「お金なんていりません。休みもなくていいです。ただ、もう一度、あの生活に戻りたいんです」

「腕の良い心療内科を紹介しますね」

「ああ、それもいいかもしれません」

 安達さんは黙ってじっと僕を見つめた。

「……何かあったんですか、川谷さん」

「ありましたよ、たくさん」

「話を聞く用意はありますよ」

「少し長くなるかもしれません」

「かまいません。それが仕事です」

 彼女はニヤッと笑った。変人ではあるが、きっとそんなに悪い人ではないのだろう。

 なら、いいか。

 僕は鞄から一冊の鍵付きノートを取り出した。もはややぶれかぶれの気持ちだった。

「これは……」

 彼女は察した様子で、「いいんですか?」と確認した。

「はい。全部読んでください。お願いします」

 そして僕は鍵を開ける。カチャリと軽い音がする。


「……なるほど」

 一時間以上もかけて、彼女は丹念に夢日記を読み進めた。やがてぱたんと本を閉じ、顔を上げて納得したように頷いた。

「すごく興味深い事例ですね。少なくとも私は聞いたことがないです」

「そうなんですか」

「途中で『睡眠剤によって同じ夢のチャンネルに同期した』という仮説がでてきますが、通常は、一人の睡眠から作られた薬のみが届くということはないんですよ。複数人の由来の薬が一定のバランスで混ぜられた形で処方されます。これはルールとして定められています」

「じゃあ、どうして、来々流さんは」

「それは知りませんが、何か手違いがあったのか、そもそも仮説が間違っていたのか……」

 彼女は少しの間、考えるように首を傾げていた。日記に書かれていた来々流さんのクセを真似しているように見えるのが少しユーモラスだった。

「うん、まあやっぱりわからないですね。それで川谷さんは、もう一度来々流さんと会いたくて、つての唯一ありそうな私に話をしたと、そういうことですか」

 僕は無言で頷いた。

「残念ですが、私は薬の提供者とは何のつながりもないんです。たしかに私は薬を作ってはいますが、木っ端現場の声なんて全くどこにも届かないんです」

「……そうですか」

 半ば、予想していたことだった。

 それでも、実際に行き止まりを目の当たりにすると、体のあちこちが締め付けられるように痛んだ。

「がっかりさせましたね」

「いえ、無理を言っているのはこっちですから」

 僕は目を伏せて小さく言った。このまま動かず石になってしまいたい気分だった。

「そうですか。じゃあ残る手段は正攻法しかなさそうですね」

「……へ?」

 さらりと彼女が発言したので、あやうく聞き逃すところだった。

「正攻法?」

「そりゃそうでしょう。まさか、考えついてすらいないんですか」

 安達さんは呆れたようにため息をついた。胸が上下に小さく揺れる。

「まあ、川谷さんってそういうとこありますよね」

「どういうとこですか!」僕は食い気味に言葉を吐く。「もったいぶらずに、教えてください!」

「いや、あたりまえのことですよ。来々流さんは北大の研究室にいるんですよね」

「そうですよ」

「じゃあ入学すればいいじゃないですか」

「入学」

「普通に受験して」

「受験」


   *


 つくづく、思う。

 理由さえあれば、勉強はこんなにも楽しいものなのか、と。


 あれから一年半後の二月。

 僕は北海道大学理工学部に合格した。


   *


 扉の前に立っていた。

 掲げられたプレートには『芦之谷来々流』の文字。在室表記になっていた。

 かつて、僕が何者でもなかったころ、入ろうとして拒絶された部屋。

 今、僕はこの大学の生徒になった。

 一年生がいきなり教授の部屋を訪ねるなんて、イレギュラーではあるだろう。だが不当ではない。その資格を得るために、僕は一年半の時間をかけたのだ。

 ゆっくりと。

 呼吸を整える。

 いよいよクライマックスだ。

 いや。

 ここからが、僕達の始まりなのだ。


 そして扉をノックしようとした瞬間に背後から聞き覚えのある声が飛ぶ。


「待ってください、川谷さん!」


 童顔で背の低い女性がそこにいた。

 それと巨乳。


   *


「いったいどういうことなんですか、安達さん」

 僕たちは構内の喫茶店に二人で座っていた。窓際の、端の席。外を見れば新入生たちがわいわいと騒いでいた。

「というか、どうしてここにいるんですか」

「私の本業は芦之谷先生の助手です。一緒に研究してるんです」

 それは驚きの事実ではある。しかし謎は全く解決されない。むしろ増えている。

「わかりました、それはいいでしょう。でも、どうして僕を引き止めたんですか。入学したらと勧めてくれたのは、あなたですよ」

「あれは本当はただ励ますつもりだったんです。会える可能性が残されていると、そう希望を持ったまま生きていければ、少しは楽になるんじゃないかと、そう思っただけなんです。まさか、本当に受験するなんて」

「しますよ。するに決まってるじゃないですか」

「それほどまでに、来々流先生に惹かれてるんですね」

「当然です」

 夢日記を読まれている以上、もう隠すこともない感情だった。

「そうですか、そうですよね、やっぱり……」

 彼女は思い詰めたように顔を伏せている。

「安達さん」僕は我慢できずに言葉を続ける。「あなた、いったい何なんですか。何がしたいんですか。何が言いたいんですか。僕にはわからない。さっぱりわからない」

「……わかりました、話します」

 彼女はぐいと顔を上げた。そこには明らかな決意の色があった。

 そして彼女は口を開く。

「川谷さん、七月二十四日に芦之谷来々流が喫茶店で読んでいた文庫本はサイモン・シンの『暗号解読』です」

「は!?」

「八月十二日にあなたが食べたたこ焼きの具はナマコです。私も食べたから間違いありません」

「え!? ええ!?」

「八月二十五日にあなたが図書館で借りようとした本は『バーチャルリアリティ入門』というタイトルでした。これは夢日記にも書いていませんでしたよね。どうしてですか?」

「どうしてそれを!?」

「九月二十四日、芦之谷来々流は湖を泳いで渡りましたけど、現実では芦之谷先生は全くのカナヅチです。そして、私も」

「安達さん、安達さん!」

 僕は言葉を無理矢理さえぎった。

 それはにわかには信じ難い考えだったので台詞にすることをためらった。それでも、きっとそれが真実なのだと、心の底ではわかっていた。

「安達さん」

「はい」

「夢の中の芦之谷来々流は、あなたなんですね?」


   *


 きっかけは、初めて出会った日の冗談だったという。

「私が『このブスって思ってるでしょう』なんて軽口叩いたとき、川谷さん、「そんなこと思ってない」って断言しました。しかも、即答で」

 それだけ。

 たったそれだけのことで、彼女は僕に興味を持った。気になってしかたがなくなった。だから、ある計画を実行に移した。

 以前読んだ論文で、睡眠剤を一定期間飲み続けた人物は薬の睡眠提供者と同じ夢を見るという調査結果が報告されていた。それはかなり再現性の高い現象であるとのことだった。

 彼女は僕から作られた睡眠剤の一錠を、こっそり自分のポケットに入れた。

 もちろん規則違反だ。それどころか法律違反でもある。発覚したら実刑レベルの行動だった。

 誰にも気づかれないように、一粒ずつ、一粒ずつ、ちょろまかしては摂取した。

 そうして、計画通り、彼女の夢は僕の夢とつながった。


「何でわざわざ来々流さんの姿になったりしたんですか」

「睡眠剤を飲んでいるのが私だとバレないように」

「いつも短時間でいなくなったのは、どうして」

「本当はあなたと別れた後も、しばらく夢の世界にいられんです。でも、それが伝わると、ほとんど眠らない芦之谷先生の現状と矛盾するから」

「夢の会話は全部デタラメですか」

「芦之谷先生の口調だけ真似て、あとは全部自分が思ったとおりに話してました」

「考え込むと固まるのも来々流さんの真似ですか」

「あれは……私の、クセです」

 ということは、解凍後のネジの緩んだ姿のほうが、どちらかといえば本当の彼女だったのだ。

「ってことは、現実の来々流さんは、僕のことは……」

「全く知らないと思います」

 僕は呆れたようにコーヒーを一気に飲み干した。

「……川谷さん、怒ってますよね」

「そりゃあ、ずっと騙されていたわけですから」

「そう、ですよね……」

 彼女は肩を小さくしてうなだれている。

 はあ。

 僕は小さくため息をついた。

「安達さん。もう一つだけ訊きたいんですが、僕に九月で終わると告げたとき、ものすごく落ち込んでいましたよね」

「……はい」

「あれって、もしかして、僕に対する罪悪感じゃなくて、単にもう夢の中で僕と会えなくなるから悲しんでただけですか?」

 彼女は言葉に詰まって呻いた。痛いところをつかれたという態度がまるわかりだった。耳まで真っ赤に染まっていた。

「……そ、そう……です」

 消え入りそうな小さな声で。

 でも、たしかに彼女は肯定した。

「わかりました」

 それで僕には十分だった。

「じゃあ、残りの睡眠剤、全部飲んじゃってください」

「へっ?」

「どうせあなたのことだから、全部飲みきったりしないで、保管してあるんでしょう。二、三錠くらいは」

「どうして、それを」

「わかりますよ、それくらい」

 あんなに何度も話したのだから。

「だから、安達さん。それを飲んで、眠らない十何時間を過ごして、そしたら一緒に寝ましょうよ。同じ夢を見ましょうよ。積もる話は、そっちでしませんか」

 僕の言葉に、彼女の顔がぱあっと明るくなる。

 涙目で、にっこりと微笑む。

 くそ。

 僕は心のなかでつぶやく。

 やっぱりブスなんかじゃないじゃないか!


    *


四月九日(日)


「ところで安達さん」

「何ですか」

「結局、僕のこと好きなんですか?」

 その言葉に、彼女は顔を上げて僕を見る。

 じっと見つめる。

 そして、そのまま、首を傾げる。


 あっ。

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来々流さん、寝ましょう。 水池亘 @mizuikewataru

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