第34話 エピローグ
「では、今日はひとまずこれで」
「ばいばーい」
「また今度」
「お、お疲れさまでした……」
皆と別れ、俺と北山さんは繁華街のど真ん中で顔を見合わせた。
ゼミの会合の後、俺は北山さんとある約束を交わしていた。これから一緒にその場所に向かうつもりだった。
「……じゃあ、行こうか」
「はい」
入り組んだ歌舞伎町の路地を進む。いつだかの道玄坂と同様日本有数の歓楽街だが、昼日中に見るそこはまるでひっくり返された玩具箱のようだ。そういった類のホテルとかそういった類の施設が軒を連ねているものの、明るい太陽の下に晒されて悪さも出来ず佇んでいる。
決してやましい気持ちがあるのではない。むしろこんな場所を通るハメになって非常に気まずいのは俺の方だった。歌舞伎町まで送ってくれと頼んだ時も兵頭うざったい反応をされたが、目的地はその中心部にあるのでどうしても通らざるを得ないのだ。
初めて来る場所でも迷わずに済んだのは、絶えずそこから特徴的な音が聞こえていたからだ。
がこん、という機械音に金属が固いものにがぶち当たるようなキーンという快音。
緑のネットが天井から突き抜けた建物の目の前まで歩いて来ると彼女がその手前で足を止めた。
「バッティングセンター……?」
「うん」
「なんでバッティングセンターなんですか、今日は『私が楽しめる場所に連れて行ってください』って」
「だからここ。久しぶりに身体を動かしたいんじゃないかなって」
毎日のように一緒に過ごしていても、彼女の口からソフトボールという言葉が出たことはない。一人暮らしの部屋にはそれに関するものもないし、一緒にご飯を食べていても野球中継だけは決して見ようとはしなかった。その徹底ぶりは興味がないというより努めてそうしているという風にも見えて、余計なお節介心が疼いてしまったのだ。
「帰ります」
「いやいやちょっと待って」
踵を返し、来た道を引き返そうとする腕を掴む。
「せっかく来たんだからやっていこうよ」
「いやです。だって、今日はこんな格好で」
彼女の今日の服装はかぎ編みレースの真っ白なワンピース。ハイウエストの部分で締められた広めの革ベルトがワンポイントになっていて、膝丈のふわりとした裾が可愛らしい。
「? よく似合ってるけど」
「そういう問題じゃない! ……せっかく新しい服で来たのに」
「ああごめん、汗になっちゃうかな?」
「……」
思いきり足を踏まれた。
入り口で押し問答を繰り返すこと十分、何事かと出て来たバッティングセンターのおじさんに「うるさいよお嬢ちゃん達」と叱られ、ようやく観念したらしい。俺達は埃っぽく汗臭い独特の匂いのする建物の中に足を踏み入れた。
平日の昼間ということもあり、十個ほどあるレーンは半分以上が空いていて、きょろきょろと忙しなく辺りを見廻す俺を促して彼女はちょうど真ん中辺りのレーンに入る。
「突っ立ってても邪魔ですから」
用意されているバットの重さを比べるその横顔は諦め半分といった様子だったが、どことなく嬉しそうにも見える。手慣れた様子で打席の準備を整えて行く彼女に「かっとばせー」と気楽な応援を送った。
「私がバット握るのどれくらいぶりだと思ってるんですか。一年ですよ、一年」
「エースで四番だったって聞いたよ」
「誰からそんなことを」
「佐伯さん」
「……」
陽菜子あとで殴る。物騒な言葉が聞こえた。
「……あとで先生にもやってもらいますからね」
「えっ無理だよ!」
「ここを選んだのは先生でしょう、私だけじゃ平等じゃありません」
自慢じゃないが俺は生まれてこの方自発的にスポーツをしたことがない。最後にやったのは大学一年の必修で行ったスキーだった。初日に思いっきりすっ転んで捻挫したため残りの日程は宿で本を読んで過ごすという、相当ボロい単位だった。
「いやでも、やったことないし」
「初心者用のレーンがあるから大丈夫です」
「当たんなかったら恥ずかしいし」
「ちゃんと指導してあげますよ」
「……スカートのままだし」
「私の格好見てから言ってます?」
すみませんでした。頷かざるを得ない。
「そろそろ来ますよ。危ないから離れててください」
すごすごと背面のネットから離れ、備え付けのベンチに座る。
ウィーンと起動の機械音が鳴り響く。バッターボックスから約十八メートル離れたマウンドにはスクリーンが貼ってあって、名前は知らないが顔は見たことがあるプロ野球選手が映し出されている。てっきりむき出しの機械が投げてくるのかと思っていたら最近のバッティングセンターではこうなっていることが普通らしい。ピッチャーの映像があった方が臨場感が出て、スイングのタイミングも合わせやすいのだと彼女は手短に説明してくれた。
華奢なミュールを履いた足を大きく開き、まっすぐ背筋を伸ばしてバットを構える。素人目にも無駄のない綺麗な姿勢だった。投球開始のカウントダウンが5から映し出される。
「先生」
背中越しに彼女が俺を呼ぶ。八年前から変わらない、俺への呼び名。
「ん?」
4、3。
「もしホームランを打ったら、なにかご褒美を貰えますか」
「ご褒美?」
ここに無理やり連れてきたのは俺だし、そんなことで彼女がやる気になってくれるならばと安いものだ。いいよと答えれば、背中越しに彼女が微笑んだのが分かった。
「じゃあ」
2。
「先生は、永遠に、私の下僕!」
1。
「え、ちょ」
不吉すぎる宣言をされた直後の―初球。
内角甘めに入った100キロのストレートを、彼女はフルスイングで打ち抜いた。
見事としか言えない完璧なフォームから繰り出されたバッティングは、この日一番の快音を夏空に響かせる。弾き返された球はバックネットへと飛んで、ホームランと書かれた小さな的へ迷うことなく向かって行った。
光源氏には向いてない キョン子 @kyonturbo
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