第33話 紫の上
「遅いです」
待ち合わせ場所に辿り着いた時、既に北山さんはお冠だった。
ちなみに今現在は午後三時。約束していた時刻ぴったりだ。最近いろんなことが起こり過ぎてすっかり失念していたが彼女より遅く来ることイコール遅刻になるのは下僕生活においては基本事項だった。
「ごめん。ばあちゃんの呼び出しが長引いちゃって」
「嘘。その後一時間くらい本村先生たちとお喋りしてたくせに」
「なんで知って」
「兵頭さんがメールで教えてくれました」
あの野郎いつの間に、といきり立って振り返ってみても路地の入り口まで送ってくれた黒のフォルクスワーゲンゴルフの姿はもうどこにも見当たらない。……くそ、次会った時覚えてろ。
「待たせた罰に、今日は全部先生のおごりですよ」
「……待たせなくてもそうするつもりだったくせに……」
「なにか言いました?」
「あ、いえ、なんでも」
「すごいすごーい、話には聞いてたけど本当に二人ってそういう関係なんだー」
俺と北山さんのやり取りを見て、茅野さんが嬉しそうに手を叩く。その瞳は新しい玩具を見つけた子供のようにきらきらとしていて、可愛らしいけれど俺にとっては物騒でしかない。
「……茅野さん、その言い方、誤解を招くからやめてくれる?」
「ごめんごめん。でもあたし、二人が仲直りしてくれて嬉しいんだよ?」
口先では謝っているものの多分反省はしていないだろう。しかし、茅野さんに真摯な謝罪を求める方が骨が折れるというものだ。
――あの雨の日の後、北山さんは自主ゼミに復帰した。
俺と北山さんの間に齟齬があって関係に不和が生じていたことを、ゼミの皆はなんとなく察していたらしい。北山さんの復帰に伴い(大分詳細は省いたものの)事情を説明する段になって、彼女は俺と昔馴染みであることを暴露したのだ。
……いや、昔馴染みというだけならまだ良い。彼女はそれ以来すっかり俺への対応を変化させ、自主ゼミにおいても俺を下僕扱いするようになったのだ。俺としては講師という立場というものがあるので出来ればその辺りは隠しておきたかったが、彼女曰く『偽っているという罪悪感が、仲が深まる度に大きくなっていくのに耐えられなくて』云々。どこかで聞いたことのある論理を持ち出され、俺は頷かざるを得なかった。……勿論、拒否権など初めから与えられていないのだけれど。
「いいじゃないですか、下僕と主従なんて、そそられる響きです」
ぽん、と爽やかに肩を叩かれる。
「……良ければ代わってあげようか、諸見里さん」
「遠慮しておきます。特定のお姫様を作ると皆からのヤキモチが怖いですからね」
イケメンにのみ許された台詞を堂々と吐く女子大生。末恐ろしい気持ちで眺めていると、諸見里さんの背中から顔を半分覗かせた末松さんと目があった。まだ三秒以上目を合わせてもらえないが、幼馴染の非礼を詫びたいのだろう。……多分。
「まあまあ、とりあえず立ち話もなんですから。カフェにでも行きましょう」
碇屋さんがそう言うと全員が賛成の声を上げた。まとまりのないメンバーの中で碇屋さんのリーダーシップと気遣いは涙が出そうなほどありがたい。先導され移動をし始めると、ぐい、と肘を掴まれた。
「うわっ、なに?」
「……なにか、大事な報告忘れてませんか」
不満げに頬を膨らませた彼女が下から俺を睨み付ける。はたと思い当たる。そうだった。俺はまだ大切なことを彼女に告げていない。
「お咎めは、なしだって」
「……」
大きな目が伏せられ、白い頬に影が落ちる。言葉はなくとも吐いた息が震えていた。
もう、それだけで十分だった。
「じゃあ、オープンキャンパスは先生が?」
「うん、そうなんだ」
さすが碇屋さんの行きつけだというカフェは繁華街のメインストリートを一本外れた場所にあり、都心のど真ん中にありながら喧噪とは別世界の落ち着きがあった。物静かな空間に珈琲のサイフォンの音が響いている。
「ば……伊藤教授に、今回の騒動の責任を取ってオープンキャンパスの陣頭指揮を任されてしまって……」
「まぁ」
「あはは、琴江ちゃん超言いそう」
「体良く押し付けられたってことだね」
「み、みちる、駄目だよそんなにはっきり言っちゃ」
オープンキャンパスは八月の頭を予定している。ということは、残り日数はもう既に二十日しかないということだ。
今年は全学部全学科が参加するという話になっているため担当する子供たちは五十人程度だが、それでも一日を掛けて楽しんでもらえるものを作らないといけない。日文の教授達は相変わらず呑気かつマイペースだったし、ばあちゃん自身も多忙を極めている。ということで、孫でありヒエラルキーの最も下っ端である俺にお鉢が回って来たという訳だ。
「私たちで宜しければ勿論お手伝い致しますが……具体的にはなにをすれば?」
「まだ、なにも決まってないんですって」
俺の代わりにさっくりと答えたのは北山さんだ。上品に紅茶を啜りながら答える。
「散々悩んだけど、日文に関係することで子供が喜ぶようなことなんて分からないから、私たちに意見を聞きたいそうです」
「まあ」
「……そういうことです」
例えば学会形式にして平安文学の論文を発表するだけならいくらでも出来るが、それが小学生を対象にしたオープンキャンパスの出し物として最高に面白くないことくらいは分かっている。若かりし俺にとっては天国でも、イマドキの女の子……の更に若い子たちにはずっと椅子に座っていることだけでも苦痛に等しいだろう。
史学は発掘体験で英文は英語劇、他の学部も子どもたちの興味を引く出し物を企画しているという。あくまで夏休みの課題の一環なのでランキングをつけられる訳でもないが、ダントツで日文が面白くなかったと評価を食らえば面目丸つぶれ。学長であるばあちゃんの顔にも泥を塗ることになってしまう。引いては、未来の入学者を失うことになってしまうかもしれない。ただでさえマイナーな学科だ、学生数の減少は避けたい。だから、馴染みのある面子に自由な案を募ってみることにしたのだ。
「平安文学を学ぶにはまず漢詩から、ということで、漢詩創作体験というのはどうでしょう?」
「……うーん、小学生にはちょっと難しすぎない?」
「はいはい! 古典の面白話なんかどう? 本当に怖いグリム童話的に、『本当は怖い平安文学』! 鬼とか蛇とか妖怪とか集めてみましたスペシャル!」
「小さい子を怖がらせるのはちょっと……」
「華は? なにがいい?」
「え、ええと、やっぱり分かりやすいなら『竹取物語』とか……」
「じゃ、私もそれで」
「みちるセンパーイ、自分の意見を持とうよー」
案はほろほろと出てくるものの、中々これだというものに巡り合えない。
うーんと全員で頭を悩ませていると、それまで静かに考え込んでいた北山さんがぽつりと呟いた。
「……源氏物語の、女君達を紹介するっていうのは?」
「紹介?」
解説ということか、と問えば彼女は首を振る。
「難しいお話だと子どもたちは飽きちゃうじゃないですか。だから、あくまで普通の女の人として紹介するんです。例えば」
北山さんは碇屋さんに目を向ける。
「夕子先輩に夕顔になってもらうんです」
「私が? 夕顔?」
夕顔とは源氏が十七歳の時に偶然出会う女君だ。身分は低いものの女性らしく頼り無さげで優しく、源氏のオアシスのような存在として描かれている。儚げな外見そのままに夕顔は若くして亡くなってしまうが、その後も事ある毎に源氏は彼女を偲び、永遠の存在として物語中に漂い続けることとなる。自主ゼミの発表でも、碇屋さんは夕顔についてそう纏めていた。
例えば碇屋さんなら夕顔というように、ゼミ員それぞれが女君を演じることで子どもたちに源氏物語の登場人物を身近に感じて貰う。グループに別れてそれぞれの話を聞いてもらって最後はどの女君が一番好きか、または誰が源氏に相応しいかを討論してもらう……。そうすれば参加型のイベントになるし、ディベートは教師受けも良い。そしてなにより女の子は恋の話が大好きだ。
なるほど、さすがオープンキャンパス経験者は目の付け所が違う。
「それって、あたしたちも女君になりきるってこと?」
「そういうことです。ちょっと人数が足りないけど、そこは許して貰うとして」
「面白そう! じゃあ私、朧月夜がいい!」
朧月夜は情熱的で激しく、恋に奔放な女君だ。平安の姫君は奥ゆかしい深窓の令嬢が多い中、自分の気持ちに素直で行動的という珍しいタイプでもある。男性研究者の間では夕顔と人気を二分する女君だ。確かにどことなく茅野さんに通じるものがある。
「えー、じゃあ私は?」
「みちるは……そうね、一番似合うのは源氏の君だと思うけど」
「み、みちるは、花散里だと思う」
珍しく断言する口調の末松さんに、皆の視線が集まる。
「花散里ぉ? みちるセンパイにしては地味じゃない?」
「そ、そんなことないよ。花散里って面倒見がいいし、優しいし落ち着いてるし、あったかい人だし、源氏にだって頼りにされてたんだよ。だから絶対、花散里だと思う」
「うん、華が言うなら私はそれでいいよ」
「もー、適当だなぁ。じゃあそういう華センパイは?」
「わ、わたしは……」
極度の恥ずかしがりという点で言うなら末摘花だろう。容姿の不出来さばかりが印象づけられているが、心映えは純粋な姫君だ。世間知らずなため堅苦しく、たまに想定外のことをしてのけるが、そこがまた放っておけない魅力でもあり、源氏が終生お世話をした女君だ。自主ゼミで末松さんがテーマとして取り上げていたこともあって、その論には全員が納得していた。
そして、話は北山さんへと戻って来た。北山さんに似合う女君は――。
「――紫の上」
しまった、と思ったがもう遅い。
思わず零してしまった言葉に全員が俺の方を向いた。
「かな、なんて、思ったり……して……」
隣に座る彼女からの不満そうな視線を感じて、背中には妙な悪寒が伝った。
しかし。他の四人はうんうんと納得の頷きを見せる。
「そうですね、紫は絶対に紫の上だわ」
「うんうん、名前からして同じだし」
「幼妻ってところが妙にハマるしね」
「わ、わたしもそう思う……!」
「……そう、ですか?」
俺以外の四人が紫の上を推したことで、振り上げかけた拳を収めてくれたらしい。……心底から良かったと思う。
(バレずに済んだ)
「じゃあ、紫の案で行きましょう。では、今後のスケジュールですが……」
「……先生」
「な、なに」
「……もしかして、兵頭さんからなにか聞きましたか」
碇屋さんがまとめに入っている最中、小さな声で凄まれ、俺は慌てて首を振る。
「え? な、なにも?」
「……」
「ほ、本当だよ! なにもないって!」
――あ、そうそう、あともう一個。
さっき、車の中で聞いた兵頭の言葉を思い返す。
『いつだか俺、紫の上計画の話したじゃん』
兵頭曰く、『ちっちゃい可愛い女の子を自分好みに育ててく』という源氏物語に対して悪意しか感じられないアレだ。一度試しにパソコンで検索を掛けてみたら思いのほか人口に膾炙しているらしく、次から次へと検索結果を表示されたのですぐにブラウザを閉じた。
それがなに、と尋ねれば、兵頭は自信ありげに胸を張った。
『あれさ、よく考えたらおまえとゆかりんのことみたいじゃん? だってほら、ゆかりんに源氏物語教えたのっておまえなんだろ? ちっちゃな女の子に自分が好きなものを教えて、自分好みに育て上げる。ほら、ぴったり』
空いた口が塞がらなかった。こいつは源氏をばかにするだけでなく、俺を幼女好みの好色家とでも言いたいのだろうか?
『えー、だめ? ゆかりんも同意してくれたぜ?』
『……おまえ、北山さんにもそんなこと言ったのか』
『え、うん』
血の気が音を立てて引いた。思いきり嫌そうな顔をする彼女の表情が容易に想像出来た。よりによって紫の上が嫌いだと公言してる人に対してなんて余計なことを。
『えー、でも笑ってたぜ』
『……その下では怒ってるんだよ』
彼女にとっての紫の上は『源氏に追従する自分の意志がないお人形』だった。攫われていいように調教され結局不幸なまま死んで行くなんて、と非難囂々だった。
理想の女君として繰り返し作中に描かれて来た紫の上は、晩年、世の無情に心を痛め病に臥せた。紫の上は出家を望んだが、夫である源氏は自分を置いて行くのかとその願いを許すことはなかった。長年連れ添った夫を見捨てられず、結局紫の上はそのまま儚くなってしまうのだが、それなら自分で尼寺にでも駆け込めば良かったのにと彼女は憤っていたっけ。女だってなんでも自分でも出来るようにならないといけない……あれ、なんだか似たような台詞をどこかでも聞いたような?
『いやいや、確かに嫌いだって言ってたんだけどさ。聞くべきはその次の台詞よ』
『……次の台詞?』
なんでそんなに紫の上が嫌いなの、と尋ねた兵頭に対して、彼女は少し恥ずかしそうにこう言ったのだという。
『初恋を拗らせて、そこからハマって抜けられない。……要するに、同族嫌悪ってやつです』。
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