第5話 最後までそばにいさせてと友は言った

 とりあえず町まで行ってみよう、そんな話をしてから言葉が途切れた。

 風はひんやりしているけれど、足早に歩いているせいかそれほど寒くない。

 手を伸ばしたら握り返してくれた。サヤの手はすっかり温まっていて、少し汗ばんでいる。


 お人身さまを必要としない、阿芽アメを止める方法について考えた。

 何も思いつかないことが悔しかった。

 そんなものがあるならきっと村はとっくにやっているんだろう。だけど昔は見つからなくても今なら見つかるかもしれない。この近くにはなくても遠くまで行けば答えがあるかもしれない。その期待を捨てたくない。


 阿芽がどうして沼の水を噴き上げるのか、原因は野矢芽ノヤメの花にあるのではないかという噂がある。

 野矢芽の花は水中で咲く。

 けっして太くはないのに滅多に折れないという頑丈な茎の横から、葉っぱのように肉厚の、緑色の花が咲く。

 その花を食べて阿芽は育つ。小魚や落ちてきた木の実なんかも食べるという。


 阿芽が水噴きをするのは食中毒みたいなもので、花の毒を蓄積することで凶暴化するのではないか、と言われている。空腹を満たして興奮状態が収まるか、あるいは人体の何かが毒を中和するのではないかと。

 けれど確証は何もなかった。そもそも野矢芽の花に毒があるのかどうかもわからない。すべて憶測だ。


 村から離れるほどに雨がどんどん弱まり、気づけば完全にやんでいた。

 道の両脇に田んぼがひろがっている。ここはもう、隣村の田んぼだ。

 どちらからともなく足が止まってしまった。行く先も背後も闇だった。


「フウナは、あと二、三年でお婿さんをもらうんでしょ?」


 唐突にサヤが切り出した。


「ええ? どうかなあ。そんな話は聞いてないけど」

「きっともうすぐだよ。うちのお母さんは十六の時だったって」

「うちは……えっと、十九歳って言ってたかな?」

「そしたらあと五年以内には結婚するねえ」

「どうなのかなあ」

「結婚したらさ、子供を産んでね。一人といわず、三人でも五人でも」

「えええ?」

「そのなかの一人が、わたしかも、だから」

「え?」

「わたし、フウナの子供に生まれ変わりたいな」

「生まれ変わるって……なに言ってるの?」


 にっこりと笑うサヤを見つめた。嫌な予感がした。


「わたし、村が好きだよ。みんな大好き。フウナのことも大好き。だからもう、いいよ。フウナ、もういい。戻ろう」

「え」

「祭司さま、気づいてるよ。気づいてたよきっと。わざと逃がしてくれたんだよ。わたしが戻らなかったら、かわりに誰かが飛び込むんだよ。そんなのやだから、それだったらわたしが行くよ」

「サヤ」

「ほかの方法、あるなら見つけたいけど。きっと、ないよ。あっても間に合わないよ」

「そんなこと、でも、」

「沼に入ってくれって言われてからね」


 ふいにサヤの声が乱れた。泣きそうになるのをこらえたように、揺らいだ。


「ずっと怖かった。怖くて怖くて眠れなかった。村を救うんだって言われても、そんな簡単に受け入れられないよ。こんなの嘘だって思った」


 でもね、とサヤが息を吐く。どこかさっぱりしたように、優しさと親しみをにじませて微笑んでいる。


「でもフウナが来てくれた。助けたいって連れ出してくれた。だからね、まだ怖いのは消えないんだけど、それでもね、わたし、沼に入ることにした」

「やだよ。やだ。いかないでよ。離れたくないよ」

「ごめんね」


 手が離れた。

 からっぽになった手のひらがこんなに寂しいものだなんて知らなかった。


「フウナは優しい。来てくれて本当に嬉しかった。サヤひとりに背負わせたくないって言ってくれたの、すごく胸にしみた。ありがとう。でもフウナが強くないことはよく知ってる。これ以上一緒にいてもつらい思いさせるだけだから、村まで戻って、そこでお別れしよう。沼にはわたしひとりで行く」


 サヤの笑顔を見つめ返した。

 迷いの影を探した。

 逃げたい、生きたいっていう光がないかを探した。

 サヤの笑顔は、崩れなかった。


 もう決めちゃったんだね。

 もう引き止められないんだね。

 もう、どうにもできないんだね。


「わかった」


 そう言うしかなかった。

 嫌だったけど、今すぐサヤの手を取って遠くまで走りたいけど、サヤはもう決めてしまったんだ。

 自分のかわりに誰かがお人身さまになる、というのを嫌がるサヤの気持ちもわかる。サヤはそういう子だ。与えられた役目から逃げるなんてサヤが選ぶはずなかった。知ってた。それでも足掻きたかった。

 だけどもう、ここまでだ。

 怖いなあ。

 足が震えそうだ。

 だけど、だったらせめて、せめて寄り添いたい。


「だけどサヤ、わたしは強くないけど、サヤをひとりにしないっていう覚悟はできてるんだよ。沼までついて行きたい。サヤが決めたなら、その覚悟を一緒に背負いたいよ」


 サヤの瞳が濡れて光った。

 今までよりもほどけた笑顔を見せてくれた。


「一緒に飛び込むって言ってくれたぐらいだもんね。うん、じゃあ沼まで一緒に来て。最後までそばにいさせてね」


 わたしがこう言うのを待っていたみたいな、口ではお別れを告げながら、本当はもっと一緒にいたい、そんな心が見えた。そういう笑顔だった。


 胸が痛いよ、サヤ。


「でも、フウナは飛び込んじゃだめだよ。わたしが生まれ変われなくなっちゃうから」


 おどけた調子で言うと、わたしの手を取って歩き出した。

 からっぽのまま冷えていくだけだった手にぬくもりが戻る。

 サヤの体温。

 サヤが生きているという証。

 一緒にいるのだという事実。


 どうしてサヤなのかな。

 どうして残るのがわたしなのかな。

 どうしてこうなっちゃったのかな。


 もう何もできないなんて、悔しくてしょうがないよ。






 他愛のない話ばかりをした。

 隣村にかっこいい男の子がいるらしいとか、誰が誰を好きらしいとかいう恋の話や、昔よくやった遊びとか、つい最近の失敗談とか、こうやって夜に二人で抜け出したことが前にもあったねとか。

 恋人のいる別の村まで出掛けていたというサヤのお兄さんが、夕方にサヤを訪ねてきたという話も聞いた。言葉少なに抱きしめてくれたらしい。

 サヤは誰の奥さんにもならず、お母さんになることもできないんだなと思って、泣きたくて仕方なかった。それでも笑って、なんでもない話を続けた。ひたすら明るく、できるだけ楽しく歩いた。


 笑っていてほしかったから。

 笑っていたかったから。


 今夜が晴れていてよかったと心底思った。月が明るくて、星が綺麗で本当によかった。

 サヤが何度も夜空を見上げていたから。綺麗だねえ、と笑っていたから。




 村を通り過ぎた。

 雨がどんどん強まり、空は白んできた。もうそろそろ早起きの村人が外に出てくるだろう。

 次第に高まる恐怖を押し隠して会話を続ける。握る手に力をこめて笑い合う。

 髪も服も草鞋も、濡れて肌に張りついている。

 少しでも長く一緒にいたいのに、とうとう騒がしい沼が見えてきた。この激しい水しぶきのなかでも野矢芽は折れずに立ち続けているようだった。


 沼に続く道のなかばに人が立っていた。

 頭からすっぽり外套をかぶったその人は、祭司さまだった。

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